<170> おんだ祭り (御田植祭) (6)
日差しには 春が宿れり お田植ゑの 祭りの豊年舞ひも華やぐ
今日は磯城郡田原本町の鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社)のおんだ祭り(御田植祭)を見学に出かけた。 厳しい寒波で、日本海側では記録的な大雪の報であるが、大和は好天に恵まれ、日差しに明るさの見られる一日だった。 大和はこの時期、連日のようにどこかでおんだ祭り(御田植祭)が行なわれ、春が近いことを告げている。
鏡作神社は天照国照日子火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)と 石凝姥命(いしこりとめのみこと)、 天糠戸命(あまのぬかとのみこと)の三神を祀り、社伝によると天照国照日子火明命は第十代崇仁天皇のとき、 神鏡が作られ、試鋳した鏡を御神体として祀ったもので、人格神ではない。その名前からみて、天皇が皇居に祀っていた天照大神の分身(魂)と見なしたのであろうことが想像出来る。
因みに、崇仁天皇の御代には洪水などの災害や飢饉が多発し、このため天皇は天照大神を同じ屋根の下に祀るのはよくないとして、三輪山の西麓に当たる檜原神社付近に遷したのであった。鏡作神社の由来はこの時の話に関わるものか。その後、天照大神はなおも変遷を重ね、最終的に今の伊勢神宮に祀られるに至ったことはよく知られるところである。。
また、 石凝姥命は天の岩戸に隠れた天照大神を誘い出すために用いた八咫鏡を作った神と言われ、天糠戸命は石凝姥命の父の系譜に当たる神で、 このニ神はこの辺りに集まっていた鏡作りの祖とされ、 祀られたと言われる。 社伝と『日本書紀』の記述に合わない点が見られ、真偽のほどはよくわかっていないが、神話に関わることであるから、 それほど目くじらを立てるほどのことでもないように思える。 どちらにしても、鏡作神社が由緒の古社であることに変わりないと言えるだろう。
また、おんだ祭り(御田植祭)については、 いつごろ始められたか不明であるが、 神社の付近には日本有数の弥生時代の環濠遺跡である唐古・鍵遺跡があり、二千年以上前から稲作が大規模に行なわれていたことがわかっており、古墳時代以降も稲作地帯として栄えた地域であることを考えると、おんだ祭り(御田植祭)も古い歴史を有していることが考えられる。
さて、祭りであるが、午前中に拝殿で祈願の神事が取り行われ、午後には女性による「お田植舞」と「豊年舞」が拝殿前の庭で披露され、続いて男性による「牛使い」の所作が神田に見立てられた境内中央の庭で行われた。その後、松苗を植え、餅撒きが行われて祭りは終了した。二つの舞(踊り)は地元婦人会と小学生の二十数人が紺絣に赤い襷と前垂れ、水色の手甲脚絆に檜の花笠という昔ながらの華やかな出で立ちによって笛、太鼓、笏などに合わせて踊り、見物衆の目を引いた。
「牛使い」の方は牛が主役の所作であるが、 ここの牛は茶色い牛で、二人が一組で被るので、四本足になり、リアルであった。牛が暴れるほど豊作になると言われるだけに、所作役も心得たもので、今年もよく暴れた。暴れ過ぎて転ぶことも四、五回に及んだが、 今年も豊作間違いなしというところである。牛役にはまことに御苦労さま。好天の下、神社はときおり笑いが起ち上がる何よりの一日だった。
今回はおんだ祭り(御田植祭)に関わりの深い牛について触れてみたいと思っていたが、 祭りの記述が長くなってしまったので次回に回すことにした。 写真は上段左から五枚目までが「お田植舞」、 六枚目からは稲穂を持って踊る「豊年舞」。 下段左から供えられた牛面、太鼓で所作の開始を告げる役、 順に鍬を使い、 畦をつくり、籾を播く所作役、牛使いと牛役の所作、転んだ牛役、松苗を植える白丁の所作役たち。