山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

庄川の鮭

2007-12-06 07:21:47 | くるま旅くらしの話

私の育った茨城県北部の常陸大宮という所には、那珂川と久慈川という二つの鮎の名所を持つ川が流れている。那珂川は家から6kmくらい、久慈川は4kmくらいの距離にあった。子供の頃は、鮎釣りの季節になると、専ら久慈川の方へ遊びに出かけた。鮎釣りといえば、今頃は友釣りが殆どのようだが、往時の我々ガキ共の釣りといえば、テグスなどは使わず、母の裁縫箱から持ち出した木綿糸の先に小鉤針をつけて、川床の石をひっくり返して見つけた川虫を付け、川の中に入って流れに沿って篠竹の先に付けたその糸を前後するだけだった。それだけの作業で2時間も遊べば、20匹ぐらいの鮎を釣ることができたのである。今頃は、さてどうなっているのか良く解らないけど、もはやそのような子供たちは消え去ってしまったのであろう。

ところで今日は鮎ではなく鮭の話である。同じ川での魚なので、つい懐かしく子供の頃のことを思い出してしまった。那珂川や久慈川にも、間違ってなのか惚けてなのか、時々鮭が遡上することがあるようだが、子供の頃にはそのような話は聞いたことがなく、思い出すのは鮎釣りのことばかりだった。

先日、わが国での名車、B.C.バーノンの生みの親の戸川さんのお招きで、TAS(Trail  Adventure  Spirit)というオートキャンプクラブの「鮭狩醍醐味キャンプ『庄川の巻』」というのに参加させて頂いた。TASのメンバーは、勿論こよなく名車B.C.バーノンを愛する方々が多いので、国産キャブコンの我が車は、大きな車に囲まれた中で、少しばかり緊張したのであった。TASは車も大きいけど、スケールの大きな発想のもとにツーリングキャンプを楽しんでいるクラブである。単に国内での活動だけではなく、国際交流を目指し、既に何回かカナダや韓国でのツーリングキャンプの実績をお持ちである。又来年7月下旬から8月上旬にかけては、韓国で開催されるFICCの世界大会に参加し、その後百済文化の後を訪ねるツーリングが計画されているとのことである。私はそのようなことに極めて疎(うと)い人間なので、戸川さんが語られるその熱き夢を伺って、大変感激、感動したのだった。

さてそのTASでは、鮭狩りシリーズというイベントキャンプを行っておられ、今年はその3回目で、場所は河口近き高岡市の庄川河川敷ということだった。偶々そこで「庄川鮭まつり」というのが開かれており、戸川さんが、その祭り会場脇の河川敷でのキャンプ開催を折衝されて、漁協の方からも大変好意的なご了解を頂き、お借りできることとなったというお話だった。戸川さんと会って話をされた方は、どなたでもその魅力にたちまちとりこにされてしまうに違いないと思う。直ぐ脇を庄川が流れるなかなか野生的な場所だった。

ところで、狩りといえば、猪や鹿などの話は良く聞くけれど、鮭というのはあまり聞いたことがない。鮎ならば狩りと呼ぶには無理があるが、確かに鮭となると巨大魚の部類に入れてもいいような気がするので、狩りという方が相応しいのかもしれない。面白いイベントだなと思った。

鮭と庄川がどのように係わるのかについては、殆ど何も知らなかったが、庄川という川については、何となく親近感を覚えていたのだった。富山市付近には神通川、常願寺川それに庄川という3つの大きな川が流れているが、その中で庄川に一番愛着を覚えるのは、この川が太平洋に注ぐ長良川と水源を同じくしていると言われるからである。分水嶺という言葉があるが、まさにその分水嶺の範を示す場所が、岐阜県高鷲村(今は郡上市)の、ひるがの高原という所に在る。何年か前の旅で、R156を走っている時に立ち寄った場所だった。この場所から流れ出る水が、一つは太平洋伊勢湾に注ぐ大きな川となり、もう一方は日本海富山湾に注ぐ大きな川となるというのは、何だか単なる偶然ではないような気がして、不思議な思いに駆られたのだった。庄川には御母衣(みほろ)ダムの建設に係わる庄川桜の話もあり、その辺りを通る度に、ずいぶんと人間が弄(いじ)り回した川なのだなと少し気の毒な感じがしたのだった。

その庄川に鮭が遡上しており、鮭まつりまで開催されているというのは初めて聞く話であり、驚きだった。このように書くと地元の方には大変失礼なことになるのかも知れないが、無知というのは致し方ない。お許しあれ。当日漁協の方から伺ったお話では、日本海側では庄川が鮭遡上の南限なのだそうだ。日本海側では村上市の三面(みおもて)川が有名だが、お話では今はここ庄川の方が水揚げ量が多いのだという。富山の魚としてはなんと言ってもブリがあり、地元の方たちには鮭はあまり人気がなく、関心を引かないらしい。それゆえ、ここから東北などの各地に運ばれる鮭もあるらしい。富山湾エリアの人たちは、魚に関しては恵まれすぎた環境にあるなあと改めて思った。魚好きの私には何とも羨ましい話である。

鮭まつり会場の直ぐ傍には、50m以上もあると思われる川幅全体に掛かる特製の簗が仕掛けられており、捕獲かごの中に続々と鮭が入って来ていた。北海道の千歳市で、千歳川に設けられたインデアン水車という鮭の捕獲装置を見たことがあるが、ここ庄川の簗の装置も凄いものだなと思った。漁協の方のお話では、特許をもつ装置なのだそうで、海外へ輸出もされているとか。鮭たちにとっては、さて、どのような感慨があるものなのであろうか。

鮭という魚には、何だか可哀相な感じを抱いてしまう。食べている時には美味いだけで何とも思わないのだが、4年もかかって北海を泳ぎ回り成長し、やっとの思いで母川に戻って、それこそ命がけで次世代につなぐ仕事を終えた後の、よれよれになって泳ぐ姿や、ついに力尽きて川底に身を横たえている姿を見ると、彼らの生き方の凄まじさを思い、何だか気の毒になってしまうのだ。人間というのは、真に始末におえない、いい加減な生き物である。

そのいい加減さを存分に発揮して、我が相棒は、鮭汁を堪能し(これは自分もだが)、イクラご飯に超満足し(これは自分には禁止されている食べ物)、その後は漁場近くに設けられた特設プールの中で鮭の掴み捕りというのに挑戦していた。そこで捕獲した鮭は切り身の塩漬けとなって我が家の冷蔵庫に収まり、今でも時々それを戻して塩分を取り、我が胃袋に収まっている。

旅は、楽しみの中にいろいろと改めて考えさせられる思い出も作ってくれるものの様である。

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名水のこと

2007-12-05 02:10:49 | くるま旅くらしの話

人間が身体に取り込まなければならないものの中で最も重要なのが水だと思っている。身体の大半は水をベースにつくられ、動いていると思っている。だから、私は水にはかなり拘(こだ)わっている。最近は通常の水道水をそのまま飲むなどということは決してしない。調理の際は浄水器を通したものを煮沸して使っているが、飲料水としては市販されている、いわゆる名水と呼ばれているものを飲むようにしている。

旅に出ると、各地の名水を活用することに努めている。今回の関西・北陸の旅では、上中町(現在は合併して若狭町となった)にある瓜割の名水を汲んだ。若狭エリアには、古来より名水が多いようだ。奈良東大寺二月堂のお水取りは、春を告げる行事として有名だが、そこで汲み取る水を送っているのは若狭小浜の遠敷川上流にある神宮寺で、ここにお水送りの行事があるというのを知ったのは何年か前だった。神事においても若狭と奈良とがつながっているというのは、かなり壮大なスケールの話だと思う。

瓜割の名水は、瓜割の滝から流れる清冽な水を汲むものであるが、旅でここを通るときには、必ず寄って飲み水のペットボトル(常時2L入りを12本は携行するようにしている)を充填し、更に車の水タンクを満たすようにしている。ここでの水汲みは有料で、所定の手形であるラベルを事前に購入しなければならない。何だかケチな話だなとは思うけど、維持管理のためには費用もかかることだから、安全で美味い水を確保して頂くためにはやむを得ないのだろうと思っている。

ところで、名水は安全かという問題がある。特に最近のように食品関係でルールを逸脱した行為が話題となることが多い状況では、何の疑問もなく名水であるという評判だけで水の安全性を信ずるというのは、かなり勇気の要ることかもしれない。多くの場合は、水質検査を定期的に実施しその証明書が明示されており、それまでがインチキだとは思えないので、信用することにしている。でも念を入れて、そのまま生水を飲むことはしないようにしている。旅の途中でお腹をこわし、体調を崩したりすれば旅は台無しとなってしまうからだ。今回は勿論体調を崩すようなことはなく、その後も美味しい瓜割の水でお茶を飲み、コーヒーを味わって満足だった。

話は変わるけど、いつの日か造り酒屋の名水なるものを訪ねる旅を考えて見たいと思っている。各地の造り酒屋さんに行き、そこで使っている水を一杯飲ませて頂くだけの話なのだが、結構面白いような気がしている。というのも、酒造りには水は生命線だと思うからだ。私の信念として、美味い酒は美味い水につながっており、本当に美味い酒というのは、水のようにサラッとした味の酒なのだと思っている。ベトベトした甘ったるい感じの酒はインチキだと思う。限りなく美味い水に近い酒、飲んでも酒とは思われないほどサラッとした奴が本物の美味い酒なのだと思っている。中国の詩人李白は、斗酒なお辞せずという酒仙だったと聞くが、彼が飲んだ酒もきっとサラッとした水のような酒であったに違いない。ベドベトした甘い酒ならば、決して斗酒とは行かないであろう。そのような酒をやたらに飲んだら、悪酔いするだけである。それは李太白大人にも言えることではないか。そう思っている。

名水と名酒を求めての旅は、なるべく早く開始した方がいいように思っている。古希にはまだ少し時間があるが、古希を過ぎての酒へのいれこみは考えものだ。心と身体の調和のとれた飲み方は、工夫次第であの世に行くまで可能だとは思うが、70代になっても美味い水と美味い酒を求めて全国をうろつくなどと言うのは、いささか滑稽のような気もするのである。(多分にそれでもいいのでは、という考えもあるのだけど) 名水のことを話しているうちに、結局は名酒に辿り着いてしまう。いつもの悪い癖である。

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日本海の虹の話

2007-12-04 06:30:34 | くるま旅くらしの話

海に架かる虹というのをあまり見たことがない。特に太平洋に架かる虹は一度も見たことがない。海の近くに住んでいれば、時には見ることがあるのかもしれないが、海からかなり離れた場所では、それを見るチャンスはない。私の住んでいる守谷市では、せいぜい筑波山の手前に途切れ途切れの小さな七色のアーチがかかるのを年に一度見られればラッキーということになる。

ところで、虹というのはどんな時にできるのかといえば、これは大荒れの天気が殆どで、今まで晴れていた空が、突然黒雲に覆われ、いきなり雨が降ったかと思えば、今度は俄かに太陽が顔を出して一しきり穏やかな天気になる。そのような時に、ふと見ると大空に七色のアーチが架かるのである。その原理は良く解らないけど、お天道様と水との係わり合いがもたらす大自然の戯(たわむ)れ現象のようなものなのかもしれない。

秋から冬にかけての日本海では、虹を見ることが多いような気がする。以前も越前海岸沿いの道を通っていて、日本海に架かる虹を見たことがある。その時は、越前岬近くの水仙ランドという所に立ち寄り、暖かい穏やかな天候の下で、満開の水仙の花を堪能していたのだったが、気がついたら空が険悪な様子となっていたので、驚いて車に戻り、そこを離れたのだった。その後の行程は、とてつもない風雨吹きすさぶ悪天候となり、海が吼()え、荒波の狂う凄まじい状況の中を走ることになり、いやはやとんだ事になってしまったと、膨らむ不安を抱えながら早く海側から離れたいものだと思いながらの走行だった。が、しばらく経つと雲の切れ間から日が差し、なんとその向こうに巨大な虹が海の上に浮かんでいるではないか!思わず、オーッと声を発してしまった。その時初めて海に架かる虹を見たのだった。感動した。

今回の北陸の旅では、再び日本海に大きく架かるその虹を見たのだった。関西エリアの旅を終わり北陸は金沢方面に向かうその移動日は、朝から雨模様の天候だったが、日本海側に出て敦賀を通過する辺りから、かなりの雨降りに加えて強風が吹きすさぶ悪天候となった。いつもは穏やかな表情の若狭湾は、荒れ狂って海の底までも振い動かすと思われるほどの巨大なうねりと白濁する大波を岩にぶち当てて唸っていた。風に弱い我が愛車は、海岸の崖に沿って造られたR8を突風が吹かないことを願いつつ、恐る恐る走ったのだった。幸い何事もなく通過できたのだが、途中ふと気がつくと前方に大きな虹が架かっていた。海に架かる虹である。先ほどまでの恐怖心は何処へやら、その美しい彩りになぜか安堵したのだった。

虹には人の心を捉える不思議な力があるような気がする。大自然がその凄まじい脅威を見せつけた後の、微笑みのようなものかもしれない。大空に光を使って描かれる大自然の芸術は、何れも不可思議な作品だが、その中でも虹は最高の傑作のような気がする。そして虹を動きとして捉えると、大自然の激しい気象変化の中に隠された一瞬の秘密の表情のようにも思えるのである。激しい変化であったがゆえに、その一瞬の優しさに我々は癒しの感動を味わうことができるだと思う。

旅をしていると、大自然の様々な現象にぶつかるのだが、北陸の海、すなわち日本海の寒い季節の気象変化の激しさは、生ぬるい関東の地に住む者には、強烈な戒めの刺激となるように感じている。まだ本当の日本海の冬を見たことがないので、何ともいえないが、砕ける波が凍り付いて散るというのは、同じ緯度の太平洋では決して見ることのない現象であろう。海に架かる虹を見て、驚いている場合ではないよというのが彼の地に住む人たちのコメントに違いない。

しかし、私は今度の旅の中で、海に架かる虹を見ることができたことを、旅の大きな収穫であったと思っている。毎年一度は、海の上に架かる巨大な七色のアーチを見たいものだと思っている。激しさの中に垣間見る一瞬の和みを味わいたいものだと思っている。

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オーニングのこと

2007-12-03 06:35:36 | くるま旅くらしの話

先日の関西・北陸の旅でとんでもない失敗をやらかした。そのことについて触れて見たい。

私は運転が下手だと思っている。特にバックは苦手で、我が家の車庫入れも決まったパターンでしかできない。何しろ運転席よりもダイネット部分の方が車幅があるので、バックをする際、ハンドルを左に切りながらの車庫入れは不可能だと思っている。ドアを開け、後ろを見ながらのバックならば、辛うじて何とかなるといった程度のレベルなのだ。見知らぬ土地では、不要にバックして土手にマフラーを突っ込んだり、後ろのカバーをぶつけて破損したりするようなことを繰り返している。自慢になる話ではない。

前進の運転は、今のところ大丈夫だ。尤も前進の運転に問題があれば、車を運転してはならないということになってしまうだろう。ところが今回は、前進の走行中に横の部分をぶつけて破損してしまったのである。ハッキリ言えば、サイドオーニングを電柱のようなものにぶつけてしまったのだ。

狭い道で、それなりに注意していたのだったが、やや左にカーブしている道で、道路の舗装状態が悪いため、左によりながら走っていた時、少し道路側に傾いていたらしい電柱なのか、引込み線の柱だったのか良く知らない障害物にオーニングの頭をガン!とぶつけてしまったのだった。40kmくらいのスピードだったと思うが、かなりのショックで、一体何が起きたのだろうと、びっくりした。車を停める場所が無かったので、そのまま少し走って路肩で停め確認して判ったことであった。

車の通行は、サイドミラーが当たらずに通過できれば、大丈夫だと信じていたので、まさかオーニングがぶつかるとは思わなかった。恐らく車の上体が左側に傾いていて、フェンダーはぶつかる筈も無いのに、右に傾いていた障害物が運悪くオーニングの角にぶつかったのであろう。カバーは衝撃で吹き飛ばされ、テントを引き出す時にハンドルを引っ掛ける、鋳物のようなものでできている部分が剥き出しとなってしまっていた。カバー全体が脱落するような恐れは無いようなのが幸いだった。

自分としては道路管理者や電柱の管理者に一言文句を言いたい気持ちはあるけど、他の人たちはぶつけたりしていないのだから、まずはドジと認めるしかない。その後、相棒から散々油を絞られそうな気がしたので、それが来ないように先制攻撃をして防ぐことにした。失敗に追い討ちをかけて失敗者を責めるのが、我が相棒のいつもの癖なのである。それをやられると、反省の気持ちが吹き飛んで戦いの気持ちとなってしまう。案の定その気配は濃厚だったが、どうやら思いとどまってくれたようで、自分なりにゆっくり反省することができてよかった。

さて、そのような苦しい、いい加減な弁明的なことなどはどうでも良いのだが、この際言いたいのは、くるま旅くらしをする者の旅車にオーニングは必要なのか?という疑問である。キャンピングカーだというので、オーニングは必需品だと思い込み取り付けて貰ったのだが、車を使い始めてもう5年近くになるけど、オーニングを使うのは年に1、2回くらいしかない。それも使わなくても済むのに、あまりに長い間使っていないので、ちゃんと動くのかを確認するというような気持ちが働くために、無理して使っている嫌いがある。使う場合でも晴れている時はいいのだが、雨などの場合は、濡れたまま収納することになり、晴れた時に乾かすために再度無用の引っ張り出しをしなければならない。そのまま放置しておくとカビが生えたりしていい感じでなくなるからだ。

というわけで、オーニングなど取り付ける必要は無かったのでは?と最近思っている時のこの事件だった。

キャブコンの場合は、キャンプの目的で使うことが多いのであれば、オーニングは不可欠であろう。しかしくるま旅のように移動の多い使い方では、キャンプ場に泊まって長期滞在をする場合以外は、殆ど使うニーズは無い様に思う。道の駅などでオーニングを出し、テーブルや椅子などを出しているような人が居るけど、これは世間からは白い目で見られるマナー違反行為である。私の場合は、長期滞在の場合は、キャンプ場に持参したテントを設置するので、オーニングを出すことは無い。車に付随したオーニングの下で日を避けるよりも、樹木の陰に椅子を運んで、そこで過ごした方が遙かに気持ちがよい。

車の中での調理が難しいような場合は、オーニングは場所を確保できれば有用な装備だと思う。通常キャブコンの場合は車内での調理が可能だと思われるが、バンコンの場合はそれが満足に叶わない場合もあるので、そのような場合はオーニングは必要かも知れない。いずれにしても要不要の判断はご本人が決めればよいことではある。

自分の場合は、オーニングは取り外すことにした。修理は難しいというし、新しく付け替えるつもりは無い。これで同じ道を通ってもぶつかることは無くなると思う。もしそれでもぶつかるとしたら、今度はオーニングの角ではなく、車のシェル本体ということになる。そのようなことが起きたら、運転は禁止となるだろうし、くるま旅も終わりにしなければならないことになる。いやはや、とんでもない事件でありました。

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守谷の紅葉

2007-12-02 07:52:37 | くるま旅くらしの話

旅から戻って、少し歩きに力を抜いていたのだったが、一つには年間の目標である450万歩を既に達成してしまったということもあって、あまり無理をして歩かなくてもいいやという気持ちがあったのからなのかも知れない。今日は久しぶりにいつものコースを歩いて見たのだった。

守谷という所に越してきて3年が過ぎたが、この街には樹木が多いのが気に入っている。遊歩道が整備されており、どの遊歩道にも何種類かの樹木が植えられている。街路樹としては、メインは銀杏であろうか。街の中心を走る常総ふれあい道と呼ばれる県道に沿って、丁度今銀杏の金色の並木が続いている。しかし車の多いそのような道を歩くことは殆ど無い。いつも車の通る道を極力を避け、樹木の多い遊歩道や静かな住宅街に沿った道、或いは畑の広がる農家のエリアを歩くようにしている。

今日もいつもの標準コースの一つを歩いたが、例年に無く紅葉の木が目立つのに気づいて少し驚いた。この辺は冬になると筑波下ろしというのか、筑波山や那須・日光方面からの冷気を含んだ風が吹き、結構寒さを覚える日が多いのだが、秋のこの季節の寒さは、さほどでもなく、付近の樹木の紅葉といえば、皆中途半端な感じだった。今年は例年以上に夏が暑かったこともあって、秋もその延長線上にあるような感じだったので、紅葉はダメなのかと思っていたのだったが、それはとんだ思い違いだった。

隣のつくばみらい市との境界に沿って、せせらぎの小路という散歩道が作られている。これは太陽光発電の電源を使って地下水をくみ上げ、それを1kmほどの浅い堀に流しているのだが、途中に小さな池なども作られ、川に沿った散歩道の両側にはいろいろな樹木が植えられている、大変魅力的な道なのである。しかし、現在水をくみ上げる装置は故障中で、せせらぎはおろか池の部分を除いては、水は一滴も無いような状況で、降り注ぐ落ち葉の洪水に埋まってしまっている状況だった。

今日はこの道を通ったのだが、紅葉の多いのにホッとし、嬉しくなった。まずは桜。桜の紅葉は美しいものなのだが、この季節まで葉をつけていてくれる木が殆ど無く、虫に食い荒らされた葉は風に痛めつけられ、吹き飛ばされて殆ど残っていない。しかしそれに耐えた樹木もあり、その葉が鮮やかな赤に染まっているのを見つけて、良くぞ残ってくれたと嬉しくなった。その少し先にはケヤキがあった。欅はこの辺では王様とも言うべき樹木で、市の保存樹となっている数百年の樹齢の並木も残っている。ケヤキは巨大な生命の躍動を四季にあわせて感じさせてくれる樹木である。この散歩道のケヤキは幼くて樹齢20年ほどだと思うが、丁度今紅葉の盛りで、やや褪せた黄色の葉を朝の光に輝かせていた。ケヤキに合わせるようにコナラやクヌギの紅葉も地味だけどそれなりの晩秋の風情を醸し出していた。それらの樹木の中でなんと言っても紅葉の王様といえば山もみじであろう。一段と赤が冴え渡り、周囲を圧倒しているものが何本かあった。思わず立ち止まってそれに見とれる。先日の関西行では、京都の高雄を通ったのだったが、チラッと道路わきの赤い色に目が触れただけで、降りての散策が叶わなかったので、その残念さの分をここにある山もみじで補うことにした。

せせらぎの小路にはこのほかに既に紅葉を終え、殆どの葉を落としたカツラやコブシの木も多い。カツラの落葉は、乾燥すると綿菓子に良く似たほのかなに香りを発するのだが、今はその香りもどこかに消えてしまったようだ。コブシは既に来春に向けての花のつぼみをしっかり膨らませている。紅葉の前につぼみを膨らませているのは、コブシばかりではなく、桜だって同じように逞(たくま)しいのだが、コブシのように目立ったものしか気づかない人が多い。植物の生態というのは、人間が考えているほど単純なものではないような気がする。

せせらぎの小路を過ぎ、鬼怒川近くの農家のエリアに行くと、沼地の荒地の上に朝霧がかかっていた。何ともいえない風情があって、霧の下が自然に還ろうとうごめいている荒地だなどとは全くわからない。その朧(おぼろ)な霧の境目にケヤキやクヌギの大木の黄葉が浮かんでいて、何とも幻想的な風景だった。ここへ来ると、早朝には時々そのような景色に会うことができるのだが、今日は久しぶりに格別の思いでそれらを味わった。都市化の波が押し寄せている守谷から一切の都会色を断ち切った景観がそこには残っており、あたかも見知らぬ地を旅しているような錯覚に陥る。嬉しくも不思議な時間であり場所である。

もと沼地の土手の周辺には昔からのいわゆる雑木林が広がっており、コナラやケヤキに混ざってイヌシデやクマシデなどの懐かしい木も見られる。これらの木の紅葉には今まであまり気づかなかったが、今日は彼らもまた淡い黄色の葉でこの季節のわが身を彩っているのだということを気づいたのだった。

再び住宅地などが造成されたエリアに戻ると、鮮やかな黄葉の銀杏の街路樹が目立ち、なぜか中途半端なトウカエデやプラタナスの紅葉、それに今はすっかり葉を落とした栃の木(=マロニエ)などが目立つ。如何にも人工的な感じがする景観だが、日中そこを行き交う車の為す悪さから、この街を守ってくれていると思えば、彼らには大いに頑張って貰わなければならない。その意味でこれらの街路樹は紅葉などとは本来無縁で人間どものために無言の奉仕をし続けているのかも知れない。

街中の樹木の紅葉に、今日は妙に気をとられて、家に戻りそのことを家内に話すと、今までここに来て紅葉に気づかなかったのは、私たちがこの季節にここに居なかったからなのでは、と一刀両断の台詞だった。確かに越して来てから3年間、この季節は旅に出ていて、一度も居なかった。何だそのようなことだったのかと、少しがっかりしたような気分になった。まだ、旅ボケのようなものが残っているのかも知れない。

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親しき知己と初対面

2007-12-01 06:05:26 | くるま旅くらしの話

変なタイトルである。親しき知己というからには、何度も会って親交を深めているというのが絶対条件であろう。ところがその知己とはまだ一度も会ったことが無かったというのであるから。

今回の旅で、京都在住のIさんご夫妻と初めてお会いした。Iさんとは大阪在住の親しき知人のTさんを介して、私の「くるま旅くらし心得帖」をお読み頂き、ご賛同を頂戴し、嬉しいメールが送られてきた。それ以来ブログもご愛読を賜わり、電話でのやり取りなどもあって、いつの間にかすっかり普通以上の知人関係となったのであった。

言うて見れば、その昔の文通の友達となるのかもしれない。今は文通などという言葉は死語となっているに違いないと思うけど、携帯電話もEメールも無かった50年ほど前は、見知らぬ人との交流はお互いに手紙を交換し合うというような手段しかなかった。往時の電話は、一般家庭の何処にもあるというものではなかったのである。

それから比べれば今の世の中は、想像もつかなかったほどのハイレベルのコミュニケーション手段が出現し、文字はもとより音声も画像も自在に交信が可能になろうとしている。今のところ画像に最大の課題があるようだが、技術的にはまもなく問題がクリアーされ、やがては動画中心のコミュニケーションが当たり前の世界となるのかもしれない。

しかし、コミュニケーションの質はといえば、人間の心が軽くなればなるほど低下し、薄っぺらな信義のもとに頼りない交流が中心となってゆくような気がする。コミュニケーションの手段が技術的にどんなに進歩しても、それを使う人間の心が貧しければ、本当のコミュニケーションの成立とは無関係のものとなる。ま、そう断言するには危険性があるが、今の世の飽くなき悪事のニュースを見ていると、そのような疑念を持たざるをえないのである。人とのコミュニケーションというのは、実際に生身の人間同士が会うことによって始めて本物の入り口に立つということになるのではないか。

文通の時代のコミュニケーションは、書くという作業が煩わしく、それが苦手の者は、なかなかそのような世界には目を向けなかったと思う。又書く以上は相手のことを考え、かなりの真面目さで文章を推敲した人が多かったと思う。今の携帯メールのような、よく言えば率直、悪しく言えば文章にもなりえない、考えなしのおしゃべり文語のような手抜きのコミュニケーションではなかった様に思う。時間がかかった分だけ、人は誠実さを保持できていたように思うのだ。勿論今の世だって、50年前と変わらぬ誠実な人間はたくさんいるに違いない。そうでなければ、この世は成り立たないのであるから。

又少し脱線したようだ。元に戻って、Iさんとの交流はその最新のコミュニケーション手段を用いてのものだったが、それを使う者同士は、お互い還暦を過ぎているのである。現代の青臭い(アホくさい、というべきか)少年少女とは違って、絵文字ばかりのような交信とは当然違っている。お互い尊敬できるからこそ交流が深まるのである。何度もメールや電話でやり取りをしているうちに、本当に知己というべき関係となってしまった。このような体験はこの年になるまでIさんが初めてである。

そのIさんに今回の旅で、初めてお会いした。というのも、やっぱりお会いしなければ本物の知己は成り立たないと考えていたからである。携帯メールで写真は拝見していたが、写真は本物ではないから、顔形しかわからない。Iさんには悪いけど写真のことは頓着せず、交信の中身を大切に考えていただけだった。会う前の心境といえば、これはもう間もなく古希を迎える(?)年代の者とは無関係に、少年の如き心弾む思いなのだった。少年と何が違うかといえば、お互いに相棒を連れているということだけであろうか。

京都の美山町(今は南丹市)の道の駅で会うことを約して、その夜は一緒にそこに泊まることにしたのだった。お互い旅車でつながっている。旅館などに泊まらなくても、車同士隣り合わせていれば、食事も歓談も自由自在というのが旅車のありがたさである。約束の時間に間に合って着くと、Iさんは既に先着されていた。たちまち感激の握手と挨拶を交わす。いやあ、百年の知己に会うのと全く変わらない感激の心境だった。初めてお会いするIさんご夫妻は、大へん身長の高い方で、奥さんも私より背の高い方だったので少し驚いた。お二人とも優しげなまなざしの方で、背の高かったことを覗けば思った通りの素晴らしいご夫婦だった。

その夜はIさんが用意された湯豆腐と、我が家で用意したおでんを囲み、つまみながら、遅くまで旅のあれこれを中心に話が弾んだ。気がつけば、私がやや強引に勧めた日本酒は相当量に達していて、Iさんは少しいつもと違うお酒に戸惑われたようだった。嬉しくなると、我を忘れて酒を勧め、自分も飲み過ごすという悪い癖が出たようだった。もはや完全に知己となった思いに満たされ、充実した時間だった。

旅の、特にくるま旅の醍醐味は、やっぱり人との出会いにあるように思う。旅の味わいは、人によって様々だと思うが、私の体験からは、旅からもたらされる一番の感動とその後の生きる励みは、人との出会いにある様に思う。くるま旅は、今まで全く異なった人生を歩んできた者同士が、考え方を共有しやすい機会に恵まれているように思う。特にリタイア後の人生を、くるま旅を通して心豊かに過ごしてゆこうと考える者同士にとっては、旅の楽しさ、大切さが腑に落ちるのである。

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