<1263> 正岡子規の小刀と錐
貫きし意志が描かる 随筆の子規が形見の 小刀と錐
脊椎カリエスの病状篤く、『病牀六尺』の人であった正岡子規は三十五歳の若さで亡くなるが、その死の十一カ月前の明治三十四年十月十三日の随筆『仰臥漫録』に次のような文章を書き記している。
―前略― 余ハ左向ニ寐タママ前ノ硯箱ヲ見ルト四、五本ノ禿筆一本ノ験温器ノ外ニ二寸許リノ鈍イ小刀ト二寸許リノ千枚通シノ錐トハシカモ筆ノ上ニアラハレテ居ル サナクトモ時々起ラウトスル自殺熱ハムラムラト起ツテ来タ 実ハ電信文ヲ書クトキニハヤチラトシテヰタノダ 併シコノ鈍刀ヤ錐デハマサカニ死ネヌ 次ノ間ヘ行ケバ剃刀ガアルコトハ分カッテ居ル ソノ剃刀サヘアレバ咽喉ヲ掻ク位ハワケハナイガ悲シイコトニハ今ハ匍匐フコトモ出来ヌ 已ムナクンバコノ小刀デモノド笛ヲ切断出来ヌコトハアルマイ錐デ心臓ニ穴ヲアケテモ死ヌルニ違ヒナイガ長ク苦シンデハ困ルカラ穴ヲ三ツカ四ツカアケタラ直ニ死ヌルデアラウカト色々ニ考ヘテ見ルガ実ハ恐ロシサガ勝ツノデソレト決心スルコトモ出来ヌ 死ハ恐ロシクハナイノデアルガ苦ガ恐ロシイノダ 病苦デサヘ堪ヘキレヌニコノ上死ニソコナフテハト思フノガ恐ロシイ ソレバカリデナイ 矢張刃物ヲ見ルト底ノ方カラ恐ロシサガ湧イテ出ルヤウナ心持モスル 今日モコノ小刀ヲ見タトキニムラムラトシテ恐ロシクナツタカラジツト見テヰルトトモカクモコノ小刀ヲ手ニ持ツテ見ヨウト迄思フタ ヨツポド手デ取ラウトシタガイヤイヤココダト思フテジツトコラエタ心ノ中ハ取ラウト取ルマイトノ二ツガ戦ツテ居ル 考ヘテ居ル内ニシヤクリアゲテ泣キ出シタ ―中略―
逆上スルカラ目ガアケラレヌ 目ガアケラレヌカラ新聞ガ読メヌ 新聞ガ読メヌカラ只考ヘル 只考ヘルカラ死ノ近キヲ知ル 死ノ近キヲ知ルカラ ソレ迄ニ楽ミヲシテ見タクナル 楽ミヲシテ見タクナルカラ突飛ナ御馳走モ食フテミタクナル 突飛ナ御馳走モ食フテ見タクナルカラ、雑用ガ欲シクナル 雑用ガ欲シクナルカラ書物デモ売ラウカトイフコトニナル ……… イヤイヤ書物ハ売リタクナイ サウナルト困ル困ルトイヨイヨ逆上スル
このように記し、筆で描いた小刀と千枚通しの錐のスケッチを添えている。詩人大岡信は解説の中で、「正岡子規が歿したのは明治三十五年九月十九日午前一時ごろだから、『病牀六尺』はその二日前、いや現実感覚に即していえばそのわずか一日前まで、子規の文筆活動の本拠地といってよかった新聞「日本」の紙面を飾っていたのだった。(略)子規は、書くこと、書くこと、書くこと、そこにしかすでに生きている証しを見出し得ない病牀六尺の人だったが、最後は友人「芳菲山人」の狂歌をかりて、「拷問などに誰がかけたか」と運命の大いなる締め木に対して一喝したのち、その翌日、糸瓜咲て痰のつまりし仏かな おととひのへちまの水も取らざりき 痰一斗糸瓜の水も間にあはず の三句を絶筆として世を去ったのである」と驚嘆している。
また、作家大江健三郎に『持続する志』というエッセイ集があるが、その棹尾の「学力テスト・リコール・子規」の中で、彼は子規のことを愛媛の同郷人として「その精神において愛媛の生んだ、最上の人間である」と述べた後、「子規堂の小さな勉強部屋にかかげられた子規の写真は、強い光をやどした眼といい、たくましい鼻筋や顎といい、子規がその精神のみならず容貌においても最上の愛媛の人間であったことをたちまちさとらせた。愛媛の、わが愛する青少年諸君よ、受験勉強の日々に志がおとろえたような気持になることがあれば、子規堂にいってあの写真をごらんなさい。すでに働いている諸君もまたおなじである」と述べている。この一文は、激烈な病苦にもめげず、志を全うした先人子規の苦境を越え得た精神力に敬意を表し、それを挙げて受験生やすでに働いている若い人たちを励ましたのである。
大岡の驚嘆も、大江の称讃も、子規が、いかに病苦を越え、「書くこと」の志を持続し、いかにその精神力によって人生を貫いたか、というところにある。 写真は子規の三大随筆と中に描かれた小刀と錐。
痰一斗その一斗にて思ふべし 『病牀六尺』 『仰臥漫録』
刺さざりしその忍耐を思ふべし 子規が描きし 小刀と錐
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます