<510> 後鳥羽院に寄せて
怒濤氷雨 流竄のこころ 打ち据ゑて 写す都の 月と花こそ
藤原定家に触れたが、定家と因縁浅からなかった後鳥羽院に触れないでは落ち着かないので、この項では少し後鳥羽院に触れて、私の院に対する感懐というものを述べてみたいと思う。以下は、以前に記したもので、短歌も等しく、多少気負いが感じられるように見えるが、これは年齢によるものと思われる。
人は厳しい境遇(環境)に置かれるとき、ときとしてその境遇に身を縛られながら、それに屈せず偉業を成し遂げることがある。それは、境遇が心身の集中をなさしめる所以ではなかろうか。『史記』を書き上げた司馬遷がよい例であろうが、「やまとうた」に心を注ぎ、配流の身という縛られた環境の下で、歌に意力を集中させ流竄の日々を送った後鳥羽院にも言えることではなかろうか。
院は、承久三年(一二二一年)四十二歳のとき、西面の武士団を結成し、執権北条義時追討の院宣を下し、台頭する鎌倉幕府に対し、承久の乱を起こすに及んだ。しかし、これに敗れ、隠岐に流された。以後、六十歳で世を去るまでの十九年の間、孤島の隠岐を脱出することなく、この地で生涯を終えた。
この間、歌に情熱を注ぎ、『遠島百首』をはじめ、『後鳥羽院御自歌合』、『後鳥羽院御口伝』、『時代不同歌合』、『遠島五百首』、『遠島歌合』等々をなしたが、端倪を許さない美の追求者として『新古今和歌集』に執着し、歌の削除精選を行い、隠岐本『新古今和歌集』を成し遂げたのであった。この歌への執着がよかったかどうかは後世の評を待つほかないが、隠岐本一つを見ても、院の歌に対する執心一途な思いが伝わって来る。
そして、後世は色々と論評を加えて来たが、院の推敲の美は、袖のうちそとにして思いを重ね、見据えたものであったと言えよう。袖とは現実と夢との間に存在する思いの在処にほかならない。その袖に秘めた、例えば、都の月と花がそこにはありありとうかがえる。では、院に寄せる袖をテーマにして詠んだ歌を幾首かあげてみたい。
帝王の春を思へば水無瀬あり思ひの袖は香るばかりぞ
初度百首朗々玲瓏まさによしこころごころに袖ぞ香れる
水無月の葉裏を返す風の鳴り群を率いて帝王の袖
遠島の袖に詩歌ぞまさりけるありし水無瀬の夕ごころかな
移ろへど移ろはぬ袖月冴えて遠島百首まさに歌とは
ゆゑにしてありける歌ぞ執着の思ひの袖は何に乱るる
祝儀なき隠岐本思ふ波間には怒りの袖の影ぞ見えける
凛々と秋より冬へ帝王の袖のうちなる歌をかなしめ
死も狂も孤独も袖に圧し据ゑてこころにやりし歌の断崖(きりぎし)
陰々と滅後を語るものあらば片敷く袖のその在処(ありか)こそ
見しや袖万般深き愛憎の隠岐院(おきのいん)とは呼ばれけるかも
帝王の袖に思ひの調べこそほかに誰あるその歌ごころ
帝王の袖に思ひの日月を雁は幾たび渡りしならむ
貫きし思ひはるけくあるからは惨にあれども帝王の袖
そして、院に寄せる歌、更なる六首。
うしといふよしこのよしのうしのうたおもふがゆゑのうしとこそみよ
院定家良経式子ありかつ来(く)家隆西行実朝の声
後鳥羽院御口伝ひとり読み返す天性のこと斟酌のこと
言ひ据ゑて「更に聞くに及ばず」と止めし筆墨氷雨に思ふ
収斂は歌に対ひてなされけむ歌とはまさに尽きざる思ひ
身は歌へ歌はこころに 独り居の隠岐に悲しき住の江の月
後鳥羽院(第八十二代後鳥羽天皇)――名は尊成(たかなり)。(一一八〇~一二三九年)。高倉天皇の第四皇子、母は坊門信隆の女殖子(しょくし)。一一八三年に平家の都落ちの直後に後白河法皇の院宣によって即位した。一一九八年土御門天皇に譲位し、順徳、仲恭の代まで院政を行なった。この間、鎌倉と対峙し、朝権の復活を期して西面の武士団をつくり、鎌倉幕府と一戦を交え、承久の乱を起こすに至ったが、これに失敗し、隠岐に流された。そして、世は北条氏の時代となる。
文武に才能を誇り、自ら『新古今和歌集』を撰し、敗戦による流竄の後も撰に執着したことはよく知られるところである。定家とは和歌の道を同じくし、定家の歌に理解を示し、定家の歌の道を開いたが、後年に定家が源実朝の歌の指導に当たるころから確執が生じるようになり、結果、袂を分かつに至った。 写真は月と花。