山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

へのへのの旅(07東北春旅)第17回

2008-07-07 00:56:34 | くるま旅くらしの話

お断り:今回のシリーズ「へのへのの旅」は、来る16日に終了させたいと考えております。そのため、途中で一度に2回分を掲載することがありますので、予めご承知おきください。今日も2回分を掲載いたします。

 

第17日 <5月15日()    

道の駅:横浜 → 菜の花の丘(横浜町)→ 歴史民俗資料館(野辺地町)→ 道の駅:七戸(七戸町)→ (県道)→ 道の駅:小川原湖(東北町)(泊)  <79km

雲は多いけどまあまあの天気だ。今日はいよいよ楽しみにしていた小川原湖入りをする予定。小川原湖の道の駅を基地として、温泉を楽しみながらへのへのの旅の続きを行なうつもりでいる。小川原湖からは、七戸も八戸も五戸も六戸へも比較的近いから、それは十分可能なのだ。

朝食の後、まずは昨日宮さんにご案内頂いた横浜町の菜の花畑の様子を復習するつもりで、少し廻って見ることにした。昨日は夕方だったので、菜の花の色も暗くなってしまっていたが、朝の菜の花畑は、黄色というよりも黄金色に輝いている感じだ。1時間ほどぶらぶら見て廻り、途中の道端にアケビの芽があまりにもたくさんあるので、つい手を出してしまい、又かなりの量を摘んでしまった。アケビ君たちの誘惑が多くて、なかなか今年はこれで終りとはいかない様である。

横浜町を後にして、野辺地の方へ向う。野辺地はいつも素通りしてしまっているけど、今日は資料館などを訪ねてみたいと考えている。途中戊辰戦争の記念碑のようなものがあったので立ち寄った。見ると野辺地戦争の死者の墓所とあった。幕末、官軍側の弘前藩と幕府側の盛岡・八戸藩連合軍がここで戦って、攻撃を仕掛けた弘前藩側が40人の死者を出して敗走したということである。その後官軍が勝利を収めて、結局盛岡藩などは転封されて野辺地にはこれまた会津藩が転封されてきたわけであるが、勝利者側にあった弘前藩がこの地に死者の霊を慰めるべく墓所を作ったということである。

  

     戊辰戦争で戦死した弘前藩側の墓と戦没慰霊の碑

は以前から幕末の会津藩のその後について知りたいと思っていて、今日は町の歴史民俗資料館に行けば、何かそれを知る資料が見つかるかもしれないと期待していた。しかし、その資料館に入ってみた結果は、会津藩に関する資料は全くといっていいほど無かった。野辺地は南部藩の北方対応の前進基地としての代官所が置かれた場所であり、あくまでも南部藩の所領だったということがわかった。幕末の頃の転封など、ほんの一時期のことであり、会津藩が足跡を残すことなく、時代は急変しながら今日につながっているのであろう。会津藩の人たちは、慣れない北国の荒地の中で辛酸を舐めた暮らしぶりだったと聞くが、それを乗り越えてこの地に定住した人は少ないようだった。

  

   野辺地町立歴史民族資料館:幕末の資料はほとんど見当たらず、基本的には南部藩の北方基地としての役割を示す資料が多かった

野辺地の後は、R4を南下して道の駅:七戸へ。この道の駅は何度もお世話になっている所だ。今日は平日だというのに駐車場は満杯に近く、裏の方にある広い駐車場もトラックなどの車が多く駐車しているので、何なのだろうと疑問に思った。特にイベントがあるわけでもないのに。とにかく車を停め、昼食休憩とする。

次第に空模様が悪化し、八甲田山を覆う黒雲から時々稲妻が光り、雷鳴が聞こえてくる。このままでは豪雨が押し寄せてくるのではないかと心配になり、早めに小川原湖の道の駅に行き、落ち着くことにした。途中飲料水や食材などの買物をした後、小川原湖方面へ向かう。少しゆくと何やら大げさな工事が行なわれていた。何だろうと思ったら、どうやら東北新幹線の工事らしい。この近くに新駅が出来るようだ。それで道の駅は混んでいるのだなと思った。近くに新幹線の道の駅が出来てしまったら、最早七戸の道の駅に泊るのは難しくなるのではないかと思った。列車の駅近くの道の駅では、落ち着いて一夜を過ごしにくくなるに違いない。チョッピリ残念な気がする。

小川原湖の道の駅に近づく頃、とうとう雷鳴とともに大粒の雨が降り出した。駅には14時頃着いたのだが、この雨ではどうしようもない。とにかく一先ず午睡とすることにしてベッドにもぐりこむ。邦子どのは、寝もしないでナンプレに熱中していた。16時近くになって目覚めた時には、雷は収まり小雨となっていた。温泉に行く前に昨日横浜の道の駅で買ったナバナ(菜花)と、今日採ってきたアケビの芽を茹でる。

この道の駅のある上北町(現在は東北町)の近くには、似たような温泉が6箇所もあるのだが、今日はその中の一つの玉勝温泉を選択。今回はこれらの温泉を順次楽しんで、ここに長居をしたい。玉勝温泉は、JRの上北町駅前近くにあり、道の駅からは車で5分ほどの距離だ。いい湯である。サウナも付いており、久しぶりに水風呂にも入って、シャキッとした。

  

   JR東北本線上北町駅のすぐ近くにある玉勝温泉。宿泊施設も備わっており、庶民的な雰囲気の入浴施設である。

風呂から戻って宿泊の準備をしようと思っていたら、見覚えのあるバスコン(マイクロバスタイプのキャンピングカー)が入ってきた。去年北海道の美深のキャンプ場で、長期滞在をしていた土浦ナンバーの車である。我が守谷市の車は、新たにつくばナンバーが出来るまでは、土浦ナンバーをつけなければならなかったエリアである。要するにご近所なのだ。しかし今まで挨拶を交わしたことは無かった。

今回は先方からそのご主人が挨拶に来られたので恐縮した。嶋本さんとおっしゃるその方と少し話を交わした。嶋本さんは、何と冬は沖縄で過ごし、春になって鹿児島から北上して、これから北海道に渡るのだという。この間、家には寄っていないそうで、毎年このパターンで過されるという。1年の100%近い日をくるま旅くらしをされているご夫妻である。北海道は未だ寒いので、ここにしばらく滞在して調整しているとのこと。毎日近くの体育館などへ出かけ、体力づくりに励んでおられるようなことを話していた。又、温泉に無料で入れる旅の雑誌等も紹介して頂いた。以前美深で見かけた時は、自家製ビールなどを作っておられたが、今年はどぶろくに挑戦するのだという。面白い人だなと思った。今年も又美深で再会できるであろう。

雨も止み、その夜は静かに安眠を貪った。

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へのへのの旅(07東北春旅)第16回:その1/2

2008-07-06 02:55:31 | くるま旅くらしの話

第16日 <5月14日()

道の駅:森田 →(県道)→ 津軽富士見湖(鶴田町) → (県道・R339R4) → 道の駅:浪岡 → (R7・青森環状バイパス・R4R279) → 道の駅:横浜(泊)  <184km

夜中に目覚めて、2時から朝まで起きていることとなった。日記やブログの記事を書いていると、3時間ぐらいの時間はあっという間に過ぎてしまう。普段は、6時間も眠れば寝過ぎだという感覚があるので、旅に出て20時就寝ならば2時に起きても睡眠不足にはならない。

明け方になって、外を見てみたら、風も収まって、雲も切れてきたようで、いい天気が期待できそうな感じだった。6時過ぎ外に出てみたら、お岩木山がくっきりと朝日に輝いて見えた。ここからのお岩木山は、弘前城跡などから見る姿とは違って、峻厳さが際立って見える。昨日も雪が降ったのだろうか、頂上辺りは明らかに冬のようだ。それにしてもこのような名山をいつでも眺められる人たちは幸せだ。我が地元の守谷からも筑波山はいつでも遠望できるけど、残念ながらお岩木山ほどの迫力は無い。

今日は青森県を横切って、下北半島の中ほどにある横浜町まで行ってみたいと思っている。というのも、道々菜の花に出会うのだが、横浜は日本一の菜の花の町だというので、一度その最盛期に行ってみたいと思っているからである。それに旅も後半に入って、一番の目的の上北町(現在は東北町)の温泉でゆっくり過ごすという望みも叶えたいからである。

だんだん良い天気になってきた。どのようなコースで行こうかと地図を見ながら検討した結果、この近くに津軽富士見湖というのがあるので、そこを訪ねた後、浪岡の道の駅に寄り、それから青森バイパス経由で野辺地から横浜へ行くことにした。

お岩木山の写真や、道の駅構内にある旧増田家という大きな民家の写真などを撮ったりした後、富士見湖に向け出発。

  

   道の駅:森田村の構内にある、旧増田家住宅。このエリアを代表する立派な古民家である。

リンゴ園の中の道を行きながら、時々停まって花咲くりんごの木とその背景に構える岩木山の写真などを存分に撮った。澄み渡った青空が輝き、今まで見たお岩木山の中では最高の気象条件である。淡いピンク色のりんごの花は何という品種なのだろうか。一面のりんご畑は、景色としては素晴らしいけど手入れをされる農家の人たちにとっては、大変な作業となるのだろうなと思った。今年は台風などが来ないようにと願うばかりである。

     

咲き始めたりんごの花の向こうに、昨日の雪を冠したお岩木山が見える。 

30分ほどりんご林の中を走って、富士見湖湖畔にある富士見湖パークの駐車場に車を入れる。富士見湖には鶴の舞橋という橋が架かっており、一帯は広大な自然公園となっている。鶴の舞橋は、日本一長い300mの木の橋だそうで、それに使われているのは全て青森県産のヒバ材だとか。ヒバとは桧のことを言うのだと思う。橋は湖がくびれている場所の端の方に架けられていて、橋を渡るとその向こう側には国民宿舎のようなものが建てられていた。今日は平日で来訪者は少ないが、休日などは子供連れの人たちには絶好の場所だなと思った。それにしても良い天気で、お岩木山の眺望の何と素晴らしいことだろうか。いろいろな角度から思わず何枚もの写真を撮ってしまった(その2/2に続く)

  

  富士見湖から見たお岩木山。湖に架かっているのは鶴舞大橋。この橋は青森名産のヒバの木で造られた木橋である。

 

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へのへのの旅(07東北春旅)第16回:その2/2

2008-07-06 02:54:04 | くるま旅くらしの話

(その2/2)

景観を充分に楽しんで散策した後、浪岡に向け出発。この頃からいつの間にか雲が湧きだし、真っ青な空が少しずつ様相を変えてきているのに気づいた。一日中澄んだ青空などということはあり得ないことなのであろう。少し道に迷いながらR339に出て、藤崎からR4に入り浪岡の道の駅に着いたのは、丁度お昼時だった。邦子どのは何やら肉類のものを食べたいらしいので、一人で行ってもらうことにし、自分は車の中でお湯を沸かして今日はカップヌードルで済ませる。

食事を終え、休憩していると、携帯が鳴った。誰かなと思って出てみると、何と旅の知人で函館は恵山の住人、渡辺さんからだった。今秋田の角館に居られるという。これから白神山地を訪ねて竜飛岬などを廻って2、3日後に帰宅予定だとか。どこかで一緒できればいいなと思った。電話で連絡を取り合うことにして話を終わる。邦子どのが戻ってきて、しばらくの間、渡辺さんのことなどが話題となる。旅の友からのお知らせは嬉しくありがたい。

浪岡を出た後は、三内丸山遺跡を横に見ながら一路青森バイパスを走り抜け、R4で野辺地方面へ。浅虫の道の駅にも今日は脇目を触れただけで通過する。野辺地からR279に入り、横浜の道の駅に着いたのは14時半を過ぎていた。約2時間ノンストップで来たことになるが疲れは無い。

途中幾つか菜の花畑を見たが、最盛期の期待が大きい。道の駅で一息入れた後、菜の花祭りの会場へと向う。会場は1haほどの菜の花畑を中心に、真ん中に展望台が建てられ、その廻りには迷路が作られていた。傍の駐車場に車を入れ、しばらくは自由解散ということにして邦子どのとは別行動とする。

   

   菜の花祭り会場に設えられた展望台。この周囲に巨大迷路が作られていた。

少し離れた所になだらかな丘の牧場が広がり、丘の上の方には巨大な発電風車が6基設けられていた。菜の花畑は、会場の他にも同じような規模の畑が幾つか点在していた。そよ風に乗って匂って来るのは、菜の花ばかりではなく、牛たちの肥やしの匂いも混ざっている。田園の香りとは、このようなものを言うのであろう。1時間ほどその田園地帯を歩き回って車に戻った。

   

   菜の花畑の向こうの丘には、巨大な発電風車が6基設置されていた。菜の花畑と風車の景色は良く似合う。

車の中で休んでいると邦子どのがボランティアの方を連れてきた。何だろうと思ったら、間もなくボランティアの人たちの活動時間が終わるので、それが済んだら特別に菜の花畑を案内してくれるという女性の方だった。断る理由は無いので、お願いすることにして、しばらく待つことにした。

宮さんとおっしゃるボランティアの方には、その後すっかりお世話になってしまった。車の助手席に坐ってナビゲーターをつとめて頂き、それから1時間ほどかけて横浜町の主な菜の花畑をご案内して頂いたのである。町といっても広大な広さであり、40kmくらいは走り回っただろうか。見事な菜の花畑が幾つもあって、邦子どのは写真を撮るのに大童だった。移動しながら宮さんから菜の花畑維持のご苦労話をいろいろと伺った。だんだん作付けが減ってきており、今年は町全体で108haとなり、とうとう20年以上続いた菜の花畑日本一の座を僅か1haの差で北海道の滝川市に譲ったとのこと。それというのも菜の花の栽培は経営的に厳しく、収益のことを考えると農家の人たちは、より有利な牧草栽培などへ転換する人が多いのだとか。

その中で宮さんたちは荒れた土地を修復しながら、小学生などの子どもたちも巻き込んで、菜の花畑作りに全力を挙げているとのことだった。又花だけではなく、菜種油も高品質のものを得ることが出来るよう、基金などの力を借りて搾油機なども購入するとともに、その販路についても知恵を絞っているとのことである。成功を祈らずには居られなかった。本当に勉強になりました。ありがとうございました。

横浜の道の駅には、18時近くに戻り、今日はここで泊ることにする。宮さんにご紹介頂いて、道の駅の支配人を勤めておられるご主人から菜種油の絞ったものを1本買わせて頂いたが、澄んだきれいな油なのに驚いた。子供の頃の記憶では、何処の家も菜種油で天ぷらを揚げていたが、これほど澄んだものを見たことが無い。宮さんは特別の品種で収量は少ないけど品質は最高のものだといっておられたが、確かに天ぷら油などで使うには勿体なさ過ぎると思った。サラダ用の油として賞味してみようと思った。

夜は昨日のイカの残りを味わいながら1杯やって眠りに就く。

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へのへのの旅(07東北春旅)第15回:その1/2

2008-07-05 01:23:44 | くるま旅くらしの話

※昨日まで5日間、古希肩(?)の気休め治療にと、群馬県北の四万温泉、六合村、草津温泉に行って来ました。その報告はいずれしたいと思っていますが、とりあえず、前回からの続きを掲載します。

 

第15日 <5月13日()   

道の駅:虹の湖 → 温湯温泉 → 道の駅:田舎館 → 津軽こけし館・伝承工芸館(黒石市)→ (R102・県道・R101) → 道の駅:森田(つがる市)(泊)  <86km

朝起きて外を見たら雨だった。昨夜は風も吹かなかったので、天気は大丈夫だろと思っていたのだが、小雨がずっと降り続いていたらしい。今日はずーっとこの様な天気の予感がする。まずは朝風呂に入ろうと早速出発。丁度6時ごろドアを開け、温泉館の中に入ったのだが、何とまあ、もう溢れんばかりの人が入っているので驚いた。4時からの営業なのだが、既に4時前に並んでいる人もいるという。改めて人気のある温泉なのだなと思った。今度はここの駐車場に泊って(料金300円を払えばOK)朝一番の風呂を楽しんでみたい。たまには朝風呂もいいものだ。朝風呂の帰り道、地元の方の素朴な、本物の来訪者に対する掛け声の書かれたPR板が幾つか目に入った。意味は正確には良くわからないけど、心は伝わってくる。あったかい。

     

朝風呂の後は、田舎館の道の駅に行き朝食。どうやら今日は一日中本格的な雨らしいので、ここでしばらくゆっくりすることにして、朝からビールで乾杯。飲んでしまえば動けないので、後はとりあえず寝るだけ。ブログの投稿記事などの仕事(?)も少しはしたけど、結局12時半頃まで布団の中。邦子どのはマイペースで、何かをやっていたようである。この人はヒマになるとナンプレの問題を解く趣味があるので、多分それをやっていたのかもしれない。

目覚めた後は、温湯温泉近くに津軽こけし館というのがあるのが気になっていたので、そこを覗いて見ようと提案したら、邦子どのが言うには、昨日の二人の方から聞いたリメイクの店がその傍にあり、何とそこは蕎麦屋さんでもあるという。それならそこで蕎麦の昼食にしょうということになった。その前に給水タンクに水を補給する。雨は依然として降り止まず、時々強く降っている。

こけし館には、道の駅から10分ほどで到着。入口の傍に「花いちもんめ」という蕎麦屋があり、そこがお目当ての場所だった。中に入って早速蕎麦を注文。店内には、コギン刺しなどを初め、この地で発掘()された、古い布地を使った衣装や物入れなどの作品が幾つも展示されていた。リメイクの教室のようなものも開かれているらしく、何人かの中年女性が議論をしていた。蕎麦屋と寺小屋が一緒になった雰囲気の変わった店だった。しかし、蕎麦の方は間違いなく本物で美味かった。

食事の後に居残って、あれこれ店の人と話し始めた邦子どのはそのままにして、店を出てこけし館を覗く。こけしには作られている地方によって、それぞれの特徴があるとは聞いているけど、その見分け方は全く判らない。津軽のこけしがどのようなものなのかもわからない。もともとこけしにはあまり関心が無いのだからしょうがない。館内には純金や純銀製のこけしが有料で見られるとの案内などもあったが、その気にはなれずザざっと一回りして終わった。

こけし館の上の方に「津軽伝承工芸館」というのがあり、こちらの方は、全く知らなかったのだが、行って見ると、この地方のいろいろな土産品などが各分野別に並べられていて、なかなか面白かった。黒石ねぷたの作品も展示されており、その行事の模様なども詳しく解説されていて、大いに参考になった。青森県の祭りといえば、何といってもねぶたであり、ねぷたであろう。黒石がねぷたの本場なのだということを改めて認識した。

一通り見て廻って車に戻ったが、1時間以上経った今になっても邦子どのは戻らない。よほどに気に入ったお店なのかも知れない。こうなるともう、放っておくしかない。

何もすることが無いので、とりあえずパソコンの写真の整理などをする。今年からデジカメ日記というのを作っており、毎日撮った写真の全てにタイトルをつけることにしている。旅に出ると、写真の数が多くなるので、結構大変なのだ。80枚写真を撮ればタイトルも80書かなければならないからである。毎日最低でも40枚くらいは写真を撮ることになる。だから、忘れない内にやっておかなければならない。しかし、やってみて確信したのだが、この記録は、後で力を発揮する。画像の力は、何といっても記憶を引き戻す力が大きいからだ。

 ようやく邦子どのが戻ってきた。昨日会った二人の方のうちの何とかさんと再会したのだという。それで話は一層弾んで長くなったらしい。結構ですなあ。もう一回津軽伝承工芸館へ一緒について廻らされる羽目となった。ついでに青森県の昔話などの民話の本を4冊買った。半分は艶話である。雪国の人たちはどのような艶話を膨らませたのであろうか。読むのが楽しみだ。

(続きは、その2/2へ)

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へのへのの旅(07東北春旅)第15回:その2/2

2008-07-05 01:22:54 | くるま旅くらしの話

(その2/1の続き)

雨は依然降り続いている。もう16時近くになっている。さて、これからどうするか。考えた結果、先ずはこのエリアからはおさらばすることにして、折角だから日本海側の鯵ヶ沢に行き、久しぶりに焼きイカをゲットして味わうことにしようと決める。彼の地の焼きイカは天下一品の味だと思っている。ところが、自分と言えば去年の秋の健康診断で、コレステロール値が異常に高かったため、それ以来イカや蛸、それに甲殻類の蟹などの海の生物は一切口にしていないのである。しかし、ここに来た以上は、もう半年以上も辛抱したのだから、少しは口にしてもいいだろうと決断したわけなのだ。

雨の中をお岩木山の麓の道を走って、鯵ヶ沢へ。鯵ヶ沢町は相撲界の超軽量名人、舞の海の出身地だ。現役では、安美錦この町の出身だったと思う。相撲の盛んな青森の中でも特に熱心な所だと聞く。自分が知っているのは、とにかく日本海で採れたイカの一夜干しを焼いた、その味の素晴らしさである。

いつもの焼きイカの店が並ぶ場所に到着する直前の頃から、一層激しい篠つく雨となり、これでは店は閉まっているのではないかと心配したが、2、3軒が開けてくれていたの助かった。邦子どのが車の中からオーダーして3枚をゲット。おまけとして1枚追加してくれた。ありがとう。これで今夜の肴は充分だ。15分ほどで道の駅:森田に到着。今日はここに泊らせて貰うつもり。

 

 猛烈な雨の中に到着した焼きイカ屋さんは、無事営業していてくれて、ありがたかった。

ここの道の駅には何度もお世話になっている。「おらほのめへ」と書かれた野菜など地産品の販売所があり、その意味がズーっとわからなくて、最近になってようやく「私どもの店」というような意味ではないかと思うようになった。正解はわからない。地元の人には訊いたことが無い。

とにかく結構な風雨が続いているので、早く寝ることを心がける。8ヶ月ぶりの焼きイカは美味かった。今年はこれが最後となるに違いないと思うと、目一杯味わってやろうという哀しい欲が出る。しかし充分満足して、やっぱりここへ来た甲斐があった。いい夢が見られるだろう。

   

鯵ヶ沢の焼きイカ:一度に全部食べたいのを抑えて、じっくり味わうのにも、最近は慣れてきたようだ。

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