大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年10月19日 | 写詩・写歌・写俳

<1141> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (82)

                 [碑文1]            吉野山風にみだるるもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ                     吉村寅太郎

                 [碑文2]            雲をふみ岩をさくみしもののふのよろひの袖に紅葉かつちる                藤 本 鉄 石

                [碑文3]            君がためみまかりにきと世の人に語りつぎてよ峰の松風                  松 本 奎 堂

 これらの歌は、天誅組の終焉の地である大和(奈良県)の東吉野村に歌碑として建てられている天誅組総裁三志士が戦死に当たって詠んだ辞世である。天誅組は、幕末の文久三年(一八六三年)八月、孝明天皇が攘夷祈願のため神武天皇陵へ参詣し、大和に行幸する機会に、明治天皇の前侍従であった公卿中山忠光を盟主として備前の藤本鉄石(津之助)、三河の松本奎堂(謙三郎)、土佐の吉村寅太郎らを中心に幕藩体制を廃し、国家の抜本的改革を目途に決起した尊王攘夷の志士たちの集団である。

 天誅組の面々は、王政復古によって天皇中心の政治体制を築き上げることを目的にした思想の持ち主たちで、藤本、松本、吉村の三志士を総裁とし、これに賛同する脱藩者をはじめ八十数名の志士たちが加わったと言われる。こうして決起した天誅組は、行幸の先鋒として大和に入り、八月十四日行幸の天皇を迎えようとした。一行は河内に向かい、同十七日、河内で陣容を整え、幕府の天領地であった大和の五條を目指し、千早峠越えに五條代官所を急襲、代官の鈴木源内を倒し、桜井寺に本陣を構えて、一時、天領の五條を支配下に置いた。所謂、天誅組の変である。

 だが、政変によって七卿都落ちと呼ばれる尊王攘夷派の公卿三条実美らが脱出して長州に向かうということがあって、天皇は大和への行幸を中止し、行なわなかったので、天皇を迎える目算が狂った天誅組は天皇を仰ぐことが叶わないままやむなく幕府側と戦うことになった。最初は、なお、天皇の行幸に期待をかけ、十津川郷士らから兵を募り、高取城を攻めたりした。しかし、その後も天皇は動かず、幕府側各藩の追討軍は勢いを増し、郷士らに離脱するものも現れ、五條での形勢は逆転し、天誅組の面々は幕府側に追われる仕儀に至り、逃走を余儀なくされた。

              

 天誅組は十津川を南下して熊野の新宮に逃れ、そこから海路、長州に向かわんとしたが、紀州勢に阻まれ、北山川の道筋を遡って、上北山村から伯母峰峠越えに川上村に入り、川上村武木から足の郷峠の山中越えをして同年九月二十四日、東吉野村に入った。今の暦で言えば、十一月五日、立冬の季に当たるそぼ降る雨の日だったという。追討軍も東吉野村に集結し、その日から、天誅組と各藩の追討軍との間で最後の戦いが村内各地で展開され、二十七日まで続き、鷲家口の吉村寅太郎の戦死をもって、天誅組は滅びたのであった。東吉野村が天誅組の終焉の地と言われるのはこのためである。なお、盟主だった主将の公卿中山忠光の一隊は血路を開いて長州に逃れたが、卿は潜伏先で暗殺され、二十歳にして世を去ったという。

 まさに、文久三年という年は、大和において天誅組の疾風が吹き渡った年であったが、その疾風を迎えた各地では、人々がその何たるかを把握する間もなく吹き荒れて終わったのであった。天誅組の最後の地となった東吉野村はまさにその疾風をまともに受けた。村内で殺し合いが行なわれたことに当時の村人たちは戸惑ったに違いないが、世の中を変えようとした志士たちの最後の地として歴史にその名を刻むに至り、後世は 志士たちが倒れた戦地に記念碑を建て、その碑の説明に「幕末の当時、憂国の志士が幕藩体制を廃して国家行政の抜本的改革に、その思想と行動に殉じた地である。云々」と記し、「やがて時を経ずして展開された明治維新大業の魁となり、現代日本繁栄の原動力となった事は、その後の歴史が物語っている」と加え、山間の鄙びた村が世を動かそうとした天誅組に関わり得た縁を大切にしようとしていることがうかがえる次第で、ここに紹介する辞世の歌碑も見られるのである。

          

 天誅組の変は明治維新の五年前のことで、維新の先がけになったということは、前述の記念碑に添えられた言葉が言う通りである。天誅組の決起は少し早かったが、彼らの志からすれば、無謀なことではなかったのであろう。総裁三志士の辞世の思いはそれぞれであるが、尊王攘夷の思想に殉じた行動に誇りをもって死に際したことが共通して感じられる。これらの短歌は武士の本分たる死に際する歌で、武士(もののふ)たる者のほぼ最後を飾るに等しい歌ではないかということが思われる。

 なお、この辞世の総裁三歌は平明で、その意を説明する必要はなかろう。最後に、村の各所で不吉な戦死者を多く出したにもかかわらず、その凄惨な死者を差別することなく、懇ろに葬り、菩提を弔って来た村民の温かな人柄というか、人情のことを加えてこの項を締めくくりたいと思う。  写真上段は天誅組三総裁の辞世の歌碑。左から吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂の歌碑。下段は左から天誅組の志士たちの菩提寺の一つである宝泉寺、宝泉寺前に建てられている天誅組の記念碑、同村鷲家口の天誅組終焉地の碑、伊豆尾山中の松本総裁戦死地の碑、村内では橋の欄干の名板にも天誅組の名が見える。  もみぢ葉を 血潮と見たる 志士の魂


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