大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年10月25日 | 万葉の花

<419> 万葉の花(48) さのかた (狹野方、左野方)=アケビ (木通・通草)

        あけびの実 山路に 語りかけて来る

    さのかたは実に成らずとも花のみに咲きて見えこそ恋の慰(なぐさ)に                    巻 十 (1928) 詠人未詳

   さのかたは実になりにしを今更に春雨零りて花咲かめやも                                巻 十 (1929) 詠人未詳

   しな立つ 筑摩さのかた 息長(おきなが)の 遠智の小菅 編まなくに い刈り持ち来 敷かなくに い刈り持ち来て 置きて 吾を偲はす 息長の  遠智の小菅                                     巻十三 (3323) 詠人未詳

 『万葉集』にさのかたと見える歌は冒頭にあげた三首。1928番と1929番の歌は原文に「狹野方」とあり、3323番の長歌は「左野方」とある。「狹野方」とある短歌二首は問答歌で、花や実のことを詠んでいるので、この二首に登場するさのかたは花を咲かせ、実をつける植物であることが言える。一方、長歌のさのかたは「不連尒」(編まなくに)」に繋がるので、蔓性の植物と考えられる。

 さのかたを地名とする説もあるが、この三首を総合してみると、蔓性で、春に花を咲かせ、実をつける植物であると考える方が妥当であろう。古文献も大方はこの見方に立ち、フジやアケビの名をあげ、現在ではほぼアケビ説が定説になっている。

 アケビはアケビ科の落葉蔓性木本で、春に葉の開出するのと同時に淡紫色の花を咲かせる。雌雄同株で、雄花と雌花が一つの蔓につくのが特徴で、実は秋に生り、熟すと赤みを帯び、果肉が裂けるので、和名のアケビは朱(あけ)実、開け実、開けつびなどの意からつけられたと言われる。この実は熟せば甘く、食べられる。「つび」は女陰をいう言葉である。

 北海道を除き、本州以西に分布し、大和には極めて多く、秋の山歩きを楽しませてくれる植物の一つである。似たものにミツバアケビがあり、これも全国的に分布し、大和にも多く見られる。花が濃い赤紫色で、葉が掌状につくアケビと違い三小葉からなるので一見して判別出来る。

  では、さのかたをアケビと見て、三首を読むと、1928番と1929番の短歌は男女間の問答になっていて、1928番の男の歌が「アケビは実にならなくてもよい、花だけでも咲いて見せて欲しい。この苦しい恋の慰めに」と詠んで言い寄るのに対し、1929番の女の歌は「すでにアケビは実になっている(人妻になっている)ものを今更春雨が降ったからといって花が咲く(恋をする)ということなどありません」ときっぱり言い返しているのである。

  歌の内容から見て、この問答歌は男から女へ歌いかけているのがわかるが、この反対に女から男への問答歌も集中にはあり、当時の時代状況がうかがえる。女から男への問答歌は、巻八1460番と1461番の紀女郎の二首に対し、大伴家持が1462番と1463番の二首をもって応じている。ここではチガヤとネムノキに思いを託しているのがわかる。歌が掛け合いになっているところが、相聞の歌ではあるけれども、遊び心の見られる歌として、以後の歌集などに見られない大らかさがあって、『万葉集』の特徴的一面をうかがわせる。

  次の3323番の長歌は「譬喩歌」として登場する難解歌であるが、さのかたや小菅が比喩に用いられていると見なしてよいように思われる。即ち、歌の意は「筑摩のアケビや遠智の小菅ではないが、編みもしないのに刈って来て、敷くこともなく、そのまま捨て置いている。恋している私に見向きもしないで。私はこの小菅にも等しい身です」というほどのもの。釣った魚に餌を与えない類の話で、この魚の心境に等しい女の恨み節と言えようか。言わば、三首とも恋の情に絡んで作られた歌であるのがわかる。

                                             

  写真は左がアケビの花。花序が垂れ下がり、小さい雄花が先端側に数個つき、基部側に大きい雌花がつく。雌花は花弁に似た三個の萼片に守られている。中央はミツバアケビの花。アケビと同じく、大きい雌花が花序の基部側についている。左はアケビの果実。完全に熟すと縦に大きく裂けて果肉が見られるようになる。