大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年12月26日 | 万葉の花

<481> 万葉の花 (61) さ さ (佐左、小竹)=ササ (笹)

       雪を積む 笹冷え冷えと 耐へて見ゆ

    小竹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげどもわれは妹思ふ別れ来ぬれば                                           巻 二 (133)  柿本人麻呂

   小竹の葉にはだれ零り覆ひ消(け)なばかも忘れむと云へばまして思ほゆ                                          巻 十 (2337)  詠人未詳

   我がやどのいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕(ゆふへ)かも                                                 巻十九 (4291) 大伴家持

 『万葉集』の原文表記によれば、小竹が三首、佐左が三首で、集中にササの見える歌は六首である。この六首を見ると、葉に関わって詠まれた歌ばかりで、その葉に添えられている景物との絡みで言えば、露霜があり、班雪(はだれ)があり、冷たく荒ぶ風があり、これらの歌は晩秋のころから冬の季節に詠まれているのがわかる。ただ、4291番の家持の歌だけは春の歌でこれについては、後で触れたいと思う。

  私の実家の裏には、キリシマツツジの根方にハラン(葉蘭)が植えてあり、季節風の吹き来たる冬になると、常緑の大きな葉がその風に吹かれてかさかさと葉擦れの音を立てる。その音は硝子障子越しに納戸の部屋で聴かれた。子供のころその音を聴いて侘しい心持ちになったのを覚えているが、これはササにも言えることで、万葉人も冬にはササの鳴る音を聞いて心を動かされたのであろう。133番の人麻呂の歌にその情景がよく表わされている。

  この133番の歌は、詞書に「石見国より妻に別れて上り来る時の歌」とある長歌の反歌二首中の一首で、前後の歌から察するに、初冬のころの歌であるのがわかる。妻に別れて来た人麻呂がササの生い茂った山路に差しかかって、冷たい風に吹かれて鳴り騒ぐようなササの音を聴くに及び、妻への思いが募って来たのである。この歌は、人麻呂の妻に寄せる心情が耳に障るほどのササの音とともに伝わって来る歌である。

  次にあげた2337番の歌は、冬の相聞の項の中の「雪に寄す」と題して詠まれた歌で、「ササの葉を覆う斑な薄雪が消えるように死んでしまえば、あなたを忘れることも出来るでしょうと言えば、ますます恋しさがつのって、あなたのことが思われて来ます」というもので、それほど、私はあなたを恋い慕っていると、相手に寄せる思いを訴えている歌であるのがわかる。作者不詳の歌であるが、その内容から女性の歌と察せられる。

  なお、タケとササは、幹(茎)が中空で節があり、これを稈と呼び、稈鞘(皮)が早くに稈から剥がれて離脱するものをタケ、離脱せずに残っていつまでも宿存しているものをササとして区別する。この区別はタケの研究で知られる室井綽によって提唱され、現在では、これを主にタケとササの見分けの基準にしているようである。

  『万葉集』にはタケやササの類に関わる歌が、タケの二十首、シノ(篠)の十一首、ササの六首を数えるが、歌から察するに、このタケ、シノ、ササの区別にはっきりとした基準は見当たらない。ただ、マダケのように見かけの大きいものをタケ、オカメザサやネザサのように丈の低いものをシノとかササと呼んだのではないかと察せられる。

 ところで、4291番の家持の歌の中で、二句目の「いささ群竹」は原文で「伊佐左村竹」となっており、この伊佐左(いささ)の解釈について、「いささかなる」の意に解す説と「い小竹(ささ)」と解する説とがあり、これが対立しているようである。そこで思われるのであるが、これはいささかの意味でも、小竹、つまり、現在でいうササ(笹)でもなく、竹の枝葉を表現したものと解釈したのがいいのではないかと思われる。

 この歌は春の情景を詠んでいる歌であって、季節風(北西の風)の時期は過ぎ、南東の風の季節に詠まれた歌で、私の葉蘭の体験からしても、丈の低いササが葉擦れの音を立てるほどの季感にはないことが言え、ここは微かに吹くやわらかな春の風が思われる次第で、群がって生える竹の枝葉がわずかな風にさらさらと鳴るのを「いささ」と表現したのではないかということが想像されるのである。

 この歌の場合、こう解するのが日本列島の風土(自然)に最も適った見方ではないかと思われる。よって、この「いささ」は竹の枝葉を指して詠んでいると見なせるわけである。竹の枝葉を「ささ」という例は、「商売繁盛でササ持って来い」で知られる恵比須さんのササも、「ササの葉さらさら軒場に揺れる」の七夕のササも、竹の枝葉を言うもので、これらの例でもわかる。言わば、ササは本来のササだけではなく、竹類の枝葉についてもササと認識され、これをして、家持のこの歌はあると思われる。ササの語源は葉が風によってさやさやと鳴る音から来ていると言われる。このように見て来ると、『万葉集』のササの意味も少し変わることになる。

                                  

  なお、タケやササ類は花が数十年の間隔をもって咲くと言われ、一旦咲けば、根元から全部枯れてしまう一稔性の植物で、更新は花の後に出来る実に託される。ゆえに、その花はなかなか見ることが出来ないが、よく山歩きをする私には何度かササ類の花に出会う機会があった。『万葉集』の歌とは直接の関係はないが、ここにその花を紹介したいと思う。

 写真は左から、雪に被われたコンゴウザサ(大阪奈良府県境の金剛山・一一二五メートルの山頂付近)、ミヤコザサの花(大台ヶ原山・一六〇〇メートルの山頂付近)、スズタケの花(大峰山脈の大普賢岳登山道・一三五〇メートル付近)。なお、大和におけるスズタケはブナ林下に多く見られるが、近年シカの食害により激減して、山中の様子を変えている。右端の写真はえべっさんの福ざさ(桜井市の三輪坐恵比須神社で)。

 


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2012年12月25日 | 写詩・写歌・写俳

<480> クリスマスに寄せて

     神に寄り 立つ身の思ひ 厳かに 来し方 そして 行く末のこと

 クリスマスに際し思うところ----- <生は生あるものにのみ語る資格がある。人生は人生を歩むものにのみ語る資格がある>

 生と死。生において死を思い、死に際して生を思う。生あるものはいかなるものも死を免れることはない。生きとし生けるものはすべていつか死ぬ。で、次のような感懐の歌なども生きとし生けるものの間(人生)にはある。

    死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のごときさざなみ                                        春日井 建

 つまり、私たちの生は、時の流れの中にあって死を見ざるを得ないゆえに意味をもってあり、死は多分死者が感じるものではなく、生きているものの観念の中に宿り、感じるもので、死を越えるもののないゆえにこの世は哀れなるものの共存するところと言える。

   地獄あり 極楽ありと 昔より 人の言ふなり 人てふあはれ

 生前も死後も、地獄も極楽も、みな生きるものの想像としてある。であるからは、想像は生きる上において役立つことが何よりで、宗教も芸術も哲学も生きて行く上において光明を求めるものにほかならず、私たちの生そのもののうちにある死を抜きにして語ることは出来ない。

 生の前後の深い未知の闇に思いを巡らさずして生は生ならず、人類の進展は物心両面に言われるべきであろうが、この深い未知の闇を思うとき限界を覚る。しかし、その深い未知の闇があるゆえに私たちは彼岸の風景を思い描くことが出来、神の存在と神の存念に思いを致すに至り、彼岸に向かって祈願しつつ行くことが出来る。

 人生において、いかに権力を持ち、いかにその生を謳歌しているように見える者も、神の知恵の前では微粒の存在に過ぎず、人は人たる域を出ず、私たちは神の知恵の前で立ち尽くすほかはない。そして、恭しくも跪くことになる。

 神を信じないものがいるとすれば、その者はこの深い未知の闇を如何に解するか。仏教の教えもキリスト教の説くところもみな死に関わり、死を見つめている。死がいかなるものか。死を思うとき、生者の私たちがいかに等しく弱いものであるかということがわかる。

 時間というものについて、アウグスティヌスは、人間が時間に取り巻かれているのに対し、神は時間の外側、所謂、永遠にあると考えた。つまり、人間の生には限界があり、神の存在には限りがなく、その存在は永遠であると見ている。言わば、人間は弱い存在であるということになる。私たちは、この生の限界において存在しているのであって、永遠なる神を思わないなら、何を思うべきかということになり、神の存念を信じないなら、何を信じるか、ということになるわけである。所謂、私たちは来し方においても行く末においてもほとんど何もわかっていない存在なのである。

                    

 こうして、生と死のことを思うとき、私たちも空に舞い上がって騒いでいるカラスも、創造主たる神の世界である自然の中ではどれほどの違いがあるだろうかと思えて来たりする。大地震があって、津波が押し寄せ、原発事故が起こり、未だに被害の終息が見通せない状況を私たちは謙虚に受け止めなくてはならない。   これやこの 生きてある身の いまここに ありけり まさに 思ふ身にして


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2012年12月24日 | 写詩・写歌・写俳

<479> クリスマス・イブ

       寒波来ぬ 温ったかスープは 何よりも

 今日はクリスマス・イブである。クリスマスはイエス・キリストの降誕祭で、聖誕祭もしくは聖夜とも呼ばれ、Xマスとも言われる。復活祭(イースター)とは異なり、十二月二十五日がその日に当たる。クリスマスの語源はキリストとミサが組み合わされて生れた名称で、ミサは「最後の晩餐」に由来する説教と会食及び礼拝(祈り)によるカトリック教会の感謝の祭儀を言うもので、キリスト教の国々ではこの日を家族一同で過すようである。

  クリスマス・イブのイブはeveningの略で、クリスマスの前夜を指すが、二十四日そのものを言う場合が多く、飾り付けたクリスマスツリーの下にプレゼントを置いたり、サンタクロースが登場したりして楽しくにぎやかに行われ、華やいだ雰囲気の一日になる。我が国でもクリスマス・イブは、商業主義にも影響され、繁華街などは大いににぎわい、信仰に関係なく、ケーキや料理などを囲んで楽しむ家庭も増えて来た。

                                                                         

  クリスマス・イブは日本の祭りに置き換えて言えば、本宮に対する宵宮に当たるもので、人々の楽しみを分かつ前夜祭の趣がある。で、今日は我が家でも、例年通り、ショートケーキとコーヒーで午後のお茶にし、少し制限オーバーになったが、照り焼きの鶏のもも肉をメインにタマゴスープやチンゲンサイのあえもの、野菜サラダなどを添え、ワインを少々加えて夕食にした。写真のもも肉は二人分。二百グラムのご飯は写真では省いた。

  ところで、クリスマスはいつも冬のただ中である。で、冬だからこそクリスマスはクリスマスとして私たちの情感に触れて来るところがある。南半球では季節が反対で、夏に当たるので、南米などでは、違った感覚でクリスマスを迎えるのだと思う。もしかしたら、日本のお盆と同じように、汗を拭き拭き迎えるのかも知れない。だが、私たちにはクリスマスもクリスマス・イブも冬のただ中の行事で、冬の情感に触れて来る。今、日本列島は寒波が襲来し、日本海側は雪に見舞われている。気象庁は「クリスマス寒波」と名づけて発表するのではなかろうかと思われる。

 


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2012年12月23日 | 写詩・写歌・写俳

<478> ミ ニ 門 松

     往く年に 来る年 この身は 古稀に入る

 来年は七十歳の大台に乗る。所謂、古稀である。六十路は実に速かった。あっという間の十年間であったような気がする。この間には念願の花の本を出したり、詩歌を作ったり、ある程度の思いは叶えて来たが、その反面、心筋梗塞の手術を受けるなど、人生の衰退期を迎えたという感じも受け、大いに考えさせられた期間であった。

 この間を振り返ってみるに、六十代というのは、第一線を退いて、人生の第二の舞台に立った次第であるが、言ってみれば、回り舞台といったところで、脇役も脇役、これに徹し、それも卒業して、今度は独り舞台ということで、孤高の思いを抱いてやって来た。七十代はこの独り舞台の継続あるのみか。体力との相談もしなければならない時期を迎えるのであろう。

 今日は天皇誕生日。七十九歳になられたよし、まずは、お祝いを申し上げるところと言えるが。なお、公務に励まれるとのこと。私などは精神薄弱、思うに任せず、悩みの多い身。けれども、同じ心臓に関わる手術をされた天皇を思えば、泣き言などは言っておられないと思えて来る。もちろんのこと、比べることなど恐れ多いこの身の軽さで、ありがたく思わねばならないところである。日本は閉塞感の漂う昨今ではあるが、弱気にならずやって行くことを心がけたいと思う次第である。

 で、六十代を総じて言えば、仕事のプレッシャーから解放され、多少は自由に出来た期間であったが、それで薔薇色に過せたかと言えば、思いの半分にも満たない十年であったと言え、悩んだ期間であったというのが正直なところである。で、人生に「達観」などという言葉が適用される年齢というものがあるのであろうかと年を重ねる度に思われて来ると言えるが、ここでまた天皇のことが思われて来る次第である。

 今日はニュースで知ったミニ門松を作っているところがあるというので、心機一転の意味もあって、この門松を求めに出かけた。葛城市竹内の「竹内竹炭工房」(和田喬代表)のメンバー十二人が、竹炭を作る傍ら、正月前になると門松を製作して販売しているもので、今年で七年になるという。

 門松は大小あって、高さが四十センチほどのミニ門松(一個千円)に人気があり、今年は二百個を目標に二十八日まで、一日三十個ほどのペースで作り、道の駅「当麻の家」や地元の農産物販売所などで売り出している。門松というのは、正月を迎えるに当たり、神さまが宿っていると思われていた松を持ち帰ったのが始まりで、平安時代に起源を持ち、室町時代に現在のように縁起のよい松竹梅をもって門先に飾ったという。で、松が主役であるため、門松とか松飾りと呼ばれるようになったという。

                                                           

 門松は注連縄に同じく、正月の縁起物で、一つの風習と言ってよく、和風文化の現れの一つであると言えるが、注連縄にも言えるように、最近では自分の家で作ることは希で、田舎にあっても、買い求める傾向にあり、形のアレンジされたものも出回り、ウラジロを省いた注連飾りなども見られるようになって来た。門松でもこのようなミニサイズのものが登場し、こちらの方に需要が多くなっているようである。写真はミニ門松を作るメンバー(竹内竹炭工房で)と完成したミニ門松。


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2012年12月22日 | 写詩・写歌・写俳

<477> ユ ト リ ロ

       ユトリロの白の時代を旅すなり募る絵の中点景にして

 モーリス・ユトリロは一八八三年、パリのモンモンマルトルに生まれ、十九歳のとき本格的に絵を始め、初期のモンマニ―時代(一九〇三年~一九〇八年)は印象派風の絵を描き、その後、白色を基調にした重厚な質感と巧みな構図による独自の作風を確立した白の時代(一九〇九年~一九一六年)を経て、色の工夫を凝らした色彩の時代(一九一九年~一九三〇年)へ移行するに至った。

 モンマルトルはセーヌ川右岸の小高い丘のある地域で、セーヌ川を挟んで位置するパリの中心街モンパルナスとともに芸術家の多いところとして知られ、知名度が高く、世界的な観光地で、パリが誇る地域である。ユトリロはこの地域の一角に私生児として生れ、奔放な母親に育てられ、少年時代はさびしく送ったようであるが、絵に関心を持つに至り、十九歳のとき絵描きとして本格的にスタートした。

 作品には出身地のモンマルトル周辺を描いた絵が多く、白の時代にはこの地の街角を描いた風景画が多い。画家に限らず、誰もが生まれ育ち、生活している土地の環境(風土)に影響されるが、ユトリロの絵を見ていると、このことがよく示されているように思われる。街角というのはその地域(町)の表情を見せている場所で、例えば、モンマルトルは殉教者の丘という意味であるが、尖塔を誇る教会が見られ、多くの坂や階段が街並みとともにあり、ユトリロの風景画にはそのような石造りの建物とともに必ずといってよいほど、道が風景の一部として描かれ、中には「コタン小路」のように石段を描いた絵も見られる。写真は左が一九一一年の作品「コタン小路」。右が一九一二年の作品「パリのサント・マルグリート教会」。

                                                                          

 欧州というのは、石造りの町並みが特徴で、日本のような木造の建造物は少なく、ために、石の文化と言われるほどであるが、この点、ユトリロが描いた街角の風景画は、「今日も、コタン小路はユトリロが描いた半世紀以上昔の面影をそのままとどめている。変っているのはその中の住人だけであろう」(千足伸行・一枚の絵「コタン小路」より)という言葉が示す通り、ユトリロが捉えたフレーミングの中の街角の風景は石の特質を持ってあり、現在もそれほど変わらず見ることが出来る風景で、ユトリロの詩情とともに旅行者を惹きつけて已まないところがある。

 なお、ユトリロはアルコールに浸る生活を繰り返し、精神を病むこともあって、私生活では悩みが尽きなかったようであるが、五十一歳に及んで結婚し、白の時代展を開催するなど、これをきっかけに安定した平穏な晩年を送ったと言われる。ユトリロの絵の印象は、濃く重く感じられる白の時代の作品に与かるところが大きいが、冬の冷え込むようなときに見ると、何かその詩情にぴったりで、久しぶりに画集を開いたのであった。