<1123> 一 途
一途よし 一途を言はば 母人の愛の一途に まさるものなし
一人間の能力などというものは知れている。あれをすればこれが出来ず、これをすればあれが出来ずで、あれもこれもと手を出せば中途半端になってものにならないことになる。「二兎を追うものは一兎をも得ず」という諺があるが、これはこのことを言うものである。
我が家にはささやかながら庭がある。庭を美しく有効に使いたいという心持ちはあるが、庭に出て作業をしようという気になれない。カレル・チャペックの『園芸家12カ月』ではないが、庭いじりには時間が必要で、この時間を取られるのが今の私には耐え難い。要は、庭にかかる時間が自分の一日の時間の配分の中で選択出来ないというところにある。こういう次第で、私はほとんど庭いじりのために庭に立つことはない。
で、庭に出るのはもっぱら庭いじりを好む妻で、花のほかに、この夏は十本ほど植えたトマトがよく実った。家計の足しでもないが、トマトは食卓にものぼるといった具合で、収穫を楽しんだ。そのトマトも終わって、この間は、その後に冬野菜の苗などを植えた。みんな妻がやっていることで、庭には私もときに出るが、そういうときは、「いいとこどりばかりする」と妻から非難の言葉を浴びせられることもある。まあ、言われる通りで、心苦しいところもある。だが、やり出すとやりきらなければならないという一種強迫観念的な思いになったりすることも煩わしく、庭いじりには踏み切れないところにあると言える。
こういう庭の作業に対する私の思いなども、言ってみれば、二兎の諺と同じ意味を持つと言ってよい。で、人生は一途がよいと、近ごろはよく思うようになった。最近になって聞いた一途の典型は、世界に話題を呼んでいる小説家村上春樹である。彼は小説を書き続けているとき、家に籠りっ切りになり、誰にも会わず、一心に執筆するという。これは当たり前のように思えて、半端な一途ではないと言ってよい。
これは特別な例だが、一途の効用が手本として身近には見られる。それはお母さんの一途である。家を切り盛りするお母さんの一途は休む暇なく、年がら年中で、この一途によって家は守られ、子供は育てられて行く。梅原猛は『日本文化論』の中で、「お母さんの悪いのはどうしようもない」と言っているが、この「悪い」というのは、病気とかは別にして、この一途に欠け、全う出来ないお母さんのこと、つまり、お母さんのこうした一途の欠如が言われているものである。
何をするにも一途を通すには自己の中に辛抱がなくてはならない。お母さんというのはこの辛抱の権化のような人物のことであり、この一途は愛によって支えられ、それが夫や子供や家族に向けられる。お母さんから一途が失われるとき、家庭はばらばらになり、子供はまともに育たず、その内情は崩壊に向かうということにもなりかねない。
梅原猛の言葉の中にはお父さんの悪いよりもお母さんの悪い方が世の中にとってはよくないということが言われている。これは逆説的な言葉で、お母さんの一途な姿の貴いことを言っていると知れる。言わば、一途よしである。世のお母さん方には、肝に銘じてこの一途を通すべく頑張ってもらいたいと思う。写真は我が家の庭に植えられたブロッコリーの苗(左)と双葉を出したべんり菜。
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