<169> 吾輩は猫 (2) ~<168>よりの続き~
良心と思ふなるべし悩みとは 誰かが撞いてゐる鐘の音
吾輩は二匹の兄弟とともに親から引き離されて神社の境内に捨て置かれた。神社に捨て置けば誰か奇特な御仁が拾ってくれるだろうと飼い主は思ったに違いない。飼い主には命のままならないものを捨てる引け目を負った弱り目の心理の上に横着で姑息な思惑が働いたのであろう。 まだ目もはっきりと開かないうちに吾輩はこの身になった。 しかし、生まれてまだ間もない乳飲み子ではあったが、春という暖かな季節が命を救ってくれた。 この点においては、「どこで生まれたか頓と見当がつかぬ」という先生の猫と大差はない。
このように吾輩の身は生れ立てから厳しく、深刻であったが、「棄つる神あれば、引きあぐる神あり」で、命を落とさず、 今ここにこのように半野良猫の暮らしをして生きていられるのは、 小学六年生の男の子が下校のとき、捨て置かれた子猫の哀れを思い、吾輩を自分の家に連れ帰ったことによる。男の子がなぜ兄弟の中から吾輩のみを選んで連れ帰ったかについてはよくわからないけれども、これが縁というものであろう。これは運命的といってよく、そこから吾輩には新たな道が開けたのであった。
男の子は吾輩のみを連れ帰ったことに随分悩んだらしく、 後にわかったことであるが、 残された兄弟への気持ちが尾を引き、 次の日にまた神社の境内へ様子を見に寄ったことを母親に話した。そのとき境内には既に兄弟の姿はなく、男の子にはどうしたろうという思いが心の中に残った。 そこで後日、 母親が捨て猫の話を神社の人にしたところ、 神社の人の言うには、飼いたいという御仁が現れ、二匹とも引き取られていったという。男の子にはそれを聞いてほっとしたのであった。
この話は吾輩に関わって生じたことなので、後にこの話を聞いて、男の子の気持ちが思われ、 何か済まないような心持ちになったが、 悩みというものがこのような事情によっても生まれるものであることを教えられた。 で、 いろいろと思い巡らせてみたが、 悩みというものは良心に宿るものではないかという考えに行きついた。それもプラスされるやさしさに宿る。つまり、 悩みというのは、ひとつに良心の顕現であり、良心の証にほかならないということが思われた。 その上に、 悩みが高じれば、鬱の症状が現われたりする。 こういうことを総合的に考えてみると、鬱の人間に悪人はいないという結論に至る。そう言えば、吾輩が知る限り、鬱人の中に悪人はいない気がする。
悩みにまでなったこの男の子の切ないような思いは、パスカル先生の「(人間は)生まれつき不正である。なぜなら、 すべてが自分に向かっているから。 このことは全体の秩序に反する」という理屈がすべての生きものにあって出来上がっているこの世の中において、何か救われるような思いを抱かせる。 ゲーテ先生は「もはや愛しもせねば迷いもせぬ者は埋葬してもらうがよい」と言っているが、迷いは悩みと解してもよいように思われる。 この言葉はまさしく良心の持ち主であるやさしい男の子への励ましの言葉に聞こえる。 (以下は次に続く)