大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年04月23日 | 写詩・写歌・写俳

<962> 望郷 菜の花

        渡り来し橋の名などは忘れしが 望郷うらうら霞む菜の花

 菜の花は郷愁の花である。日本人にとって菜の花は情感に触れて来る花と言いてよかろう。それは昔から暮らしに密着して来た花だからである。今の若い人にはそれほどでもないかも知れないが、私たちの年代には言えるのではなかろうか。

  戦後間もない昭和二十年代にはまだ蛍光灯はなく、裸電球の下で暮らしていた。その電球も居間と台所くらいで、風呂場などにはカンテラが用いられ、その灯を頼りに風呂を使っていた。そのカンテラに用いられていたのが、菜の花の種、つまり、菜種から採った種油であった。種油は車になくてはならないガソリンと同じようなもので、欠かせないものであった。

               

 電気がまだ全然なかったもっと昔の江戸時代は、灯火用の種油は極めて重要なものであり、その必要性から各地に広く栽培されていた。江戸時代には菜の花畑の光景がすでに見られ、「菜の花や月は東に日は西に」と与謝蕪村も句にその光景を詠んでいる。大和でも菜の花畑の風景はその当時から広範囲に見られ、「菜の花の中に城あり郡山」と蕉門十哲の森川許六は詠んでいる。この句からは菜の花が大和平野を埋め尽すほど植えられ、広範囲に見られたことを物語る。

 つまり、菜の花はこのころから日本人の暮らしに密着していたわけで、誰の情感にも触れて来るものがその黄色い花にはある。電化が進むにつれて、菜の花畑も徐々に少なくなり、今では大規模に栽培されている菜の花畑も少なくなったが、バイオマス燃料として見直されているところもある。このような経緯にある菜の花には、やはり、私たちの情感が纏わるところとなり、その花には懐かしさがあり、郷愁が纏わるわけで、菜の花が郷愁の花であるという認識に至ることになる。

 私は故郷を離れてちょうど半世紀になる。その五十年間、それなりに人生を歩み、今、老いぼれつつある。で、思えば、これまで、いくつの橋を渡って来ただろうか。それはいろいろ、人生のそのときどき、その折節に橋はあり、その折節に渡って来たが、その橋の名などは既に記憶にないものがほとんどである。時を逆さに戻してその記憶の中の名などは忘れた橋を辿って戻って行くと、そこには故郷があり、霞む菜の花の風景があるといった具合である。 写真はイメージで、一面に広がる菜の花畑(斑鳩の里で、後方は法輪寺の三重塔)。 

 

 


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