<1151> 鬼子母神の石榴
親たちが日参したる鬼子母神 戦地に子息を送りしがゆゑ
東大寺二月堂のちょうど真下に当たる西側に鬼子母神が祀られている。細長い平屋の建物の中央部が鬼子母神のお堂になっていて、絵馬などが掛けられている。その長い建物の前に少し庭があり、下の道と積まれた石垣で隔てられ、その石垣上の庭に十本ほどの石榴の古木が見える。
鬼子母神は、もと槃闇迦という鬼神の妻で、一万人(多く)の子を持っていたが、人肉を好み、人の子を奪って食べていた。子を奪われた親たちは嘆き悲しんだ。この様子をうかがい知った釈迦が鬼子母の最愛の子を隠した。鬼子母は自分の子がいなくなって悲しみに暮れた。これを見て釈迦は子を失った親の気持ちがわかったであろうと鬼子母を諭し、鬼子母は以後、心を改め、人の子を奪うのを止め、子を守るようになり、神として崇められるようになったという。別に訶梨帝母とか歓喜母とも呼ばれる。
一説には、釈迦が人肉の味がするという石榴の実を鬼子母に与え、人の子を食うのを止めさせたとも言われる。心を改め、子を守る神になった鬼子母神は左手で胸に一子を抱き、右手で吉祥果を持つ天女の姿をしたやさしい女神で、この吉祥果を石榴に見立てたという説もある。このため、鬼子母神にとって石榴は切り離せない木になった。人肉がどのような味であるか知るよしもないが、石榴の甘酸っぱいようなところから連想されたのだろう。
ところで、二月堂傍の鬼子母神には戦時中、戦地に子息を送り出した親たちが子息の無事を願って日参し、鬼子母神はにぎわったと言われる。国民を死地に向かわせた国と子を思う親の気持ちの落差を戦争はその成り行きの中で押しつけて来た。それも親たちの気持ちに反する死を美化する方法によって。そして、その親たちの切なる願いにもかかわらず、多くの若い命が散らされて行った。言って見れば、戦争というのは鬼神の妻の行為に等しいと言えるだろうことが思われる。
果たして、敗戦後は改心して子らの守神になった鬼子母神のように平和を守って来た国であるが、また、悪夢を呼び起こす鬼神の欲望でもないが、その危ういささやきが聞かれるようになって来た。なお、石榴は西アジアが原産地であるが、今、あの辺りは厳しい状況に陥っている。鬼子母神の石榴のような効用の持ち主は現れないものか。集団的自衛権行使容認を決めようとしている日本にとばっちりが来なければよいのだが、グローバル化する世界の情勢は容赦のないところがうかがえる。 写真は左から鬼子母神の前庭に見える石榴。甍に映える石榴。花。熟して割けた石榴の実。今ちょうど石榴は実の季節である。
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