大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年01月26日 | 祭り

<512> 若草山の山焼き

        山焼きに 呼応するごと 冬の月

 大寒は過ぎたが、第一級の寒気団が日本列島を被い、日本海側は各地で大雪に見舞われ、太平洋側でも季節風が強く、二十六日の土曜日は大和も寒さの底を思わせる厳しい一日になった。一月の第四土曜日は奈良・若草山の山焼きで、この寒さとときおり吹く強い風の中で行なわれた。山焼きの詳細は<148>を参照願いたい。

                                                                   

 二十六日は月齢十五日で、満月に当たる。月ははじめ厚い雲に隠れていたが、山焼きの始まる午後六時半ごろになると顔を出し、皓々と照って、山焼きと呼応するごとくに見えた。山焼きは風があるためよく燃え、午後七時にはほぼ全山を焼いた。写真左は奈良市街の明かりの帯の奥で雲を赤く染めながら燃える若草山の山焼き。おりしも満月が照り輝いていた。(大和郡山市山田町で)。右は山焼きのアップ(昨年撮影分)。


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2013年01月25日 | 写詩・写歌・写俳

<511> 後鳥羽院と源実朝

          かたや萩 かたや菊花の そのこころ まして思ふに うつろふところ

 後鳥羽院に触れたので、院に因縁の浅からなかった鎌倉幕府の三代将軍源実朝と院の歌を比較してみるのも意義のあることではないかと思われ、試みてみた。時は貴族から武家への権勢移行の時代で、その時代の流れに呑み込まれていった二人であったが、その二人の歌の比較の眺めは、個人的な人間関係のみならず、権勢の行方を加味した当時の時代様相を含むもので、興味が持たれるところである。まずは、両者の花を詠んだ代表的な歌をあげてみたいと思う。

   白菊に人の心ぞ知られけるうつろひにけり霜もおきあへず                                                                後鳥羽院

   萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきが儚さ                                                             源 実 朝

 菊と萩。この花に寄せる院と実朝の思い。殊に院の菊への執着は強く、今日皇室が用いている菊花紋は院に発していると言われるほどである。で、この歌における二人の思いは何か似通うものがあるように思われるが、気質の違いがあるように感じられる。二人とも同時代の頂点にあって、国を治める立場にして、その思いを歌にも託しているわけであるが、ほかの歌にも気質の違いが見て取れる。一方が天皇、一方が将軍という違い。都会人と田舎人、その自信とコンプレックス。比べれば、そんなところも見え隠れする。しかし、一口に言えば、気質の違い。これが言えるように思われる。

                                                       

 先人に影響を受けるということは誰にもあるが、受ける側の資質や環境によって受け取り方の異なって来るのは当然で、先人の歌に込められた恋の条におけるところの同じ歌枕の下野の名所、室(むろ)の八島を詠んだ歌にも、院と実朝の違いが見て取れる。

   よそふべき室の八島も遠ければ思ひのけぶりいかがまがはん                                                          後鳥羽院

   ながむればさびしくもあるか煙立つ室の八島の雪の下もえ                                                                源 実 朝

 託すべき煙は同じ煙でも、煙に対する心持ちが違う。それが歌にも顕現している。二首を比較し、その心持ちを思うに、矛(能動)と盾(受動)ほどの違いが感じられ、二人の立場と気質の違いがわかる。もっとはっきりした例で言えば、以下の歌をあげることが出来る。一読、その違いは歴然である。

   我こそは新島守よおきの海の荒き浪風こころして吹け                                                                   後鳥羽院

   時によりすぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ                                                                 源 実 朝

 この二首には天変に対する歌であるという共通点があるが、歌の様相は、院の方が天を従える気息をもって詠まれているのに対し、実朝の方には天に祈りを捧げる気分が見える。つまり、支配と従属。二人の人柄を思うとき、この相違は実に大きい。院は配流の身となり、実朝は暗殺され、二人とも悲劇の人になるが、悲劇はそれぞれが持つ気質に絡められていった結果と言ってよく、その異なる気質が二人の命運にも現れたような気がする。

   実朝と 院においての 関はりに 時は冴えつつ 過ぎしを思ふ

  院は文武両道に秀でた人物と言われ、都にあって武士の台頭著しい鎌倉を抑えんとし、実朝を調伏したという伝説の持ち主で、後に承久の乱を起こして鎌倉方と戦い、これに敗れて隠岐に流される身となるが、絶海の孤島にあっても歌に執着し、『新古今和歌集』を捻りに捻って削除精選を行ない、隠岐本『新古今和歌集』をなすに至った行動の人であった。

  一方、実朝は鎌倉にあって、兄の頼家同様、意にならない政治的状況に置かれ、院による調伏という憎しみの的にありながら、都にあこがれ、藤原定家に歌を習い、「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」というような院への忠誠の歌も作って、位階に執着する一方、船を造らせて渡宋の計画を立てるなど、逃避的行動にも出る暗い予兆の中で、甥の公暁によって暗殺され、二十八歳の若さでこの世を去る温和で純朴な性格の持ち主という印象が強い。

 院の新島守の歌は隠岐配流後の作であることは言うまでもない。中には「夕暮のそらだのめせで来る雁をわが思ふ人と思はましかば」というような弱気な気持ちを吐露するような歌もないではないが、孤島に配流され置かれた環境の激変は筆舌の及ぶところではなく、その心境を思えば、院にしてすら、と、その身の置きどころが思われるということになる。

 釈迢空は帝王の歌を「至尊風」と呼んだが、院の歌はまさに迢空の指摘する通り、その調べはどっしりとして格調の高い男歌の典型と言ってよい。では、実朝の歌はどう言えばよいであろうか。万葉調の益荒男的歌もないではないが、それは勉強の結果によるもので、実朝生来の気息によるものではなく、真似歌の域を出ないもののように思われる。で、萩の花のような歌が実朝本来の調べではないかという気がする。今一つの比較を見ると、以下の歌が思われる。

     人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は                                                              後鳥羽院

     世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも                                                              源 実 朝

  この二首は定家の『小倉百人一首』に採られた歌で、実朝の歌の「海人」を本人の比喩と見なして読むと、両歌ともこの世を思う為政者の心情というものが浮かび上がって来るのがわかる。ともに思いはままならず、そこに歌は成立しているのであるが、なお、思いに悶々とする院に対し、悲しいと歎く実朝の違いが見える。まさに、選者定家の鋭い感覚の冴えが示されているところである。

 このように、二人は、権勢の頂にありながら、立場の違いと異なる気質によって運命的な確執を持ち、歌という共通の表現方法を用いて世に問うところとなったわけであるが、その心のありようをうかがえば、例えば、かたや萩、かたや菊の花に寄せるその心が思われて来る次第である。ましてや、その移ろう花を思えば、冒頭にあげた二首は、院の「白菊」が二十歳、実朝の「萩の花」が二十二歳の作で、悲劇に傾斜してゆく二人のそれぞれの行く末を暗示しているかに受け取れるのである。  写真は左が菊花。右が萩。

 

 


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2013年01月24日 | 写詩・写歌・写俳

<510> 後鳥羽院に寄せて

         怒濤氷雨 流竄のこころ 打ち据ゑて 写す都の 月と花こそ

 藤原定家に触れたが、定家と因縁浅からなかった後鳥羽院に触れないでは落ち着かないので、この項では少し後鳥羽院に触れて、私の院に対する感懐というものを述べてみたいと思う。以下は、以前に記したもので、短歌も等しく、多少気負いが感じられるように見えるが、これは年齢によるものと思われる。

  人は厳しい境遇(環境)に置かれるとき、ときとしてその境遇に身を縛られながら、それに屈せず偉業を成し遂げることがある。それは、境遇が心身の集中をなさしめる所以ではなかろうか。『史記』を書き上げた司馬遷がよい例であろうが、「やまとうた」に心を注ぎ、配流の身という縛られた環境の下で、歌に意力を集中させ流竄の日々を送った後鳥羽院にも言えることではなかろうか。

  院は、承久三年(一二二一年)四十二歳のとき、西面の武士団を結成し、執権北条義時追討の院宣を下し、台頭する鎌倉幕府に対し、承久の乱を起こすに及んだ。しかし、これに敗れ、隠岐に流された。以後、六十歳で世を去るまでの十九年の間、孤島の隠岐を脱出することなく、この地で生涯を終えた。

                                         

  この間、歌に情熱を注ぎ、『遠島百首』をはじめ、『後鳥羽院御自歌合』、『後鳥羽院御口伝』、『時代不同歌合』、『遠島五百首』、『遠島歌合』等々をなしたが、端倪を許さない美の追求者として『新古今和歌集』に執着し、歌の削除精選を行い、隠岐本『新古今和歌集』を成し遂げたのであった。この歌への執着がよかったかどうかは後世の評を待つほかないが、隠岐本一つを見ても、院の歌に対する執心一途な思いが伝わって来る。

 そして、後世は色々と論評を加えて来たが、院の推敲の美は、袖のうちそとにして思いを重ね、見据えたものであったと言えよう。袖とは現実と夢との間に存在する思いの在処にほかならない。その袖に秘めた、例えば、都の月と花がそこにはありありとうかがえる。では、院に寄せる袖をテーマにして詠んだ歌を幾首かあげてみたい。

     帝王の春を思へば水無瀬あり思ひの袖は香るばかりぞ

    初度百首朗々玲瓏まさによしこころごころに袖ぞ香れる

    水無月の葉裏を返す風の鳴り群を率いて帝王の袖

    遠島の袖に詩歌ぞまさりけるありし水無瀬の夕ごころかな

    移ろへど移ろはぬ袖月冴えて遠島百首まさに歌とは

    ゆゑにしてありける歌ぞ執着の思ひの袖は何に乱るる

    祝儀なき隠岐本思ふ波間には怒りの袖の影ぞ見えける

    凛々と秋より冬へ帝王の袖のうちなる歌をかなしめ

    死も狂も孤独も袖に圧し据ゑてこころにやりし歌の断崖(きりぎし)

    陰々と滅後を語るものあらば片敷く袖のその在処(ありか)こそ

    見しや袖万般深き愛憎の隠岐院(おきのいん)とは呼ばれけるかも

    帝王の袖に思ひの調べこそほかに誰あるその歌ごころ

    帝王の袖に思ひの日月を雁は幾たび渡りしならむ

    貫きし思ひはるけくあるからは惨にあれども帝王の袖

  そして、院に寄せる歌、更なる六首。

    うしといふよしこのよしのうしのうたおもふがゆゑのうしとこそみよ

    院定家良経式子ありかつ来(く)家隆西行実朝の声

    後鳥羽院御口伝ひとり読み返す天性のこと斟酌のこと

    言ひ据ゑて「更に聞くに及ばず」と止めし筆墨氷雨に思ふ

    収斂は歌に対ひてなされけむ歌とはまさに尽きざる思ひ

    身は歌へ歌はこころに 独り居の隠岐に悲しき住の江の月

 後鳥羽院(第八十二代後鳥羽天皇)――名は尊成(たかなり)。(一一八〇~一二三九年)。高倉天皇の第四皇子、母は坊門信隆の女殖子(しょくし)。一一八三年に平家の都落ちの直後に後白河法皇の院宣によって即位した。一一九八年土御門天皇に譲位し、順徳、仲恭の代まで院政を行なった。この間、鎌倉と対峙し、朝権の復活を期して西面の武士団をつくり、鎌倉幕府と一戦を交え、承久の乱を起こすに至ったが、これに失敗し、隠岐に流された。そして、世は北条氏の時代となる。

  文武に才能を誇り、自ら『新古今和歌集』を撰し、敗戦による流竄の後も撰に執着したことはよく知られるところである。定家とは和歌の道を同じくし、定家の歌に理解を示し、定家の歌の道を開いたが、後年に定家が源実朝の歌の指導に当たるころから確執が生じるようになり、結果、袂を分かつに至った。 写真は月と花。

 


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2013年01月23日 | 写詩・写歌・写俳

<509> 中世の歌人 藤原定家

           持続せる ことは即ち 無事のゆゑ 思へば定家に 『明月記』 あり

  この度、持続と無事に関わる例として、王朝末期、中世の歌人藤原定家に少し触れたが、この項で今少し定家について述べてみたいと思う。彼の一途がどのように展開し、偉業につながったか。年次を追って見てみよう。結論から言えば、彼の業績(偉業)は彼の一途な、つまり、持続より生まれたということであり、その持続は無事を意味するものゆえに、無事こそが彼の偉業に繋がったということである。そして、そこにはストイックということが見えて来るのである。

 定家の日記『明月記』は、治承四年(一一八〇年)十九歳の二月五日に始まり、嘉禎元年(一二三五年)七十四歳の十二月三十日まで書かれている。断簡甚だしく、伝本も多くあって、巻数、年次に異同があるけれども、その間五十五年、とにかく、書き続けられたわけである。定家の生きた時代は源平の盛衰に始まる公家の衰退、武家の台頭という激動最たる世の中であった。それを思うと、日記はよく書き続けられたと言える。

                                                   

 『明月記』の書き出し、十九歳の治承四年は、平清盛が治世の一新を期して福原(神戸)に遷都を敢行し、清盛の命によって平重衡が意に服さない東大寺をはじめとする南都の諸大寺を焼き討ちにした。こうした都の状況下、源三位頼政が以仁王を奉じて起った。頼政は敗死し、以仁王も亡くなるが、満を持していた源頼朝と木曽義仲の源氏勢がそれぞれ挙兵するというまさに激動の始まりを告げる年だった。また、この年、和歌興隆に情熱を注ぎ、『新古今和歌集』を世に出して、歌における定家に多大な影響を及ぼした後鳥羽帝が誕生した。

  以後、養和元年(一一八一年)には高倉院が崩御。続いて、南都諸大寺焼き討ちの仏罰覿面と言われた平清盛の死があり、平家の都落ちが始まった。文治元年(一一八五年)幼い安徳帝をはじめ、平家一門が壇の浦に亡び、後鳥羽帝の即位を見た。九条兼実が摂政となって時代は一変し、定家の和歌への道に明るい兆しが見えた。

  同六年(一一九〇年)には西行が「願はくば花の下にて春死なむその如月の望月のころ」と詠んだ思いを叶え二月十六日死去。建久三年(一一九二年)には後白河院が崩御し、頼朝が征夷大将軍となって鎌倉幕府を開き、武家政治に着手し、貴族政治、王朝時代の終焉を告げた。

  頼朝は合戦に功を遂げた範頼と義経の二人の弟を処分し、体制を確固たるものにしたが、正治元年(一一九九年)に歿し、嫡子頼家が二代将軍になった。しかし、頼家は元久元年(一二〇四年)政変によって殺された。この年父俊成が歿し、母の美福門院加賀が建久四年(一一九三年)すでに亡くなっており、定家はこのとき父も母も亡くしたのであった。ときに、四十三歳だった。

 以後、建仁元年(一二〇一年)には、親交のあったと指摘される閨秀歌人で知られる式子内親王(後白河天皇皇女)が歿し、建永元年(一二〇六年)には、定家のバックボーンであった九条家に不幸が続き、まず、嫡子で摂政太政大臣の藤原良経が怪死し、その後を追うように、翌、承元元年(一二〇七年)に父の兼実も世を去った。

  このころから後鳥羽院と鎌倉方の確執が激しくなり、院に呪詛された三代将軍源実朝が承久元年(一二一九年)甥の公暁によって暗殺され非業の死を遂げ、源氏の嫡流は絶えたのであった。実朝の和歌の師匠であった定家と後鳥羽院の不和もこのころから著しくなっていった。

 後鳥羽院は承久三年(一二二一年)、兵を挙げて鎌倉方と戦ったが、これに敗れ、隠岐に流竄の身となって、北条氏の時代となった。嘉禄二年(一二二六年)には定家の心の支えであった兼実の弟慈円が入寂。定家は、嘉禎三年(一二三七年)後鳥羽院の元でともに『新古今和歌集』の選考に当たった藤原家隆を見送った後、その二年後の延応元年(一二三九年)に愛憎の深かった隠岐の後鳥羽院の訃報を聞いた後、そのまた二年後の仁治二年(一二四一年)八月二日、八十歳の生涯を閉じたのであった。

 一方、私生活においては、弱小貴族の悲哀著しく、昇進も思うにまかせず、離婚、再婚など甚だ厳しいものがあり、定家に苦労は絶えなかった。にもかかわらず、『明月記』は死の直前まで書かれたという伝もあるほどである。かくのごとく、定家は世の中の激しい移り変わりや公私の苦節にもかかわらず、父俊成には及ばなかったものの、長命を保ち、死に急いだ人々の多くを見送って生きたのであった。

 日記『明月記』の持続はまさに定家の無事を示すもので、無事こそが、日記の書き出し、十九歳のとき「世上乱逆追討耳に満つと雖も之を注せず。紅旗征戎は吾が事に非ず」と、歌の道に励むことを決意した定家の初志を貫かせたのである。思うに、生涯日記を書き通すということは、彼のストイックを示してある一つの事例と受け取れる。

  で、定家は持続し、初志を貫いた証として『千載和歌集』『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』などに多くの歌を残し、「初学百首」以来の自作を家集『拾遺愚草』にまとめ、『小倉百人一首』を世に出した。また、歌論では『近代秀歌』『毎月抄』『詠歌大概』を著すに至り、例えば、二十五歳のときの歌「見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやのあきの夕ぐれ」に代表されるもののあわれの美を旨として、わび、さびの茶の湯など後の思想、文化に大きく影響を及ぼし、日本人の美意識の一面を確立するところとなったのである。


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2013年01月22日 | 写詩・写歌・写俳

<508> 芥川賞の黒田夏子さんによせて (2)

       潮流は 確かなりけり 浮き沈みしつつあるもの 流されて行く

  黒田さんについては、また、文章のスタイルが一風変わっているようで、これは、本人に訊いてみないとわからないが、思惑によるというよりは、本人に適した、つまり、自然に生み出されたものではないかと思われる。そのスタイルというのは漢字を用いず平仮名を多用して横書きにしているという。内容については、作品を読んでいないのでどうとも言えないが、ここでは伝えられている情報をもとに、その文章のスタイルについて触れてみたいと思う。

 まず、日本語では、特別な場合を除き、漢字と平仮名もしくは片仮名をもって文章を作り上げるので、縦書きでも、横書きでも対応出来る。そして、漢字は一字のみでも意味を持ち合わせていて自立するところがあるので、書く方も読む方も理解するのに便利がよく出来ている。

  英語をはじめとするほとんどの外国語は平仮名や片仮名と同じく、一字ではまず意味をなさない。ゆえに、一字一字の組み合わせによるから、複雑かつ意味の上でどうしても単純化がなされることになり、日本語のような奥深さのある表現に乏しくなることが生じ、思考にも影響することになる。一方、漢字ばかりによる中国の文字文化は柔軟性に乏しいように思われる。

  例えば、英語は知(観念)を述べるに適し、日本語は感(情感)を述べるに適しているように思われる。このように見てみると、漢字文化を発展させて今にある日本の言語文化は韓国に似て特異なところがある。しかし、このような日本も、最近は欧米化の影響が著しく、漢字を軽視する方に傾斜しているように思われる。それでも、漢字と仮名で表現する日本語は特殊的である。

  この日本語の特性を敢えて拒絶する形で文章表現を試みるという彼女の手法は斬新であると言ってよかろう。「ふたえにしてくびにかけるじゅず」は、「二重にして首にかける数珠」と解せるし、「二重にし手首にかける数珠」とも解せる。この場合は「して」のところに読点を打つことでまずは解決するが、「はし」などは漢字で橋、箸、端といろいろな意味になるから、平仮名で「はし」と書けば、前後の文脈を探らなくてはならず、漢字の効用が言われることになる。彼女の場合は仮名を多用し、敢えてそこのところに挑み、読み手に考えさせるようにしているという次第である。

  『小倉百人一首』の第八番に喜撰法師の「わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人は言ふなり」という歌がある。この歌は、「私の庵は都(京)の巽(東南)にあって、そこに私は住んでいるけれども、そこを世間の人が憂き世の通りの宇治(憂し)山だと言っているとおりに暮らしていることではある」というほどの意に取れるが、子供のころ、私は「しかぞ住む」を「然かぞ住む」とは読めず、「鹿ぞ住む」という風に意味もわからず暗唱していた。ところが、これを「竜蛇鹿」と言った御仁がいて、天明の狂歌師、大田南畝(蜀山人)は「わが庵は都の辰巳午未申酉戌亥子丑寅う治」と捻って干支の十二支を狂歌に詠み込んだ。「う治」はもちろん「宇治」で、「う」は「卯」であることは言うまでもない。『abさんご』はまだ読んでいないので何とも言えないが、敢えてこの平仮名の特質を利用しているのだろうと思われる。

 また、文章が縦書きでなく、横書きの小説であるということが話題になっている。英語は横書きがしやすいように出来ているので、横書きにする。しかし、日本語の場合は、どちらにも対応出来るとは言っても、縦書きがしやすいように出来ているので、本来は縦書きにする。これは筆記具のペンと毛筆の違いによるのではないかとも想像される。平仮名は毛筆の縦書きに適しており、アルファベッドの英字は大文字でも小文字でもペンによる横書きがスムーズに出来るようになっている。

 ところが、西洋文明の影響が著しい今日では、どしどしと英語が導入され、算用数字も用いられるに至り、横書きが多く採られるようになった。加えて、欧米文化の先端にあるパソコンが横書きになっているので、今や横書きが普通になり、伝統詩形の短歌や俳句でも、普通パソコンでは横書きにしなくてはレイアウト上、収まり切れない。こう書き込んでいるこのブログも横書きである。

                                              

 ということで、小説の横書きが登場しても何ら不思議でない時代になったと言ってよい。私は昭和五十八年から平成十一年の間、毛筆による日記を書いたことがある。定家に倣えず、途中で止めてしまい。偉そうなことは言えないが、この日記は縦書きであった。ところが、メモをとるときなどは、横書きで、今、毎日、日記のように書き込んでブログに載せている文章もパソコンのワープロ機能を用いて書くので、横書きになり、横書き思考がなされているのだろうと思われる。

 このワープロ機能は、使用者の文章作成能力を向上させたと言えるが、変換の操作ミスによる誤字や脱字が起きる可能性が高い欠点も指摘される。しかし、英語が縦書きを拒絶する字体である以上、欧米との文化の融合に進む中においては、なお一層、横書きが増えて行くのではないかと思われる。言わば、黒田さんの文章スタイルは時代の潮流に従ってあるように思われる。写真は毛筆による日記の一部。