大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年07月26日 | 写詩・写歌・写俳

<1056> 打ち上げ花火

       遠花火 遠き昔の 遠き恋

 真夏のこの時期になると、全国各地で花火大会が行なわれ、夜空を彩る打ち上げ花火が見られ、盛夏の風物詩になっている。大和でも何箇所かで行なわれるが、今日二十六日は斑鳩の里の商工まつりが催され、夜に入って打ち上げ花火があった。また、隣り町の河合町でも打ち上げられ、打ち上げ花火の競演が見られた。近畿ではPLの花火が規模の大きい花火大会として全国的に知られているが、小規模でも打ち上げ花火には見る人の気分を高揚させるところがあって興味をそそられる。

 花火は種々の金属粉を混ぜた火薬で作られるもので、中国の爆竹が起源とされている。我が国には室町時代にこの爆竹様のものが中国人によって持ち込まれ、披露されたことが古文献に見られるようであるが、鉄砲が伝来した十六世紀以降、我が国でも火薬が伝えられたことによって花火が作られるようになり、江戸時代には花火業者も現れ、江戸を中心に広まりを見せて行ったと言われる。

            

 打ち上げ花火は享保二年(一七一七年)に、江戸の水神祭りに花火業者によって打ち上げられた献上花火を先きがけに始められたと言われる。享保十八年(一七三三年)には飢饉や疫病で、多数の死者を出したことから、八代将軍徳川吉宗がその死者を弔い、悪霊退散を願って両国の大川(隅田川)端で打ち上げ花火を行なったとされ、これが隅田川の川開きの打ち上げ花火に継がれ、現在の隅田川花火大会(今年は同じ二十六日)の花火に至っているという。

 この大川(隅田川)の両国花火がもとになり、打ち上げ花火は天上の死者を慰める意によって主に盂蘭盆と連動して行なわれるということが意識されるようになった。で、俳句では盂蘭盆と同じく、花火の季語は秋ということであった。だが、花火は夏に行なわれていたので夏のものとする認識もあるという具合で、夏の季語派も現れた。

  その後、関東地方ではお盆を新暦で行なうようになり、それにともなって打ち上げ花火も新暦に合わせるところとなり、花火は夏の季語に移行し、花火が納涼を目的の時代になるに従って、花火の季語は夏が主流になり、今では夏の季語とする傾向にある。だが、伝統を重んじる俳人らはなお花火を秋の季語としている。なお、盂蘭盆の季語は秋である。

 この打ち上げ花火に死者との心の交信という発想によって書かれたのが、中河与一の名作『天の夕顔』である。愛する人を亡くした主人公のわたくしが天に開く打ち上げ花火に嘗てその人が摘んだ夕顔の花を重ねて思うもので、ここに登場する打ち上げ花火は、盂蘭盆と連動してあった伝統的な花火が思われて来るところである。

  『天の夕顔』は次のようにラストを締めくくっている。「しかしそれ(花火)が消えた時、わたくしは天にいるあの人が、それを摘みとったのだと考えて、今はそれをさえ自分の喜びとするのです」と。括弧のところは筆者挿入。つまり、打ち上げられた花火が一瞬にして消え去ったのを、亡くした愛する人が天にあって、嘗て摘み取った夕顔のごとく、その花火の花を摘み取ったのだとみたのである。

 ところが、時代が進むにつれ、打ち上げ花火は盂蘭盆の慰霊とは関係なく、納涼を目的に行なわれるようになり、花火の技術も向上し、大きさや美しさを競うようになるとともに、花火大会の規模も大きくなり、一大イベントとして観光の面にも役立つようになって、今に至るという次第である。

  また、催しものの景気づけなどにも用いられるようになり、打ち上げ花火は年を追って盛んになっている観がある。地方経済の衰微によって、中止になっている花火大会も一方にはあるが、今日の斑鳩町商工会まつりの花火のような花火大会は全国各地で行なわれている次第である。  写真は左が斑鳩町商工まつりの花火(右手前は法起寺三重塔)。中央は花火のアップ。右は大和川を挟んで競演の斑鳩町商工会まつりの花火(左上手前)と河合町の花火(右下奥)。

 


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