大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年01月16日 | 万葉の花

<502> 万葉の花 (67) たけ (多氣、太氣、竹)= タケ (竹)

         門松の 松竹梅の 晴れやかさ

     梅の花散らまく惜しみ吾が苑の竹の林に鶯鳴くも                                                                       巻 五 (824)   阿氏奥島

    さすたけの大宮人の家とすむ佐保の山をば思ふやも君                                                                 巻 六 (955)   石川足人

   秋萩を 妻問ふ鹿こそ ひとり子に 子持てりといへ 鹿子(かこ)じもの 吾が獨子の 草枕 旅にし行けば 竹珠(たかたま)を繁(しじ)に貫(ぬ)き垂り 齋瓮(いはひべ)に木綿(ゆふ)取り垂(し)でて 忌(いは)ひつつ わが思ふ吾子(あご) ま幸(さき)くありこそ                                                                                                                                                        巻 九 (1790) 遣唐使の母親

 タケはイネ科タケ亜科の植物で、世界に広く分布し、我が国でも各地で身近に見られ、昔から人との関わりが深く、芽立ちどきのタケノコは食用にされ、木質化する材はしなやかで建築材から民芸品にいたるまで利用されている。奈良県特産の茶筅がタケの材としての特徴を生かした加工品の典型と言える。根が縦横に這い伸び繁茂するので、群生して林を形成し、独特の景観を呈する。とともに地震や豪雨による土砂崩れなどを防ぐことが出来、防災にも役立つ優れものである。

 中国ではウメ、ラン、キクとともに「四君子」と称せられ画材に選ばれるほどで、タケの評価は高い。これは真っ直ぐに節目をもって伸びあがり、しなやかで、四季を通じてあおあおとしていることによる。我が国でもタケは昔から神聖なものとされ、「松竹梅」と言われるように、マツ、ウメ、ナンテンなどとともに正月の門松などに用いられて来た。なお、ササの項でも触れたが、タケは花が咲くと全体が枯れてしまう一稔性の植物で、花は約五十年ほどを経て咲くと言われる。

                                                                  

 それはさて置き、『万葉集』にはタケを詠んだ歌が長短歌合わせて二十首に見られ、原文では竹、太氣、多氣の表記がなされ、中でも竹が圧倒的で十七首に及び、太氣が二首、多氣が一首となっている。短歌と長歌は半々で、その用いられ方は、955番の石川足人の歌のように大宮人、皇子、舎人など宮にかかるさすたけ(刺竹)の枕詞として見えるものが八首あり、これが最も多く、長歌では五首に見られる。

 足人の歌は大宰府帥(長官)の大伴旅人に対して詠まれた挨拶歌で、その意は「大宮人が住んでいる佐保の山を懐かしくお思いになるでしょうか」というものである。これに対し、旅人は次の956番の歌で「やすみししわが大君の食国(をすくに)は倭もここも同じとそ思ふ」と返している。その意は「大君がお治めになる国は大和もここ(九州)も同じだと思う」というもので、本音かどうかは知れないが、都から遠く離れていてもさびしくはないと暗には言っている宮仕えの身がうかがえる返歌であるのがわかる。

  ほかには、1790番の遣唐使の母親の長歌のように たかだま(竹珠、竹玉)を詠んだ歌が三首。なよたけ(奈用竹)、なゆたけ(名湯竹)の各一首が長歌に見える。短歌には、さすたけの三首のほか、824番の阿氏奥島の歌のような植えられた竹を詠んだ歌が四首、竹垣の歌が一首、割いたタケを詠んだ歌が一首、葉を屋根に敷く歌が一首見える。

 1790番の長歌は「秋萩を妻に持つシカこそは独り子を持つというが、このシカの子のように我が子が旅に行くので、たかだまをぎっしりと貫き垂れ、齊瓮に木綿を垂らし、物忌しつつ、私は思う。どうか我が子よ無事であってほしいと」というほどの意に解せる。また、824番の奥島の歌は「ウメの花の散るのを惜しんで、我が苑の竹の林にウグイスが鳴いているよ」という梅花の歌三十二首中に見える一首である。

 以上の内容から万葉時代のタケを見てみると、枕詞のさすたけはタケが神聖なもので、これを挿して、宮を神聖な場所と認識したことを言うものであり、たかだまは細いタケを短く切って紐に通した玉で、神事に用いたことがわかる。また、なよたけ、なゆたけは材のしなやかさに擬えて女性や若い皇子を形容する言葉としていることから、万葉人がタケをそのように見ていた証と言える。

 タケの林と見える歌が二首と「吾が苑」などに植えられたタケを詠んだ歌が四首見えることから、貴族の庭園などにはタケが植えられ、それが林になっていた光景が当時そこここにあったことを想像させる。また、材として利用されたタケの登場も見ることが出来る。たかだまもタケの加工品であるが、住居に利用したたけがきを詠んだ歌があり、これには万葉人の生活の一端が垣間見られる。タケの利用はほかにもいろいろに及んでいたに違いなく、さきたけ(割きたけ)、つまり、割いたタケを比喩に用いて詠んだ歌も見える。果してこの割いたタケは何に使われたのであろうか。また、タケの葉を刈って屋根に葺くという生活実態からなる歌も見える。

 このように『万葉集』に登場するタケからは、タケが当時身近にあって既に多方面に用いられ、いろいろな意味を持ち、有用な植物としてあったことがうかがえる。タケは今も私たちと密接な関わりを持ち、当時と同じように有用植物として認識され、接しられている光景が見られ、欧米文化の浸透による近代化の中で、タケに関わる昔からの文化は継承されているように思われる。

 写真は右から、よく整備された竹林。タケの花(種類不明)、右端はさすたけを思わせる法隆寺の門松。葉のついたままのタケが円錐形に盛られた砂土にマツ、ウメとともに差されているのがわかる。これは万葉当時のさすたけの認識を引き継いでいるものではないかと思われる。