大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年07月18日 | 写詩・写歌・写俳

<1048> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (76)

          [碑文]     明日香川 明日文將渡 石走 遠心者 不思鴨                                                    詠人未詳

 今回紹介する歌碑は『万葉集』巻十一の寄物陳思の項に見える石橋に思いを寄せて詠んだ2701番の原文表記による歌で、万葉学者犬養孝の揮毫により平成七年(一九九五年)に建てられた碑である。場所はこの歌の明日香川に因み、彼岸花で知られる日本の棚田100選に選ばれて名高い明日香村稲渕の集落に近い、勧請縄が掛けられている勧請橋上流約二百メートルの飛鳥川にある飛び石の石橋のところ。並行して木製の橋が架けられているその橋の北詰めに歌碑はある。訪れたのは七月のはじめ、ちょうど合歓の木が花盛りであった。

 この歌は、「明日香川明日も渡らむ石橋(いははし)の遠き心は思ほえぬかも」と語訳され、明日香川と明日の同音と、飛び石の石橋によって「遠き心」を導く用法によっている一首で、「明日香川を明日も渡ってあなたに逢いに行こう。とびとびの石橋のように遠く離れた気持ちなどありません。ずっと変わりなく思っています」という意にとれる。

            

 ここで言われている川は恋の情には妨げになっている。しかし、妨げではあるが、それゆえに、恋の情を一層燃え上がらせる存在としてあることが言える。つまり、川は此岸と彼岸を分かつ存在で、この歌の詠人は此岸の人であり、思う人は彼岸の人である。この川、つまり、明日香川(飛鳥川)に作られている飛び石の石橋はその此岸と彼岸を繋ぐ役目を担っている。だが、飛び石伝いに渡らなくてはならない橋であるから、それは渡り辛く、殊に女性には難儀な存在であることが歌の内容から見て想像出来る。ゆえに、彼岸は遠くに思われる次第で、「遠き心」に一致するわけである。

 思う者同士と逢瀬の橋の条で言えば、『小倉百人一首』でお馴染みの大伴家持の歌、「かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞふけにける」のかささぎが天の川に架け渡す橋が想起される。此岸の牽牛と彼岸の織媛の逢瀬をかささぎの夫婦が架け渡す羽の橋によって成就させる。橋というのは行き来を妨げる川の両岸を繋いで行き来出来るようにする。かささぎの渡せる橋はその意味を持つ。

 被差別を舞台にし、差別の問題をテーマにした住井すゑの『橋のない川』はその橋の意味というものをよく捉えている。この「橋のない川」の表題は此岸と彼岸の断たれた状態、言わば、断絶を意味するもので、差別の現場の深刻さを象徴的に言っている言葉であることがうかがえる。また、人の行き来を断つためにせっかく作った橋を壊すという話は世界各地の戦場に見受けられて来た。つまり、橋というのは個人的な事情から国単位の事情まで、その機能において重要な意味を持つ。

 少し話が余談に逸れたが、飛鳥時代というのは、川に今のような立派な橋はなく、自然石の飛び石による石橋が作られ、対岸との行き来にこれを利用したことがこの歌でも想像出来る。雨が降り続いて川の水量が増せば、対岸との行き来は難しくなる。これが当時の石橋の姿であった。それでも恋の情の激しさは彼岸への恋しさに川を渡らせるという次第で、『万葉集』には次のような歌も見える。

    人言(ひとごと)を繁み言痛(ことた)み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る                                       『万葉集』  巻 二  ( 116 )  但馬皇女

 この歌は「人の噂があれこれひどいので、未だ渡ったこともない朝の川を渡ることです」という意で、恋しくてどうにもならない皇女が異母兄の穂積皇子に逢うため早朝の川を渡って行ったというものであるが、渡りやすい今のような橋ではなく、この碑文の歌のような飛び石伝いの石橋か、もしくは「朝」が「浅」をも思わせるので、川の浅瀬を衣の裾を濡らしながら渡って行ったのではないかということも想像されるのである。

 碑文の「明日香川」の歌はその表現上から見て、作者が男性でも女性でもよいように解釈出来るが、この但馬皇女の歌に触れると、碑文の歌も女性が詠んだ歌のように思えて来る。果たして恋というのは人の心を大胆にさせると言えるところがある。 写真は左から飛鳥川に作られた飛び石の石橋、次は橋の傍に建てられた歌碑。右は歌碑のアップ。   合歓の花 その花の下 飛鳥川

 

 

 


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