山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

喪中欠礼のはがき

2007-12-07 06:08:52 | 宵宵妄話

毎年この季節になると、今年の哀しい出来事を知らせるはがきが送られてくる。服喪中なので、新年の挨拶を控えさせて頂くという挨拶状である。その多くは父母を失い、兄弟を亡くしたというものであるが、中には連れあいや我が子を亡くしたというのもある。真に悲しい知らせである。

服喪というのは、幽界に旅立ったその人との別れの悲しみを癒すための時間をいうのだと思う。人それぞれにその悲しみの期間は異なり、癒しのための時間には差があることだろうが、悲しみの本質は変わらない。それがどのようなものであれ、二度と生きては会えないというのが、服喪の悲しみの本質であろう。

私は年賀状よりも服喪欠礼のはがきの挨拶状を大切にしたいと思っている。何故なら、人間にとって最も大切なのは、悲しみを知るということではないかと思っているからだ。悲しみの対極に喜びがあるが、その重さは悲しみの比ではない。喜びというのは一時的な心の通過現象に過ぎず、二度と同じ感激や感動を味わうのは不可能だ。しかし悲しみは重く、何年経っても消え去ることはない。時には一層その重さや深さを強くしてゆくこともあるのではないか。

世の中には悲しみを知ることなどには無頓着で、喜びや快楽の追求にばかり生きる価値を求めている人もいるようだけど、そのような人ばかりが増え続けたら、この世は末世となるに違いない。存命の間中、悲しみ無しに生きられることなどあるはずもないのに、その悲しみを軽くあしらって生きてゆこうとするのは無上の欲張りであり、思い上がりのような気がするのである。

今年は例年以上に服喪欠礼のはがきが多かった。毎年350通ほどの年賀状を受け取っているが、今年は服喪のはがきが既に20数枚も届いており、猛暑の夏などのこともあって、健康を害された方も多かったのかもしれない。その中に旅で知り合った方から、奥様を亡くされたという1通があった。何年か前、昨年北海道の旅でお会いし、再会を楽しみにしていた方からだった。

定年後の人生を夫婦で旅をしようと考えられる方は多いが、くるま旅を指向し、実行されている方はそれほど多くない。どちらか一方の事情や都合で、一人旅を余儀なくされている人が結構多いのである。だから夫婦二人旅のできている人たちは、自分たちも含めて、ある意味でラッキーなのだと思っている。それなのに、これからという時、大切なパートナーに逝かれてしまったご主人の悲しみと落胆は如何ばかりかと思う。心から亡き奥様のご冥福と残されたご主人の悲しみの心の癒されるのを祈念している。

それにしても人が生きるということには、油断も隙もないように思う。日々是新とか、一期一会とか、生きる瞬間、瞬間を大切にしたいとする考えがあるが、我々の日常は常に油断と隙の連続である。年末になると送られてくる悲しみの知らせに思いを馳せながら、せめて自分たちは、年末の悲しみの書状を倅どもに書かせるのは遅らせるように努めようと思うこの頃なのである。
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