<398> 思考について
うねうねと思ひは絶えぬ ぬばたまの夜はことさらそこひも知れず
人間について、デカルトは「我思うゆえに我あり」と言った。また、パスカルは「考える葦」と言った。では、「思う」ということ、「考える」ということはどういうことなのだろうか。私たちは何ゆえに、思ったり、考えたりするのだろう。今回はこのことについて少し触れてみたいと思う。
私たちには生きて行くうえにおいてわからないことが多々ある。わからなければ、わからないゆえに、わからないところを意識し、思ったり、考えたりする。そして、思ったり、考えたりすることで、わからないところを埋めんと試みる。完全にわかっているものに私たちは思うことも考えることも必要としない。しかし、前述したように、私たちにはわからないことがあまりにも多く、身に迫り、纏わって来る。で、つまるところ、わからないことには懐疑が生まれ、懐疑には思考がつきもので、私たちは「考える葦」になるわけである。
人の心の有り様をうかがいみてもわかるように、私たちには、わかっているようでわからないことが日々刻々において夥しく生じてある。で、人の心の有り様、つまり、人間関係をはじめとし、人生はわからないことだらけだから、そこには当然懐疑が生まれ、思いは募り、考えも絶えないということになる。そして、その思いや考えは、まさに、千差万別で、それは千変万化と言え、うねうねと途切れることなく続き、ときにはそれが高じて心の病を引き起こすようなことにも及ぶわけである。
言葉を変えて言えば、想像というような言葉も浮かんで来る。ああでもない、こうでもないと想像を逞しくして思い、考えを巡らせる。人間と他の動物を比較するとき、頭脳の違いが言われるが、その頭脳の主な違いはものを覚える記憶力とものを思う想像力ではないかと思われるが、記憶力と想像力によって感性も培われる。感性は遺伝的繋がりや環境にもよるだろうが、記憶力と想像力に大きく影響されることは経験上からも言える。
そして、記憶力も想像力も自己中心になされるという特徴があり、人間には自我というものがあって、自分というものを意識しつつ思考し、行動するところがあるので自己中心とならざるを得ず、その思考は、パスカル流に言えば、広大な宇宙をも包むということになる。この世はこういう自己中心のそれぞれが行き来し、交錯し合っているのだから複雑この上もなく、思考は絡まって錯綜することになる。
この自己を中心とした行き来において、例えば、昼と夜などがある。昼間は活動し、夜中は休息するという人間の本来の姿、自然体で言えば、私たちにとって、夜は静かなひとときであるはずであるが、静かなゆえにかえって思いを巡らせるひとときとなり、思いは際限もなくなって、ときには眠れないというようなことも起きて来るわけである。
思ふ身の思ひ絶えざるところにてありける思ひ募りつつあり
我をして思ひの丈を行き行けど 添はずはなほも思ひとなれる
人生はとほほの「ほ」の字にほかならぬ よせよせ駄目を埋めることなど
で、うねうねと続く思考の中で、一つでも多く豊かで楽しい思いが出来れば幸いである。ということで、思ったり、考えたりするということは私たち人間の特質と言えるが、駄目を埋めてしまうほど思考を募らせることがよいかと言えば、どうであろうかということも言える。心の病に陥る人などを見ていると、人生はとほほの「ほ」の字というくらいでよいのではないかと思えて来たりする。
そして、人生も終盤に至ると、諦めるという思考の兆しが見えるようになり、そこには諦観という言葉が用いられて来ることが想像される。これは思いを募らせる人間において一つの安らかさへの道を開くことのように思える。諦観というのは、別の言葉で言えば、プライドを捨ててかかるということ、否、プライドを越える精神の有り様、つまりは、達観と言った方がよいかも知れない。
言わば、諦観の心境に至った者は穏やかで、強くいられるのではなかろうか。矜恃などというのは、よしにつけ、悪しきにつけ、自縛にほかならないと言える。だが、そうは言っても、この矜恃、プライドというのは実に厄介な存在で、なかなか思うようには扱えないのが人間である。ひょっとしたら諦観や達観というのは望みに終わるものかも知れない。
写真は、わかっているようで、わからず、曖昧にして日々の経過の中に連綿として続く思いというものをイメージして表現したものであるが、抽象過ぎるかも知れない。この記事は、夜長の秋を迎え、夜の時間が長くなり、思うことも、考えることも募るであろうことを念頭に置いて書いた。