山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

へのへのの旅(07東北春旅)第22回

2008-07-10 00:16:42 | くるま旅くらしの話

第22日 <5月20日()

道の駅:小川原湖 → 新館神社(七戸町) → 道の駅:七戸 → (R4R45) → 六戸町メイプルふれあいセンター → 八戸市運動公園駐車場(→八戸城跡など市内散策) → (R104R4) → 二戸民俗資料館 → (県道・R340) → 道の駅:折爪(泊)  <123km

今日から南下開始。天気は回復し始めたようで、雨の心配は無し。5日間お世話になった小川原湖の道の駅ともお別れである。まずは七戸の道の駅に立ち寄り、この地の特産品の山芋などを買うつもりで出発。途中、新館神社というのがあったので、寄って見ることにした。由緒書に、この地を治めた南部の元祖の三男南部三郎朝清という人が甲州南部の庄から八幡宮を勧請したものだとか。参拝の後七戸の道の駅へ。この道の駅は相変わらず車が多い。新幹線が開通する頃には、この辺りはすっかり変わってしまうのかもしれない。直ぐ近くにできる駅は、どのような姿をしているのだろうか。気になることではある。山芋を4、5本購入。信じられないほどの安さである。東京辺りの半値以下だ。流通のしくみというのは不可解である。

七戸の道の駅に別れを告げて、とりあえずR4から十和田郊外でR45に入り、六戸経由で八戸方面へ行くことにした。天気もまあまあの上天気で、車の流れも順調である。六戸に入って、道脇にメイプルふれあいセンターというのがあったので寄ることにした。ここは町の地産物などの販売施設があり、隣接して旧苫米地家を移設した展示場などがあり、地域の交流施設として作られた所らしい。苫米地家は茅葺きの、この地を代表する大きな古民家で、江戸時代後半に建てられたものだということだった。地産品の店では、1本2kgほどもある巨大な山芋が、何とたったの130円で売っていた。先ほど七戸の道の駅でたくさん買ったばかりなのに、ついつい、またしても買ってしまった。いやはや、こんなに食べきれるものなのだろうか。先のことはわからない。

戸は、一昨日郊外の博物館を訪ねただけだったので、今日は市街の中心にある八戸南部藩の城跡などを見てみようと思っている。中心街には駐車場が見つからないので、運動公園らしき所の駐車場に車を置いて、歩いてゆくことにした。20分ほど歩いて、市役所に隣接する城址公園へ。市街地の半分ほどを見渡す高台にその昔の八戸城はあった。

  

八戸南部藩は、江戸に入ってから宗家盛岡藩から2万石を分けて新しく作られたとのこと。それまでは先日見た根城に城があったのだが、根城南部氏は遠野へ移り、八戸藩の新しい城が現在の市役所脇に建てられたということらしい。往時を偲びながら城跡をゆっくりと散策した。小さな池が作られている辺りに、黄色の花を咲かせているオドリコ草を見つけ感激した。オドリコ草は普通は白か淡い紅色なのだが、ここの花は黄色だった。初めて見る黄色のオドリコ草は、黄色い衣装を着けた楚々たる乙女たちが楽しげに舞っている風情があって、なかなかのものだった。

  

その後少し街中を散策しながら車に戻る。八戸の町も間もなくシャッター通りが増えるのではないかという予感がする。最早完全といっていいほどの車社会となっており、駐車場の無い市街地の商店街は、没落するばかりである。何となく活気不足の感じがした。

八戸に別れを告げ、次はR104R4を一路二戸へと向う。二戸は前回に九戸城跡を見ただけで、何となく中途半端になっている。もう一度市の民俗資料館へ行ってみることにした。いい天気である。15時少し前資料館に到着。今度は開館中との札があった。やれやれ。

受付の女性の方の案内で、館内に入る。それほど大きくはなく、同じ市でも八戸の博物館などと較べれば真に質素というべき建物だった。中に入って驚いたのは、相馬大作という人物がこの地の出身だったということ。相馬大作のことは、その昔の江戸時代、南部藩の怨敵ともいえる津軽藩に対してその参勤交代の行列に襲撃をかけた人物として知られている。忠君至誠の人物として一時はもてはやされ、映画化されたこともあったが、その実態はどのようなものだったか多少の関心があった。南部藩というからには、盛岡の人だとばかり思っていたのだが、今回のへのへのの旅の下見で南部の一族というのは奥州の中央を含めた東半分に広く勢力を持っていたことを知り、その認識を改めたわけなのだが、彼の相馬大作が二戸にかかわりのある人だとは全く知らなかった。案内の女性はイナバ(=稲葉?)さんという方で、大変熱心に郷土出身の人物の説明をして下さった。

相馬大作のコーナーは資料館全体の半分近いほどの広さで、いかに力を入れて展示しているかが伝わってくる。いわば郷土の英雄的な存在であるらしい。相馬大作が単純な切り込み隊長のような人物ではないとは承知していたが、資料や展示品などを見ていて、時代を見抜いた優れた見識を持った人物であることを再認識することが出来た。津軽藩に一矢を報いたことよりも、当時の幕府に対して開明への刺激となる矢を放ったのだと理解した方が当を得ていると思った。残された書の中に「志不昧萬死」とあったが、その信念を通す迫力には打たれるものがある。「志は命を落とすような事態に直面しても、決してぐらぐら迷うことは無い」という意味だと思うが、力強い筆致で、彼の人物の思いというものが、強く、深く伝わってくる。

  

傍に展示されていた槍術の修練用の棒や居合いに使ったという大刀も、並みの努力では決して使いこなせないというのがよく判る、迫力のあるものだった。この人物のことは、帰ってからもう少し資料を読み、理解を深めたいなと思った。

この他田中館愛橘、その女婿の田中館秀三という、日本の物理や地学、地震学などの科学の草分け的な存在の方々の紹介についてもイナバさんは、熱心に説明して下さった。正直、初めて聞く名前だったので、そのことがわかるまでに少し時間がかかった。ここの館長さんは今日は不在だったが、館長さんの薫陶を受けられているのか、イナバさんの郷土愛、郷土の偉人の崇敬には真似の出来ないものがあるなと思った。

また、二戸には幕末に「会輔社」という結社のようなものがあり、これには我が郷土水戸の人物も関わっていたことも知った。会輔社は、明治維新時以降の二戸輩出人物の精神的なバックボーンとなっているに違いないと思った。会輔社が人物輩出のバックボーンとなり得たのは、思うに学ぶ姿勢にあったのではないか。今わが国の教育で最も必要なことは、学ぶ姿勢を身につけさせることだと思う。受験勉強などというものは、学ぶ姿勢ではない。その会輔社の学舎である「槻蔭舎」というのが、呑香稲荷神社の傍に今でも残っているとか。明日にでも行ってみようと思いながら、イナバさんに見送られて資料館を後にした。お土産にたくさんの資料を詰めた書類袋を頂き、なんだか宿題を頂戴した様な気分である。イナバさんは身重で、間もなく3番目のお子さんが生まれると言う。どうぞお元気でお子さんと対面してください。本当にありがとうございました。

今日の泊りは九戸村の道の駅:折爪に又またお世話になることにして、山を越え到着した時は17時近くだった。未だ日は残っており、時間もあるので、邦子どのが山菜の天ぷらを揚げてくれることになった。駅の売店でタラの芽などが無いかと探したが、遅いこともあり、目ぼしい山菜は殆どなくなっていた。手許に在庫していた材料で作ったが、その中では、小川原湖畔で摘んだウコギの若葉が結構美味かった。春の野草や木々の若葉などは、特別のものを除けば、殆どが天ぷらの材料になるものばかりだ。今回の旅では3回目の天ぷらとなった。11日ぶりの折爪の道の駅は、周辺の緑が濃さを増し、一段と夏が近づいた様である。

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