山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

へのへのの旅(07東北春旅)第26回

2008-07-13 04:51:58 | くるま旅くらしの話

第26日 <5月24日()    

道の駅:東和 → (県道) → さき織伝承館 → (県道・R283R456) → 宮沢賢治記念館他(花巻市)→ 花巻市新渡辺記念館 → (R4・県道) → イギリス海岸 → (R4・県道) → 花巻温泉駐車場 → (県道・R4)→ 道の駅:石鳥谷(花巻市)(泊)  <56km

昨夜は、近くに不心得の車がいて、夜中にエンジンをかけエアコンを回したまま寝ている奴がいた。よほどタタキ起して注意してやろうかと思ったが、トラブルになるのも面倒と我慢して、車を移動させた。迷惑をかけている奴がそのまま平然と迷惑行為をし続け、迷惑を被ったものがすごすごとその場から退却するというのは、真に情けなく、男のすることではないと思いつつも、人道の乱れ果てている現世では、徒に事件を引き起こすのも思い憚(はばか)れて我慢した。(心の中では、何度もぶん殴っている)

今日は花巻郊外にある宮沢賢治記念館を訪ねてゆっくり時間を過ごし、明日から南下のスピードを速める考えである。朝食を済ませ、いつもの準備をした後、東和町(今は合併して花巻市)の案内図を見ていたら、邦子どのの関心大の裂き織り伝承館というのが町の施設としてあるというので、そこへ行ってみることにした。裂き織りというのは、古い布地などを利用して、作る織物のことで、邦子どのは小さな織り機を購入してこの頃は結構打ち込んで織物を作っている。何か参考になるのではないかと思った次第。

しかし行って見ると、そこは町の子供たちなどが不定期に学習の一環として裂き織りの実習をするような場所らしく、あまり使われた形跡のなさそうな、大型の織り機が10台ほど置かれただけの無人の施設だった。何もわざわざ観光案内板に掲載するような施設ではない様に思った。何とかの補助金を獲得して作った、行政の手柄を誇示するための愚かな宣伝のようにも思えた。この種の偽善がらみの発想にはむかつく。

がっかりしながら、R283に戻り花巻方面へ。30分ほどで宮沢賢治記念館の駐車場に到着。ここには記念館のほか、イーハトーブ館、童話館がある。自然を取り込んだ広大な敷地は、そこいらのゴルフ場などよりも広いのではないか。花巻は宮沢賢治なしでは存在しないほどに、この先人を大切にしているのがわかる。今日はその総本山とも言えるこの一大和風テーマパークを満喫するつもりでいる。

先ずは園内にある胡四王神社という所へゆくことにした。この記念館を訪れるのは二度目だが、前回はこの神社などの存在にも気づかなかったほどである。しばらく歩いてそこへ行って見ると、小さいけれど荘厳さを感ずる社殿があった。

  

  胡四王神社本殿。風格のある建物である。

由緒についての説明板によればかなり古い創建らしい。蘇民祭などのことが書かれていたが、何のことか良くわからない。とにかく参拝して案内標識に従ってイーハトーブ館のある、下の方へ行ってみることにした。

イーハトーブというのは、宮沢賢治がイメージした理想郷の名称らしい。とにかくこの人は天才だと思う。文学を超えた世界の中から、人間の感知できるイメージの世界を広げ得て伝えた人ではないか。大正や昭和などという時代を超越した絶対的な、ものに対する認知感というか、人間としての限界に近いイメージ能力を持っていた人だと思う。同郷の啄木(啄木の方が先輩)も魅力ある人物だけど、宮沢賢治という人が保持していた世界は、スケールが違うような気がする。

  

  イーハトーブ館入口。右手に賢治のシルエットがある。

そのようなことを考えながら散策を楽しんでいると、道脇にササバギンラン、ササバキンランや南蛮ギセルなどの野草を見つけて感動した。野草には大いに関心があり、今頃は探さなくても野草の方から声をかけてくれるので嬉しい。邦子どのもそれに馴れてきているらしく、南蛮ギセル(もしかしたらギンリョウ草かもしれない)は彼女の発見だった。忘れられかけている植物の存在に目を向けるようになったのは、糖尿病になって、歩くことを余儀なくされたお陰である。糖尿君のお陰でギンランやキンランに出会うことができているのである。雑草は全て草と一括して認識するだけの人間は、寂しく、気の毒なお人だと思う。

イーハトーブ館に行ったら、宮沢賢治の童話作品の挿絵を書かれている田原田鶴子という方の展覧会が開かれており、美しい絵がたくさん展示されていた。読み込んだ作品から絵をイメージして描くというのは素晴らしいことだと思う。田原さんという方の想像力は、原作者の抱いたイメージを超えるほどの力があるのではないかと思った。皆いい絵だった。

イーハトーブ館から少し歩いて、童話村へ。勿論前回も訪ねた所である。林の中を散策すると、ベンチがありそこに坐ると賢治の作品の語りを聴くことが出来るような装置が設けられていた。新緑の林の中で、目をつぶってその語りを聴いていると、自ずと賢治の童話の世界に入って行く。1時間近く何篇かの童話の語りを聴いた。俗世間を忘れる夢幻の世界であった。

童話館には、農学校の先生でもあった賢治の植物に詳しい記述から、童話などに取り上げられている植物を植えた野草園らしきものが作られており、そこへ行って見ると、九輪草の花が目立っていた。そして、その野草園とは無関係の脇道には、筆リンドウの愛らしい花やキランソウの小さな紫の花を見つけることができて大感激だった。賢治という人も園芸用に作り変えられた九輪草などよりは、筆リンドウやキランソウの方を童話の題材に選んだに違いないと思った。とにもかくにも心の和む最高の時間だった。

もうそろそろいいかなと思って、車に戻った時は15時近くになっていた。今日はこれから賢治の名づけたイギリス海岸という所へ行き、その後花巻温泉に行って湯に浸り、何度か泊まったことのある石鳥谷の道の駅にお世話になろうと思っている。

イギリス海岸は、バイパスが出来たせいで行きにくくなっていた。少し迷って近くの駐車場に到着。そこから歩いて行って見たのだが、北上川は、雪解け水が満々と溢れた急流となっており、海岸などの風情は全くなかった。渇水期でないとその昔の情緒は味わえないのだと思った。北上川も、長い時間の経過と共にその姿を変えているのかも知れない。少しがっかりしながら、花巻温泉のある山側の方へ車を走らす。

花巻温泉を訪ねるのは初めてのこと。花巻温泉ホテルに立ち寄り湯があるというので、共同駐車場に車を停め、B1Fにあるそこへ入りに行く。350円也。露天もなく、展望などは全くダメだけど、温泉としては悪くないお湯だった。それにしてもここの温泉街は、大きなホテルなどが幾つもあって、これほどの規模だったとは知らなかった。共同駐車場というのはいいなと思った。

風呂から上がった後は、宿を予定している石鳥谷の道の駅へ。石鳥谷は南部藩お声掛りの杜氏の里である。ここには何度もお世話になっている。売店は未だ開いていたので、今日は特別に活性生酒をいう奴を邦子どのに奢らせた。濁り酒風だったが、やっぱり本物のどぶろくには及ばない。どぶろくと甘酒を混同している人が結構多いが、どぶろくは生酒そのものであり、麹が混ざっているからといって決して甘くはない。むしろピリッとした辛さこそが生命だと思う。ゲットした生酒は少し甘かったのが残念。酒にはうるさい。あっという間に飲み干し、爆睡へ。

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へのへのの旅(07東北春旅)第25回

2008-07-12 05:35:27 | くるま旅くらしの話

第25日 <5月23日()

道の駅:山田 → (R45R283) → 遠野民話村駐車場・市内散策【遠野市博物館・南部神社・鍋倉城址・昔話村・城下町資料館など】→ 道の駅:遠野) → (R340・県道) → 早池峰神社 → 遠野ふるさと村 →(R340R283) → 道の駅:宮守(遠野市)→ (R283・県道) → 道の駅:東和(花巻市)(泊)  <157km

早朝のブログ投稿を終えて車の外に出てみると、今日も快晴のいい天気である。今日は釜石まで行き、R283で遠野へ行き、その後は東和の道の駅にでも泊るつもりでいる。9時少し前に出発。

釜石からは次第に山の中に入る。仙人峠という難所があり、その下のトンネルを潜って山を下ると遠野へ出ることが出来るのだが、新しい道路が出来たのを知らず、うっかり旧道を行ってしまったため、曲がりくねった急坂を長い時間登り続けることになり、SUN号には結構汗をかかせてしまった。しかしおかげさまで、新緑に染まった新鮮な大気を思いっきり味わい、素晴らしい景観を眺めることが出来て、却ってラッキーだったような気がした。1時間半ほどかかって遠野の市街中心にある昔話村の駐車場に到着。この後は、存分に遠野探訪をするつもりでいる。

先ずは遠野市立博物館を訪ねることにした。この博物館と遠野昔話村それに遠野城下町資料館の共通の入館切符を買い、早速博物館の中に。今まで何度も遠野に来ているのだが、博物館に入るのは今日が初めてである。中に入ってみると、想像以上に立派な施設で、この地に関わるたくさんの資料や展示品が陳列されていた。中に民話を聴くコーナーがあり、ボタンを押すと幾つもの話を聴くことができるようになっていた。本を読むのと違って、地元のお年寄りの声で話を聴くのもいいものだ。そもそも話というのは、音声で聴くものなのだなという、当たり前のことに改めで気づいた。

時間ほど館内をゆっくり見学した後は、裏手にある鍋倉城跡へ。長い石段を登って、城址の入口にある南部神社へ。ここには遠野に移るまでの八戸根城南部氏の八代に渡る祖先を祀っているという由緒書が掲示されていた。鍋倉城は八戸から移った根城南部氏がこの地に築いた城である。本丸までは未だかなりの登りが続くので、邦子どのは諦めてリタイアとなる。本丸まで歩いてみたが、人影も無く、草叢の中にスミレの群落が幾つか出来ていた。眼下に遠野の市街地が一望でき、早池峰の峰も遠望できる。宗家の命令で、八戸を追われる形でここに居を構えなければならなかった、往時の藩主や家来達の心中は如何ばかりだったろうか。往時の遠野といえば、僻地の極みのような土地ではなかったかと思う。

  

  鍋倉城址から見た遠野市の市街地の景観。鍋倉城は八戸の根城南部氏が移り住んで居城とした所である。

山を降りて、邦子どのと合流して遠野昔話村へ。ここは見学したことがある場所。復習するつもりで一回り廻って、売店で民話の本を数冊買ったら、売店のおばさんに、不思議がられて、何をする方なのですか?などと訊かれてしまった。一度に何冊もの本を買うようなもの好きはあまりいないらしい。その後、もう一つ残っていた城下町資料館を訪ねる。ここは小さな資料館で、刀剣などが多く並べられていたが、その中にここに所替えになった時に宗家から交付された「拾戸遠野村付之目録」があるのを見て、ここはやはり十戸だったのだと思った。へのへのの旅の最後の戸の場所に相応しいということを確信した。

  

  その昔、遠野は拾戸(=十戸)と呼ばれていたことを示す書付があった。

もう昼の時間を遙かに超えていたので、少しはなれた道の駅に行き、食事とすることにした。途中郊外を通っていると、スーパーなのだろうかヨーロッパの出来損ない風の白っぽい大きな建物が目に入った。何とも場違いで、遠野のイメージを懸命にぶち壊そうとしている感じがした。目立てばいいというのだろうが、見当違いの悪趣味にはあきれかえるばかりである。このような店では絶対買い物はしないぞ、と勝手に意気込みながら道の駅に到着。

道の駅は風の丘と呼ばれる小高い丘の上に造られており、文字通り風が強い。今日もかなりの風が吹いていた。お湯を沸かし邦子どのが買って来た天ぷらでうどん作って食す。しばらく一休み。

どこか適当な行き先はないかと、道の駅の観光案内を覗いていたら、邦子どのが、何やら焼き物を売っているおじさんと話をしており、手招きをするので行って見ると、その方が縄文焼きという焼き物の製作者で、その焼き物の魅力に取り付かれて現在はここに住み込んでおられるとか。奥さんが守谷の隣町の水海道(現在は常総市)出身だそうで、守谷のことも詳しいようだった。何となく親近感を覚えて焼き物を覗いていたら、縄文焼きの小さな土偶が目に入った。その中の一つを買わせて頂くことにした。デスクの隅にでも置いて、縄文人と対話することにしよう。この地のジオラマ・マップを見ていたら、意外と近いところに早池峰神社があるのを知り、観光案内の人にそこまでの道路の様子を伺ったら、観光バスも行っているという話なので、それならば大丈夫だろうと思い行ってみることにした。

40分ほどかかって早池峰神社に到着。鬱蒼とした杉などの大木に囲まれた威厳のある神社だった。山門というのか脇門というのか茅葺きの門が一つあって、それは今にも朽ち果てそうにして建っていた。又拝殿も茅葺きで、古めかしく如何にも貫禄がある。

  

  素朴だが、本物感溢れる早池峰神社の拝殿。

その奥の本殿は昭和の終わりごろ補修をしたらしく、茅葺きではなく銅版のようなものが被せられていた。早池峰山というから、もっと山奥にあるのかと思っていたが、ここが本社であり、奥の院は早池峰山の頂上の方にあるらしい。神社のことは良く解らないが、こうやって苔むし、屋根に草木を生やした茅葺きの建物を見ていると、自ずから歴史の重みが伝わってくるような気がして、敬虔な気持ちになる。参拝の後、しばらく境内を散策したが、白い花をつけた大花のエンレイソウやニリン草などが、この地の春の訪れを静かに告げていた。来てよかったなと思った。

早池峰神社からの帰途、道端でウドやエビネらしき山菜というか野草を発見。ウドは天ぷらにエビネは我が家の庭へ連れて帰ろうと少し寄り道をした。遠野ふるさと村というのがあり、ちょっと寄ってみたが、ここは木工など山の暮らしの体験学習をする場所らしい。もう時間も遅いので、入村は諦め、売店を覗くだけで先を急ぐことにした。

R283を花巻方面へ向って進む。途中宮守の道の駅にちょっと立ち寄る。この道の駅は、宮沢賢治の小説銀河鉄道の夜のイメージの元となったのではないかといわれる、旧岩手軽便鉄道(現在はJR釜石線)のめがね橋の架橋が直ぐ近くにある。写真を撮りに来る人も結構いるようだ。今日はどうだろうなどと思っていたら、あっという間に気動車が走り去って行ってしまった。以前は道の駅の構内に列車の通過予定時刻表が貼ってあったのだが、今はそれがなくなっていた。サービスの感覚が磨り減ってきているのかなと思い、がっかりした。

東和の道の駅には18時少し前に到着。今日はここに泊めさせて頂く考えである。早速3日ぶりの温泉へ。ここには日高見の霊湯と呼ばれている温泉が隣接されている。600円と料金が高く本来ならば遠慮するレベルなのだが、何故かここへ来ると入ってしまう。19時になると100円割引となるのだが、それまで待ったことはない。見えざる霊のなせる導きなのか?もしそうだとしたら、その霊なるものは、相当銭勘定にこだわっており、大したものではあるまいと思う。温泉の方はまあまあ普通である。たっぷり汗を流し、車に戻る。ここまで来ると、ぐんと関東が近くなるような感覚だ。 

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へのへのの旅(07東北春旅)第24回

2008-07-12 05:34:36 | くるま旅くらしの話

第24日 <5月22日()    

道の駅:西根 → (R4・県道) → 岩手県立博物館(盛岡市)→ (R4R106) → 道の駅:区界高原(川井村)→ (R106) → 道の駅:川井(川井村)→ (R106R45・県道) → 浄土ヶ浜(宮古市)→ 道の駅:宮古 → (R45) → 道の駅:山田(山田町)(泊)  <238km

西根の道の駅の夜は、結構交通量が多くて、賑やかだった。泊りの車も数台あったようだが、起きて見ると隣に札幌ナンバーのキャンピングカーが泊っていた。朝食の後、少し話をする。我々よりは一世代ほど若い方で、未だ現役だとか。1週間ほど休みが取れたので、やがて来るリタイア後の日本めぐりの練習に南下してきたのだとか。奥さんは内地の道の悪さを嘆いておられた。北海道の道から較べたら、内地の山道は崖っぷちを走っているようなところが多く、肝を冷やしたとのこと。さもあらん。

今日は又快晴で、岩手山が迫ってよく見える。ついつい何枚もシャッターを切ってしまった。今日はまず岩手県立博物館を訪ねることにしている。青森県だけでなく、岩手県のトータル資料館も見学しておきたいという考えである。博物館を見た後は、今回の旅での観光先として願っていた浄土ヶ浜を訪ね、その後は遠野方面へ戻り、最終的には再びR4を通って南下を続けたいと考えている。細かいことは何も決めていない。

9時少し前道の駅を出発。岩手県立博物館は、盛岡市の郊外にあるのだが、そこには40分ほどかかって到着。広大な規模の施設なのに驚かされた。

  

  岩手県立博物館全景。広大な敷地の中に立派な施設が造られている。本館の内容もすばらしい。

青森の郷土館は港に近い街中にあったが、こちらは自然を巧みに生かした森のような中に建てられていた。見事だったのは、岩手山を借景にしていることである。今日の快晴の空の下に、博物館の大きなガラス窓から見る岩手山の展望は、巨大な天然の絵画というか、芸術作品だった。

  

  岩手県立博物館から見る岩手山。その雄大さは富士山を思わせる。火山活動が悪化しないことを祈るのみ。

入口の直ぐ傍に東和町(今は花巻市)の毘沙門堂にある一木彫りの木像としては日本一という巨大な毘沙門天のレプリカが置かれていたのにも驚いた。毘沙門天というのは、仏教の世界で、仏を守る四方の守護神で、四天王と呼ばれている自国天(東方)、増上天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)の一つの多聞天のことであり、多聞天は一切を聞き漏らさぬ知恵者だとのこと。多聞天は単独で信仰される場合は、毘沙門天と呼ばれ、勝負の神様となるとのこと。そのような説明書きがあり、勉強になった。

毘沙門天の信仰では上杉謙信が有名だ。自らを毘沙門天の生まれ変わりと称して戦国の世を走り回ったという話がある。景観といい、毘沙門天のレプリカといい、スケールの大きさに些か度肝を抜かれながら、館内をくまなく巡り歩いた。

縄文時代の昔から現代まで様々な分野の歴史資料が陳列・展示されていた。館内だけでなく、広大な敷地内には、岩石のそのままの見本エリアや移築された古民家などが建てられており、じっくり見て廻ったなら1日かかっても時間不足になると思われた。館内には自由に持ち帰れるプリント資料がたくさん配置されており、後でもう一度読み返すのに大いに役立った。4時間近く在館して、昼食も中にあるレストランでガラス窓の向こうに広がる岩手山の絶景を見ながら済ませて、車に戻った時は、13時を遙かに過ぎていた。

 R4に戻り、しばらく走ってR104に入り、一路宮古を目指す。途中区界高原の道の駅に立ち寄り小休止。邦子どのの話では、ここで懐かしい茨城弁の人たちを見かけたという。観光バスから降りてきたおばさん連の一団がそうだったらしい。浄土ヶ浜の観光の戻りの人たちかなと思った。とにかく中年女性の観光団は姦しい。旅の興奮の中でだっぺ言葉でまくし立てればお国は直ぐにばれてしまうのは必然だ。

長い下り坂をしばらく走ると、もう一つ道の駅があった。閉井の里かわい、と書かれた案内板が掲げられていた。先ほどの区界高原も川井村の道の駅だったから、この村には二つの道の駅があるわけだ。かなりの面積を持つ村だなと思った。この道の駅は木工などの特産品のアピールに力を入れているようだった。ちょっと覗いて直ぐに出発。

浄土ヶ浜に着いたときは、15時半を過ぎていた。今日は天気がいいのでまだまだ観光に支障は無い。だけど観光遊覧船の出航はあと一便だけになっていた。船に乗るつもりは無く、我々は歩いてゆく予定である。素晴らしい眺めだった。浄土ヶ浜を訪れるのは初めてである。へのへのの旅の終点は浄土ヶ浜が相応しいと思うようになっていた。旅の流れとしては、一戸から九戸までを廻り、遠野(十野)に出て、最後は浄土ヶ浜で心を清めて旅は終わるというイメージである。今回は順序はめちゃくちゃだが、本番の時はそのような流れを考えている。遊歩道を下に降りて、浜辺を散策する。松の木などを頭に載せた奇岩が連なって、小さな入り江を取り囲んでいる。マリンブルーの海と真っ青な空の色に、白い砂浜や奇岩たちが見事に調和して、浄土の景観を醸し出している。

  

  この世のものとは思えないほどの神秘的で美しい景観である。浄土ヶ浜とは良くぞ名付けたと思わずにはいられない。

古の人たちがここを浄土ヶ浜と呼んだ気持ちが解るような気がした。その意味で観光船に乗るのは邪道だなと思った。遊歩道の脇にウワミズ桜が白い穂のような花を咲かせていた。1時間ほどの散策を楽しんだ。

さて、今夜の宿はどうするか。宮古市内にも道の駅があるのだが、海の直ぐ傍にあるらしい。とにかく行ってみて、邦子どのがOKならばそこに泊ろうかと考え、出向く。宮古の道の駅は、魚市場に隣接して作られていた。時間が遅いので、勿論魚は残っていない。邦子どのはやっぱり泊るに関しては、拒絶反応を示していた。とにかく大波に襲われる怖さに晒される一夜を送ることになるらしいので、それに付き合うのは大変だ。それならばR45を少し南下した山田町の道の駅に行くことにして、出発。

時間ほどで到着。山田の道の駅は、坂の途中にあるものと思いながら行ったのだが、思い違いをしていた。平らな場所だったので安心した。以前にもここに泊めさせて頂いたことがある。もう長いこと太平洋側を通っていないので、記憶が曖昧になってしまっていたのだった。以前と同じ精米機小屋の傍に車を置いたのだが、この時間からは精米に来る人など無かろうと、入口付近に車を泊めたのだったが、何とその後二組もの方が大量の玄米を持ってきて精米されたので、びっくりした。東北の人は米が好きなのだ。改めてそう思った。ここはTVも良く写り、車の騒音も少なくて、いい場所である。旅も残り少なくなった。温泉はないので、今日も入浴はお預けである。

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へのへのの旅(07東北春旅)第23回:その1/2

2008-07-11 04:20:40 | くるま旅くらしの話

第23日 <5月21日()    

道の駅:折爪 → (R340・県道) → 二戸市・呑香稲荷神社・会輔舎探訪 → (R4・県道) → 浄法寺歴史民俗資料館(二戸市) → 天台寺(二戸市)→(県道・R4) → 一戸町内スーパー駐車場 → (R4・県道) → 根反(ねぞり)の大珪化木 → (県道・R4R282)→ 道の駅:西根(泊)  <133km

このところ起床は3時頃である。携帯でのブログ投稿にも少し慣れてきて、2千字を超えるレベルでも何とか2時間以内に終わるようになった。もっと慣れれば後30分は短縮できるかも知れない。もう3時になれば小鳥達のさえずりが聞こえてくる。今日も天気は良さそうである。

月曜日は、日本国中の殆どの博物館の類の施設は休館日である。今日はその月曜日なので、史跡などを中心に見て歩こうと考えている。今日はまず、昨日二戸で聞いた話の現地・現状を訪ねてみようと考えている。その後は未定。

朝食の後、ゆっくりと後片付けをする。いつも駅舎の清掃をされているおばさんたちが居るのだが、先日泊まった時に邦子どのがお礼に母が作った小物をプレゼントしたので、少し親しくなっていた。今日はそのおばさんたちを車の中に案内してお茶などを飲みながら歓談していた。自分はその間出発の準備を終えて、周辺をぶらぶらする。この道の駅はおばさんたちの力で、とても清潔にして頂いている。おばさんといっても、自分たちよりも少し上の年配の方たちである。邦子どのにとっては、有意義な時間なのだと思った。

時半出発。二戸に向う途中、先日見たしだれ栗の木に寄って見たが、以前は傘のような枝に僅かに芽吹いていた緑が、11日後の今日はかなり濃くなって、大きな緑の傘のようになっていた。時間の経つのは早く、そして生物の生長も早い。遅いのは自分の頭の回転だけなのか?

  

  かなり緑が増した枝垂れ栗の木。やっぱりとても栗の木とは思えない。(九戸村)

二戸のスーパーで飲料水を補給すべく駐車場に車を停め、ついでに近くの呑香(とんこう)稲荷神社に参詣する。ここが二戸のその昔の学問の中心地であったようだ。

  

  呑香稲荷神社の鳥居と境内の景観(二戸市)

階段を上りかけた左側に、昨日話に聞いた会輔社の学び舎である槻蔭舎が保存されていた。思ったよりも小さな建物で、質素な佇まいをしていた。先人たちはこのような所で、命を削る様な努力をしながら志を育てていたのかと思うと、本当に頭が下がる。

  

  二戸市の文化の原点。呑香稲荷社境内への石段左側にある槻陰舎の景観。小さいけど中身の濃い学び舎であった。

階段を上がって、神社に参詣の後、境内を散策する。本殿の脇に大作神社というのがあり、相馬大作が祀られていた。また、その隣に稲荷文庫跡というのがあり、会輔社の活動の一環として開かれた、往時の盛岡藩最初の私設図書館で、会輔社の関係者のみならず広く地域の人たちにも貸し出され、人材育成や地域振興に寄与したとのことだった。また、境内の中には、ローマ字の普及にも尽力されたという田中館愛橘博士の歌が、ローマ字で記された碑があった。「心ある 人の宴の 夜神楽に こだまにぎおう 呑香の杜」。多才の、行動の科学者であられたのだなと思った。

二戸にはもう一箇所寄らなければならないところがある。それは天台寺である。このお寺は浄法寺(じょうぼうじ)町にあるのだが、二戸市と合併したので、今は二戸市にあるという訳だ。天台寺は、瀬戸内寂聴師の説法の場所として有名だ。どうしてこのような東北の山寺で説法などをされるのかなと思っていたのだが、以前はここの住職をされていたことを知り、そのようなことも知らずに疑問を抱いていた自分に恥じ入るばかりである。

(その2/2へ続く)

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へのへのの旅(07東北春旅)第23回:その2/2

2008-07-11 04:18:26 | くるま旅くらしの話

(1/2からの続き

呑香稲荷神社を出て、30分弱で、天台寺参道の入口傍にある浄法寺歴史民俗資料館に到着。ここも見たかったけど今日は休みなので、車だけ駐車場に置かせて貰い、早速参道を登り始める。急な坂道がかなり長く続いている。階段の昇降は、邦子どのにはかなり応えているようだ。それでも新緑の中を歩くのは気持ちがいい。10分ほど登って、山門を潜り本堂へ。

  

  天台寺本堂。ここで瀬戸内寂聴師の説教が開かれている。

天台寺は、奈良時代の創建とか。本堂がいつ建てられたのかは知らないけど、千年を超える名刹の趣き十分の雰囲気があった。本道の中には観音さまなのか、むき出しのままの木像が置かれていて、親しみを感じさせる。しばし般若心経を誦して合掌する。

本堂の後ろの方に宝物殿のようなものがあり、そこを見学する。国の重文指定の仏像の他、鎌倉時代につくられたという舞楽面が10面も陳列されていた。珍しいので、それぞれを写真に収めた。このお寺の歴史の古さを改めて実感した。お寺の周辺は杉の木が多いが、桂の木も混ざっており、それが緑を一層鮮やかにしている。裏手の林の中を散策していたら、姥杉という杉の大木を復元したものがあった。直径5mもあったとか。屋久島のウイルソン株などを思い起こした。ここにもこのような巨木があったのだ。明治時代に火の不始末で消失してしまったとか。真に残念である。人間というのは、取り返しのつかない馬鹿なことをやるものだ。

この静まった空間の中で、寂聴師の説法を聞くというのは、心躍るものがあるのではないかと思った。説法の日には、大勢の人が全国から押し寄せると言うことだが、解る様な気がする。何もしないお坊さんが多い中で、素晴らしいことだと思う。

山を降り、麓にある漆工芸の店で休憩。浄法寺町は、浄法寺塗りという漆器で有名な所らしい。店内に入り見て廻ったが、良い盃があった。欲しいと思ったけど、予算不足。手が届くまでには数年()はかかるのではないか。

浄法寺を後にして、へのへのの旅の下見の最後は、一戸町となる。ここは先日御所野縄文公園へ行っただけで、その外は道が狭く、駐車場も無いので何の成果も得られなかった所だ。まずは昼食にしようと、小型ショッピングモールの駐車場へ。うどんなどを作って食す。役場へでも行ってみようかとも思ったが、そこへ行くまでの道が細いように思え、しかも町の中を流れる川の向こう側にあるので、なんだか嫌気がさして、今回はパスすることにした。今日はこの後南下を続け、盛岡近くの道の駅に泊って、明日は県立の博物館を見ようかと考える。

出発した後、R4沿いに「根反の大珪化木」という案内板がやはり気になり、又道が細いのではないかと思いつつもそこへ行ってみることにした。珪化木というのは、石になっている木のことで、火山などと関連があるらしいが、詳しいことはわからない。この辺りにはその珪化木が多く見られるらしいので、一度は覗いてみたいと思っていた。案の定道は細くなって、対向車が来ないかとヒヤヒヤしながら行ったのだが、その木の近くになって更に道は細くなってしまった。仕方がないので、車を少し広そうな所に停め、歩いて行くことにした。邦子どのは、興味ないらしく、車に残るという。とにかく早くこの細道から抜け出したいらしい。

100mほど歩いた所に小川が流れており、その川の向こうにその大珪化木というのがあった。横たわっているのかなと思って行ったのだが、なんと立っていたので驚いた。確かに大きい。重そうである。直径は2mほど、周囲は7mほどあるという。約1,700万年前の出来事の遺産だというから、気の遠くなるような時間をかけて、ここに残っているわけだ。国指定特別天然記念物に相応しいものだなと思った。

  

  一戸町郊外根反地区にある大珪化木。木であって木でない、石となった木がそのまま残っている。

車に戻り、大急ぎでR4目指して走らせる。結局すれ違った車は無く、落ち着かない見学だったことが、何か損をしたような気分だった。その後はR4をひたすら走って、途中盛岡の郊外で給油をして、結局は先日立ち寄った道の駅:西根に泊ることとなった。岩手山がよく見える。今日もよく歩いて、眠るのに時間はかからなかった。

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へのへのの旅(07東北春旅)第22回

2008-07-10 00:16:42 | くるま旅くらしの話

第22日 <5月20日()

道の駅:小川原湖 → 新館神社(七戸町) → 道の駅:七戸 → (R4R45) → 六戸町メイプルふれあいセンター → 八戸市運動公園駐車場(→八戸城跡など市内散策) → (R104R4) → 二戸民俗資料館 → (県道・R340) → 道の駅:折爪(泊)  <123km

今日から南下開始。天気は回復し始めたようで、雨の心配は無し。5日間お世話になった小川原湖の道の駅ともお別れである。まずは七戸の道の駅に立ち寄り、この地の特産品の山芋などを買うつもりで出発。途中、新館神社というのがあったので、寄って見ることにした。由緒書に、この地を治めた南部の元祖の三男南部三郎朝清という人が甲州南部の庄から八幡宮を勧請したものだとか。参拝の後七戸の道の駅へ。この道の駅は相変わらず車が多い。新幹線が開通する頃には、この辺りはすっかり変わってしまうのかもしれない。直ぐ近くにできる駅は、どのような姿をしているのだろうか。気になることではある。山芋を4、5本購入。信じられないほどの安さである。東京辺りの半値以下だ。流通のしくみというのは不可解である。

七戸の道の駅に別れを告げて、とりあえずR4から十和田郊外でR45に入り、六戸経由で八戸方面へ行くことにした。天気もまあまあの上天気で、車の流れも順調である。六戸に入って、道脇にメイプルふれあいセンターというのがあったので寄ることにした。ここは町の地産物などの販売施設があり、隣接して旧苫米地家を移設した展示場などがあり、地域の交流施設として作られた所らしい。苫米地家は茅葺きの、この地を代表する大きな古民家で、江戸時代後半に建てられたものだということだった。地産品の店では、1本2kgほどもある巨大な山芋が、何とたったの130円で売っていた。先ほど七戸の道の駅でたくさん買ったばかりなのに、ついつい、またしても買ってしまった。いやはや、こんなに食べきれるものなのだろうか。先のことはわからない。

戸は、一昨日郊外の博物館を訪ねただけだったので、今日は市街の中心にある八戸南部藩の城跡などを見てみようと思っている。中心街には駐車場が見つからないので、運動公園らしき所の駐車場に車を置いて、歩いてゆくことにした。20分ほど歩いて、市役所に隣接する城址公園へ。市街地の半分ほどを見渡す高台にその昔の八戸城はあった。

  

八戸南部藩は、江戸に入ってから宗家盛岡藩から2万石を分けて新しく作られたとのこと。それまでは先日見た根城に城があったのだが、根城南部氏は遠野へ移り、八戸藩の新しい城が現在の市役所脇に建てられたということらしい。往時を偲びながら城跡をゆっくりと散策した。小さな池が作られている辺りに、黄色の花を咲かせているオドリコ草を見つけ感激した。オドリコ草は普通は白か淡い紅色なのだが、ここの花は黄色だった。初めて見る黄色のオドリコ草は、黄色い衣装を着けた楚々たる乙女たちが楽しげに舞っている風情があって、なかなかのものだった。

  

その後少し街中を散策しながら車に戻る。八戸の町も間もなくシャッター通りが増えるのではないかという予感がする。最早完全といっていいほどの車社会となっており、駐車場の無い市街地の商店街は、没落するばかりである。何となく活気不足の感じがした。

八戸に別れを告げ、次はR104R4を一路二戸へと向う。二戸は前回に九戸城跡を見ただけで、何となく中途半端になっている。もう一度市の民俗資料館へ行ってみることにした。いい天気である。15時少し前資料館に到着。今度は開館中との札があった。やれやれ。

受付の女性の方の案内で、館内に入る。それほど大きくはなく、同じ市でも八戸の博物館などと較べれば真に質素というべき建物だった。中に入って驚いたのは、相馬大作という人物がこの地の出身だったということ。相馬大作のことは、その昔の江戸時代、南部藩の怨敵ともいえる津軽藩に対してその参勤交代の行列に襲撃をかけた人物として知られている。忠君至誠の人物として一時はもてはやされ、映画化されたこともあったが、その実態はどのようなものだったか多少の関心があった。南部藩というからには、盛岡の人だとばかり思っていたのだが、今回のへのへのの旅の下見で南部の一族というのは奥州の中央を含めた東半分に広く勢力を持っていたことを知り、その認識を改めたわけなのだが、彼の相馬大作が二戸にかかわりのある人だとは全く知らなかった。案内の女性はイナバ(=稲葉?)さんという方で、大変熱心に郷土出身の人物の説明をして下さった。

相馬大作のコーナーは資料館全体の半分近いほどの広さで、いかに力を入れて展示しているかが伝わってくる。いわば郷土の英雄的な存在であるらしい。相馬大作が単純な切り込み隊長のような人物ではないとは承知していたが、資料や展示品などを見ていて、時代を見抜いた優れた見識を持った人物であることを再認識することが出来た。津軽藩に一矢を報いたことよりも、当時の幕府に対して開明への刺激となる矢を放ったのだと理解した方が当を得ていると思った。残された書の中に「志不昧萬死」とあったが、その信念を通す迫力には打たれるものがある。「志は命を落とすような事態に直面しても、決してぐらぐら迷うことは無い」という意味だと思うが、力強い筆致で、彼の人物の思いというものが、強く、深く伝わってくる。

  

傍に展示されていた槍術の修練用の棒や居合いに使ったという大刀も、並みの努力では決して使いこなせないというのがよく判る、迫力のあるものだった。この人物のことは、帰ってからもう少し資料を読み、理解を深めたいなと思った。

この他田中館愛橘、その女婿の田中館秀三という、日本の物理や地学、地震学などの科学の草分け的な存在の方々の紹介についてもイナバさんは、熱心に説明して下さった。正直、初めて聞く名前だったので、そのことがわかるまでに少し時間がかかった。ここの館長さんは今日は不在だったが、館長さんの薫陶を受けられているのか、イナバさんの郷土愛、郷土の偉人の崇敬には真似の出来ないものがあるなと思った。

また、二戸には幕末に「会輔社」という結社のようなものがあり、これには我が郷土水戸の人物も関わっていたことも知った。会輔社は、明治維新時以降の二戸輩出人物の精神的なバックボーンとなっているに違いないと思った。会輔社が人物輩出のバックボーンとなり得たのは、思うに学ぶ姿勢にあったのではないか。今わが国の教育で最も必要なことは、学ぶ姿勢を身につけさせることだと思う。受験勉強などというものは、学ぶ姿勢ではない。その会輔社の学舎である「槻蔭舎」というのが、呑香稲荷神社の傍に今でも残っているとか。明日にでも行ってみようと思いながら、イナバさんに見送られて資料館を後にした。お土産にたくさんの資料を詰めた書類袋を頂き、なんだか宿題を頂戴した様な気分である。イナバさんは身重で、間もなく3番目のお子さんが生まれると言う。どうぞお元気でお子さんと対面してください。本当にありがとうございました。

今日の泊りは九戸村の道の駅:折爪に又またお世話になることにして、山を越え到着した時は17時近くだった。未だ日は残っており、時間もあるので、邦子どのが山菜の天ぷらを揚げてくれることになった。駅の売店でタラの芽などが無いかと探したが、遅いこともあり、目ぼしい山菜は殆どなくなっていた。手許に在庫していた材料で作ったが、その中では、小川原湖畔で摘んだウコギの若葉が結構美味かった。春の野草や木々の若葉などは、特別のものを除けば、殆どが天ぷらの材料になるものばかりだ。今回の旅では3回目の天ぷらとなった。11日ぶりの折爪の道の駅は、周辺の緑が濃さを増し、一段と夏が近づいた様である。

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へのへのの旅(07東北春旅)第21回

2008-07-09 00:46:34 | くるま旅くらしの話

第21日 <5月19日()

 道の駅:小川原湖 → (県道・R4) → 青森県立郷土館(青森市)→ 青森駅前市場 → (R4) → 道の駅:浅虫温泉 → (R4・県道) → 水明温泉 → 道の駅:小川原湖(泊)  <139km

朝からどうしようもないほどの本降りの雨となっている。さてどうするか。検討の結果、へのへのの旅の下見といいながら、各市町村の個別の博物館などを見て廻っているけど、よく考えれば、よりトータル的な資料等を保管展示する県立の博物館があるはずだから、そこを見ておく必要があるのではないかと気づいた。調べると青森市内に県立郷土館というのがあるので、そこへ行ってみることにする。少し遠いけどどうせ雨降りでやることもないのだから、却って好都合でもある。

10時少し前に出発して、郷土館に到着したのは11時半近くだった。

  

  青森県立郷土館の石に刻まれた表示板

駐車場が心配だったが、自走で入れる場所があり、大丈夫で良かった。軽く昼食を済ませて、館内へ。3階建ての建物の中は、思ったよりも広くて、様々な工夫の元に考古学資料、歴史資料、民俗資料などの他に、りんごと青森県展示室、輝いた郷土の先人たち展示室、わくわくたいけんルームなどが設けられていた。3時間ほどかけてじっくり見学する。いろいろ勉強になったが、その中で県指定の天然記念物というのがあり、これからの旅で機会があれば訊ねてみようと思い、それらの全てをカメラに収めた。歴史や民俗に関しては、各地を廻っているので、その時の情報の補填などをすればよいと思った。

郷土館を出た後、雨は小降りとなっていたので、車はそのままにして、JRの青森駅まで歩いて見ることにした。駅前に海鮮類の市場があったはずだが、あれはその後どうなったのか知りたいとも思った。最近北海道へ行く時はいつも大間からなので、青森市内にはここしばらく来たことがなかった。1時間ほど散策する。市場の辺りは、すっかり変わって新しいビルが建っており、市場は地下に移っていた。以前の雰囲気は残ってはいるけど、でも何か違う気がした。目ぼしいものはないかと一回りしたが、皆同じようなものばかりで、諦めてマグロの刺身を少し買った。焼き魚が食べたいのだが、車の中で焼くのは無理なので干物などを買うのは断念。アーケード街を通り抜け、郷土館の駐車場に戻り帰途に着く。ようやく雨は上がったようである。

  

  青森駅前の広場は、きれいなビルとなっていた。名物だった駅前の海産物等の市場は、このビルの地下に移っていた。少し寂しい気がした。

帰りは、浅虫の道の駅にちょっと寄ってみることにした。駅舎の中や市場なども覗いてみたが、取り立てて興味を惹くものも無く、直ぐに出発。野辺地の郊外のホームセンターに寄り、歯ブラシなどの洗面用具を買おうとしたのだが、レジの女性の対応が気に入らず、買うのをやめる。処理のスピードが遅く、次の客を待たせることに対して全く気を使っていない。スーパーやコンビニなどのレジの対応は、顧客対応のキーとなる場所であり、そこでの対応がキチンと出来てない店は、失格である。そのようなことに気づいた時は、決して買わないことにしている。他の店で買えばいいだけの話である。

今回3度目になる水明温泉に入り、小川原湖の道の駅へ。今日が5泊目。明日から南下を開始しようと考えている。お世話になったここの道の駅も、今夜が最後の泊まりとなるだろう。

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へのへのの旅(07東北春旅)第20回

2008-07-09 00:45:32 | くるま旅くらしの話

第20日 <5月18日()

道の駅:小川原湖 → (県道) → 小川原湖民俗博物館(三沢市)→ 六戸町郷土資料館 → 六戸町役場 → (R45) → 八戸市立博物館 → (R45R338・県道)→ 玉勝温泉(東北町)→ 道の駅:小川原湖(泊)<112km

今日の下見は六戸町、八戸市方面の予定である。朝起きて見ると、天気はまあまあのようである。地図を見ながら大体のコース取りを考える。まずは邦子どのの要請で三沢の古牧温泉の中に在る小川原湖民俗博物館を訪ねることにする。良くわからないけど、ここには彼女の知りたいこの辺りの織物などに関する民俗資料が揃っているのだとか。コギンザシなどの資料も展示されているとか。とにかく逆らわずに出発。どうせ暇なのだ。

その博物館は、三沢市郊外の古牧温泉の中にあった。知らなかったのだが、古牧温泉というのは立派なホテルなども幾つか建っており、この地では一大テーマパークのような体(てい)をなしていた。ようやく博物館を探し当て辿り着いたのだが、何と只今休館していて閉鎖中とのことだった。これではどうしようもない。それならばと次の目的地である六戸の町を訪ねてみようということにした。

県道をしばらく走ると、偶然六戸町郷土資料館の案内板が目に入ったので、行ってみることにした。何ともわかりにくい案内板で、直ぐ傍にあるのにしばらく迷って到着。ところが開館は月に5、6回しかないらしく、今日は休みだという。何だかとって付けた施設のような感じがした。建物の脇に「通商産業省所管 工業再配置促進費補助事業施設」と陶板の札が貼り付けられていた。何だい、これは?と思わずには居られない。こんな妙な建物が郷土資料館だなんて、どういうことなの?お役所仕事と行政の馴れ合いの感じがした。この町の郷土史料館の扱いについては、その運営に関して町の誠意が殆ど感ぜられないような気がした。恐らく、大した資料も集めていないのではないか、と何だか腹が立ってきた。(これは思い過ごしかも) 仕方がないので、六戸の町役場に行くことにした。

行ってみて、立派な建物なのに驚いた。近くに大きな体育館のような福利厚生施設も建っている。先ほどの施設との落差を思いながら役場の中に入って行くと、町政が中央官庁などから表彰された額などがきれいに飾られていた。そのようなものを自慢げに飾っているが、果たしてそれが町民の誇りとなるものなのか少し疑問に思う。

  

  六戸町役場庁舎。立派な建物である。付近には町のメイン施設が幾つか設けられていた。

何といってもこの役場の建物と先ほどの郷土資料館との落差があまりにも大きすぎるのだ。聞くところによると、この町はこの辺では最も早くコンピューターの導入を図った所だという。なるほど、効率化の中心が経済活動促進に向っているのだなと思った。だから大して利用者も居ない郷土資料館などは形だけ作って置けばよいという発想なのであろう。何だか貧しい発想だなと思った。

役場の方に町勢要覧を頂戴しようと訊ねたら、名前などの確認を求められたので、旅くらし人の名刺を渡した。最近は情報の悪用などが問題化しているので、確認を取っているらしい。しっかりしているなと思った。町勢要覧には資料編も付いていて、大変解り易い内容だった。

六戸町は奥入瀬川流域に展開する農業中心の町のようだが、データを見ると1次産業は次第に減ってきていて、3次産業のウエイトが大きくなってきているのがわかる。しかし、その中身は良くわからない。それほど詳しく研究するのが目的ではないので、この町がどんな町だったのか、今どうなのかをざっと知るだけでよい。わかったのは、六戸という所は、歴史的には南部藩の中でも拠点的な位置づけではなく、農業生産力の場だったということ。即ち五戸に置かれた代官所の管轄下にあったということで、町としては新しい所だということである。現在はメイプルくんとかいうイメージキャラクターを起用して町のPRに努めている様だが、町内にあまり楓(かえで=メイプル)の木は見当たらないような気がした。又この町の特産品として、農産物の他に青森シャモロックという鶏を売り出しているようである。

六戸を出た後は、八戸の市立博物館を目指す。ところが、手元の地図の表示が間違っており、市役所脇の見当違いの所へ行ってしまった。しばらく迷った後、ようやく郊外にある市立博物館の駐車場へ。

ここの駐車場で昼食を済ませた後、博物館の中へ入る。さすがに青森県の大都市だけあって、立派な建物だった。博物館はその昔、根城南部氏の居城のあった場所のすぐ傍に建てられていて、一帯は史跡「根城の広場」となっており、構内には隣接してその昔を復元した建物が造られていた。根城南部氏というのは、もともと八戸に居城していた南部氏なのだが、秀吉の時代に南部宗家の家臣となり、遠野へ移った一族である。八戸南部氏というのは、そのずっと後に宗家の方から分家されて新しく八戸藩が作られたのを言うらしい。

  

  博物館の前に建てられている、根城南部氏の藩祖、南部師行公の銅像

博物館を3時間ほどかけてじっくり見て廻ったので、八戸の歴史についてはかなり詳しくなった気分である。いろいろ参考になったが、面白かったのは、前日読んだ「青森県の歴史散歩」という本の中に、「なにゃら、どやら」という唄があるという紹介があり、それはどのような唄なのか一度聴いてみたいものだと思っていたのだが、博物館の中にちゃんとそれを聞かせてくれるコーナーがあって、思いを叶えてくれた。でも何のことかさっぱり解らず、又レコーダーを持ってこなかったので、繰り返して聴くことも出来ず、直ぐに忘れてしまった。それにしても、何が何だかさっぱりわからない唄だった。

邦子どのは、館を出た後、ボランティアの方にお願いして根城跡の復元された建物を見に行ったが、こちらはその気も起きず車の中で写真などの整理をした後、しばらく転寝(うたたね)をして時を過ごす。

16時過ぎ邦子どのが戻ってきたが、この頃から空が怪しくなり、強風が吹き出してきて、今にもザッと来そうな空模様となった。急いで小川原湖の道の駅に戻ることにして出発。一時間半ほどかかってようやく到着。雨にはセーフだった。

小川原湖に戻る途中、姉戸川温泉というのがあり、入ってゆこうかと思い寄ったのだが、駐車場を見ると何となく寂しい感じがするので、入るのを止めてしまった。結局道の駅に戻る前に、先日の玉勝温泉に行くことになった。温泉に入るのも、単なる気まぐれというわけにはゆかない。たっぷり汗を流して、汗も乾かぬままに道の駅に戻って、今夜も泊まりはこことなる。夜中にLPガスが無くなり、ボンベを交換する。今回は、5kg入りボンベ1本が約半月の使用状況である。もう1本予備があるので、帰宅するまで充填は必要ないと思っている。夜半から雨となったようだ。

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へのへのの旅(07東北春旅)第19回

2008-07-08 04:15:18 | くるま旅くらしの話

第19日 <5月17日()

道の駅:小川原湖 → (県道) → 七戸町役場(天王神社つつじ祭り他)→ 七戸町文化交流センター → (県道)→ 水明温泉(東北町)→ 道の駅:小川原湖(泊)  <45km

さて、今日から再びへのへのの旅の下見開始である。今日はここから最も近い七戸の探訪をしたいと思っている。いつものチエックや準備を終え、9時半ごろ出発。何時降り出すかわからないような危ない空模様である。今日は傘必携の日となりそうだ。

30分ほどで七戸の市街地に入る。まずは七戸城址を訪ねることにして、探したのだが、案内板はあっても途中からどこなのかが判らなくなってしまった。ウロウロしていると、天王神社つつじ祭りというのが行なわれており、小高い神社の境内の土手に植えられたつつじが満開で、見事に咲いているのに出くわした。まずはこれを見てからにしようと、所定の駐車場に車を入れようとしたら、そこで交通整理のようなことをしていた人が、大きい車は向こうの役場の駐車場の方へ入れて欲しいということなので、少し先の役場の方へ移動する。

傘を手に持ち天王神社の境内へ。100段ほどある急な石段を登って本殿に参拝する。その頃から降り出した雨は本降りになった。つつじは、どれもがかなりの大株で、花の色も朱に近い鮮やかさである。かなりの人出て、フランスからの女性観光客も混ざっていた。意味はわからなくても、フランス語であるくらいの判別は可能である。お恥ずかしい。写真を撮っている邦子どのとは別行動。小さな神社で、境内の土手も小さい。30分ほど楽しんで、下に降り、邦子どのと合流する。

  

  天王神社の境内のつつじ。見事な美しい景観が広がっていた。

神社の向い側に見える小高い丘が、多分七戸城の跡ではないかと見当をつけ、そこへ行くことにした。駐車場の中を歩いてゆくと、先ほどの駐車場で案内をしていた人が、この近辺の史跡等の案内図を配っておられ、我々も1枚頂戴した。それによると、やはりこの上の丘が七戸城跡だった。少し遠回りとなるが、反対側のほうから田んぼ跡の側道を歩いて城跡方面へとしばらく歩いた。

丘に上がって見ると、城跡が広大な公園になっており、その片隅に神明宮の古びた建物が残っていた。本丸跡の直ぐ下に役場の庁舎が建てられているというローケーションである。ここから俯瞰すると、七戸町の凡その地形などが見渡せる。

  

  七戸城址公園。ここからは七戸の町並みの殆どを見ることができる。その昔の城と町との在り様を偲ぶことができる静かな空間である。

このお城は、その昔七戸南部氏の居城であった所で、今は国指定の文化財として保存がなされているとのこと。しばらく散策を楽しんだ後、下に降りて役場を訪問。受付で「歴史などを含めて七戸町のことを知りたいのですが、何か資料等はありませんか?」と訊いたら、担当の人を呼ぶからしばらく待って欲しいとのことだった。ところがその人の所在の確認が出来ず、もし都合が良かったら午後になれば昼食で戻ってくるので、案内できると思う、とおっしゃって頂いたので、それではおことばに甘えて午後一番で再来しますということにした。役場の関係者の方たちはとても親切だった。

  

  七戸町庁舎。しかしこれは本庁舎ではなく支庁舎である。本庁舎は合併前の天間林エリアの方にある。違和感は拭えない。

昼食の後再訪すると、その専門の方が待っておられた。なんと、最初に駐車場で案内係をされていた方なのだった。小山さんとおっしゃるその方は、町の教育委員会の総括主幹という立場の方で、この町の歴史的な事項に関する専門家として活動されているらしい。挨拶を交わしたあと、早速、小山さんの車の先導で、町の文化交流センターという所にご案内頂いた。そこは普段は未公開の施設で、我々は特別に見せて頂けることになったのである。統合で廃校になった学校の校舎を利用した、2階建てのかなり大きな建物だった。

小山さんの案内で、考古学レベルの資料から中世、近世までのこの地の出土品や民俗資料等を見せて頂いた。教室を10室以上も使って、厖大な資料が収蔵されていた。これらの資料の区分整理や展示などの仕事の殆どを、小山さん一人で取り組んでおられるのだと聞いて驚いた。

見学の後、小山さんとの雑談の中でいろいろ有意義なお話を伺った。この方は、考古学がご専門で、発掘調査なども手がけられているとのことだが、素晴らしいと思ったのは、考古学というような古いものを対象とした仕事をしながらも、その学識経験を現在や未来のあり方につなげて活かしてゆこうとしている姿勢である。お話をしていると、実に若々しい新しい発想の話がどんどん飛び出してくる。歴史を通して、ものごとの本質をしっかりと捉えた見識の確かさが伝わってくる。又行動の人でもあるように思った。今日の天王つつじ祭りでは、ボランティアの人を除けば、町に出て人々に直接この町の良さをアピールしようとする町の職員は、この人以外には誰も居なかった。市の職員サイドから見ればそのような行為は異端に見えるのかもしれないけど、椅子に坐ってばかりでは下界のことは判らず、そのような人よりも、小山さんの方がこの町のために遙かに貢献しておられるのではないかと自分は思った。

新幹線の駅が造られることで、町の行政は期待ばかりを膨らませているようだが、しっかりと足元を見て取り組まないと、新幹線は必ずしもこの町に冨をもたらしはしないように思う。何より大切なのは、七戸町のアイデンテティ(主体性)を確立することであろう。そしてそれはこの町自体の歴史認識と確かな現状認識を確立することによって、初めて本物となるのだと思う。

七戸町は平成の合併で隣の天間林村と一緒になったが、驚いたことに役場の本庁舎は旧天間林村にあり、七戸は支庁舎だという。足して2で割るという妥協の結果が表れているのではないか。かつて七戸県までが存在した所に支庁舎というのはアイデンテティを示すどころか、とんだお笑いものではないかと思った。このような中途半端なコンセプトでは、真の七戸町の発展にはつながらないように思った。ついでだけど、隣の東北町と上北町の合併も上北町に本庁舎があり、東北町は支庁舎が置かれている。こちらの方はあまりその良否に拘泥はしないけど、七戸町のケースにはがっかりした。

小山さんにはいろいろお世話になったのに、このような批判をしてしまって申し訳ない。でも、この方の情熱を思うと、足して2で割るような行政の姿勢には不満を覚えずには居られない

雨は依然降り続いている。今日は小山さんと出会えたことで十二分に満足だった。頂戴した資料を持ち帰って見ることにしようと、今日の探訪はここまでにして、小川原湖の方へ戻ることにした。途中七戸ジャスコで飲料水や食材を補給する。ついでに平岩弓枝の御宿かわせみの第32巻を見つけたので購入。平岩弓枝先生の作品の昔からのフアンなのである。

今日も又は水明温泉に。八甲田温泉という所にも行ってみたのだが、駐車場が狭くて、何だか落ち着かない場所だったので、今回は敬遠することにした。入浴の後は小川原湖の道の駅へ。今夜で3回目の泊りである。ベッドの中で、今日の七戸探訪の感慨を繰り返し反芻しながら眠りに就く。

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へのへのの旅(07東北春旅)第18回

2008-07-07 00:57:43 | くるま旅くらしの話

第18日 <5月16日()

道の駅:小川原湖 → 湖畔散策他 → 道の駅:小川原湖(泊)<11km

今日は何処へも出かけず、一日ここでのんびりと過ごす予定である。雲はあるけど天気は上々で、暑くなりそうだ。遅い朝食の後、湖岸の駐車場の方へ移動することにした。日中動かないと、バッテリーが気になるので、湖畔の駐車場へ行って騒音迷惑などに支障がなければ、発電機を回すことにした。小川原湖は、夏は湖水浴の人で大変賑わうらしく、湖畔にはそのための施設や大きな駐車場が設けられている。しかし今のこの時期は来訪者が殆どなく、我々の車の他は2、3台きりで、発電機を回しても迷惑をかける心配は皆無だった。

発電機を使う前に、車を置いて湖畔の遊歩道をしばらく散歩する。未だ咲き残っている八重桜を見ながら、緑の濃くなった下草を踏んで歩くと、春の匂いが大地から湧き上がってくる感じがした。湖には、帰りそびれた渡り鳥なのか、鴨たちの仲間らしい水鳥が遊んでいた。

   

   小川原湖の景観。小川原湖は日本で11番目の大きさの湖。平均水深11m、最大水深25mで、蜆や小魚の漁業が盛んである。

湖畔を往復の後、湖の脇の高台にある、ふれあい村キャンプ場へも行ってみた。ここはAC電源付きで11,500円で泊れるので、2、3日お世話になってもいいかなと思っていたのだが、行って見ると誰も居らず、管理する人も不在のようなので、今は営業していないのか思い止めることにした。

2時間近くの散策を終え、車に戻って発電機での充電開始。この間は、今までに買った民話の本などを読んだりしながら、昼寝をしたりして、のんびりと過ごす。何もしない、無為の時間というのは、とかくある種の不安を覚えるものだが、このような麗らかな自然の中にいると、これはもう癒し以外の何ものでもない。発電機も快調に運転し続けて、もう大丈夫というレベルとなった。

午後も遅くなって、次第に雲が増えてきたので、道の駅に戻ることにする。その前に、温泉へ。今日は昨日とは違う、水明温泉というのに行くことにした。ここは、道の駅からは昨日の玉勝温泉とは反対方向へ車で5分ほどの所にあり、宿泊施設を備えた温泉施設である。小さいけれど好い湯で、露天風呂もある。たっぷり汗を流して、入浴のあとは、道の駅に戻り夜を迎える。

今日は予定通りのグータラな充実した一日だった。特に書くことも無い。おやすみなさい。

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