<3064> 余聞 余話 「麦の秋」
瓶に挿す青き麦の穂そは花にあらざり父の苦節の思ひ
季語に「麦の秋」という言葉がある。ムギの獲り入れの時期、即ち、田植え前の初夏、五、六月ごろを指す。「麦秋(むぎあき・ばくしゅう)」ともいう。「米の秋」に対して言われる言葉として認識されている。戦後間もない私が子供のころは、ほとんどの農家が同じ田において夏場に稲作、冬場に麦作を行なう表裏の二毛作によってコメとムギの収穫に当たっていた。
コメは主食で、水田による稲作は日本の農業の中心であり、水田風景は今も変わらず、全国津々浦々で見られるが、パン食が増え、ムギの需要は大きくなったにもかかわらず、裏作のムギは特別な農家のほか全く姿を消し、麦畑の風景は見られなくなって久しい。ムギが安価に輸入されるようになったからであろう。麦畑の風景が消えて行ったのは、日本が第一次産業中心の時代から第二次産業への移行、貿易立国を目指した政策方針に重なる。
そして、今や日本の食料事情を示す食料自給率は38%である。という次第で、「麦の秋」も「麦秋(むぎあき・ばくしゅう)」も現代人には実感の持てない言葉の上の郷愁的な季語になった感が否めないところがある。一昔前のことであるが、「麦の秋」の実感を詠んだ詩がある。冒頭の短歌はその反歌と言ってもよい。では、以下に父に寄せたその実感の詩を紹介したいと思う。 写真は麦秋の田園風景(左)とアオムギの穂(右)。
麦の穂は
我が幼きころの父
働きまさりし父
暑さ増すころ
束ねて背負ひゆく
その肩に
堅き穂の針刺さり
滲みつきし汗の
臭ひもろともに甚く 甚(いた)
わが幼きに教へ給ふ
麦は糧にして
ほかのものにはあらざるなり
苦節の賜物にほかならず
いま その麦は
軟らかき青き穂にして
室の瓶にぞ挿さるるなり
ああ そを見れば 父
何と言はむか
麦の穂は糧にしあるもの
花にはあらず と
そを思へば
瓶に挿す青き麦の穂は
いやはてに悲し
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