山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

へのへのの旅(07東北春旅)第27回:その1/2

2008-07-14 02:29:25 | くるま旅くらしの話

第27日 <5月25日()    

道の駅:石鳥谷 → (R4R343) → 黒石寺(水沢市)→ 正法寺(水沢市) → (R343) → 道の駅:水沢 → (R4R342) → 道の駅:厳美渓【本寺地区下見・市立博物館見学】(一関市)(泊)  <122km

早朝散歩から戻って食事の後、出発の準備をしていると小雨が降り出した。今日は天気は期待できないようだ。次第に雨脚が本格化する中を南下開始。今日は平泉などを訪ねながら一関市にある厳美渓の道の駅に泊るつもりでいる。

途中北上市郊外のイオンにて買物をした後、水沢辺りを通っていると、「黒石寺」という案内板が目に入った。このお寺には地図での見覚えがある。マーカーで印をしてあるので、覚えていたのだが、未だ行ったことのない所で、しかもそれが何でマークすることになったのかも覚えていない。邦子どのに聞いても覚えがないという。だったら行ってみようということになり、R4を左折してR343へ。途中北上川の袂に道の駅:水沢があった。ということは、この道は以前来たことがあるから、恐らく黒石寺の前も通っているに違いないのだが、全く覚えていない。何なんだろうと、謎解きのような気分である。

行って見ると黒石寺は古刹の趣のあるお寺だった。案内板によればこのお寺は平安時代初期に創建され、48もの堂宇をもつ大きなお寺だったのが、時代を経るにつれ、それらをことごとく消失して現在は明治時代に建てられた薬師堂のみが残っているとか。

  

  黒石寺本堂:薬師堂が本堂となって残っている。

この寺が有名なのは、蘇民祭という伝統の祭りによるものだった。といっても蘇民祭のことは覚えておらず、邦子どのに聞くと、蘇民将来のことを少し知っていたようだから、以前TVを見ていて、その時に地図にマークを入れたのだろうということになった。今度からマークだけではなく、タイトルくらいは付記しておかなければと思った。蘇民祭は、旧正月の7日から翌朝にかけて行なわれる一大イベントで、男達の裸祭りだということ。厄災を払い五穀豊穣を願っての民衆の予祝行事であり、その祭りの日取りも形も古来からの原形を失っていないところに、ここでの祭りの評判の高さがあるらしい。そのようなことが説明板に書かれていた。そういえば、宮沢賢治記念館の奥にあった胡四王神社の境内にも蘇民祭のことが書かれた説明板があったのを思い出す。何のことかよくわからなかったが、これで黒石寺の謎も、蘇民祭のことも一応の謎は解けたようである。しかし本当のことは蘇民祭を見物し、更には裸になって祭りに参加しなければわからないのであろう。その実現は不可能である。

近くに正法寺というお寺があるらしい。来る道々の角に修行僧らしき銅像のようなものが幾つか建っていたが、どうやらそれは黒石寺というよりも正法寺の案内だったようである。10分足らずで到着。少し離れた駐車場へ行ったが、かなりの混雑で、車を置くのに苦労した。

早速行ってみて驚いた。巨大な萱葺き屋根の本堂があり、その横にこれまた巨大といっていい庫裡らしき建物があった。ここにこのような大きなお寺があるなんて、想像もしていなかった。本堂は屋根を新しく葺き替えて間もないらしい。それに合わせての補修作業なのか、本堂の前の庭の整備は未だ終わっていないようだった。とにかく圧倒される大きさである。国の重要文化財の指定を受けているとの立て札があった。

  

  正法寺本堂の景観。正面の柏の木は開祖が手植えされたものとか。

中に入って資料等を見て初めて知ったのだが、このお寺は曹洞宗の奥州における拠点で、永平寺、総持寺と並ぶ三大本山の一つだとか。知らないままに、今日この三大本山を訪ね終えたことになった次第だった。ここでは修行僧も何人か居られるらしくて、若いお坊さんが多くて、普通のお寺ではない雰囲気がある。時間をかけて庫裡や本堂の中を歩いた。本堂は平成の大修理を終えたばかりで、これからその落成の行事などが行なわれるらしい。

成人式を終えても、お寺については、死者との関わり合いしか考えられなかった自分だったが、その後座禅などをやるようになって、次第に考え方が変わり、今ではお寺というのは100%現世をよりよく生きるために存在しているのだと思うようになっている。その所為なのか、お寺に来ると、暗さや陰気さではない清清しさを感ずるのである。1時間ほどお寺の中で過ごしている内に外の雨も止んだようである。もう一度機会があれば寄って見たいなと思いつつ、車に戻る。いい時間だった。

昼食は水沢の道の駅で摂ることにして立ち寄る。今日はうどんを作ることにしている。手抜きの料理(?)である。先ほど買った玉うどんをお湯で温め、丼に入れ、少しお湯を注いで、そこに角館のあまだれを少しかけ回し、刻んだ葱を多めに振りかけてそれで完成。後は七味などを振りかければよいだけ。このような山賊料理は、勿論邦子どのの出番ではない。しかし味の方は、そこいらの、いい加減なうどん屋のもの何ぞよりは、ずっと上を行ってるなどと手前勝手に思っている。

しばらく休憩した後、出発。又雨が降り出した。R4に戻り、途中前沢の給油所で給油を済ませ、南下を続ける。平泉にかかり、中尊寺は敬遠して毛越寺の庭園でも久しぶりに訪ねようかと駐車場へ行ったのだが、工事中らしくて道はぬかるみ、車もやたらに混んでいて、図体の大きいSUN号を入れるのが煩わしくなり、パスして厳美渓の方へそのまま行くことにした (その2/2に続く)

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へのへのの旅(07東北春旅)第27回:その2/2

2008-07-14 02:28:51 | くるま旅くらしの話

一関市郊外の本寺という所が、国の重要文化的景観の指定を受けたというのを、先日の岩手県立博物館を訪ねた時に知り、それを是非一度見てみたいと思ったのだが、その場所を調べたら、これから行く厳美渓の先の方にあるのが分かっている。毛越寺をパスした分だけ時間が余っているので、今日はそこの下見に行ってみることにした。国指定重要文化的景観などというものがあることを初めて知ったが、それは一体どのようなものなのか興味深い。

一先ず厳美渓の道に車を停め、本寺地区の案内資料のようなものは無いかと探してみた。壁に貼ってある案内絵図があったが、持参するわけには行かないので、困って売店の人に訊いたら1枚プレゼントしてくれた。その人から本寺は、昔は骨寺と呼ばれていたと聞き、なるほどそれが今は本寺になったのだなと納得した。骨寺というのは如何にも不気味な地名である。

道の駅に隣接して立派な建物があり、覗いてみたら、何と一関市立博物館だった。訪ねたいと思っていた場所の一つである。未だ時間があるので、本寺の下見を先にした後、入館することにして出発。雨は依然降り止まない。案内図を頼りに駒形根神社という所まで行ってみた。

  

  骨寺村荘園遺跡(といっても現役でもある)の案内板。骨寺は今は本寺と書かれ、呼ばれているようだ。

小さな鳥居の脇に本寺地区の文化財・史跡の案内板があった。重要文化的景観というからには、眺めのことを言うのだと思うが、何しろかなりの雨降りで、風も強く、景観どころではない。諦めて明日の好天を願いつつ、来た道を戻って博物館へ。

博物館では、骨寺のことはさほど取り上げてはおらず、郷土の生んだ偉人のコーナーが目立った。幕末から明治という近世日本の文化の発展に大きく貢献した人たちがここ一関出身と知り驚いた。特に大槻玄沢、磐渓、文彦と三代に亘る一族の貢献は素晴らしい。以前、大槻文彦のことを書いた「言葉の海へ」という本を読んで感銘を受けたことがあるが、その文彦という方が蘭学で有名な玄沢の孫であるのを知り、血のつながりというものがあるのかなと思ったりした。その他一関が和算に大きく関わっている所だったということにも興味を惹かれた。和算の内容の方はさっぱりわからない。博物館内にはその他たくさんの資料が展示されていたが、残念なことに照明が暗すぎて、書かれている説明文などが良く見えない。まさか省エネのためというのではないと思うけど、立派な資料も読めないような展示の仕方では、本末転倒ではないかと思い、アンケートにその旨を記した。

天気が悪いせいなのか、館内が暗い所為なのか、ここに勤務されている人たちも静かで、暗い感じがした。でも邦子どのが骨寺のことを尋ねたら、「平泉の文化遺産を世界遺産へ」という立派なDVDを無料でプレゼントしてくれた。ありがたい。

館を出て、隣の道の駅の駐車場に車を入れて夜を迎える。雨は終夜降り続き、明け方になってようやく止んだようである。明日は是非ともどんど晴れとなって欲しい。

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