色々な言葉との出会いが、私の心を鍛えてくれました。学校の先生を辞めてなお、一人の市井の教育者として生きている私の、大きな支えとなっている言葉があります。
それは新渡戸稲造の次の言葉です。
「日本の教育を進めるには、必ずしも大臣になり、あるいは文部の役人となる必要はない。また県の教育課長、視学官になる必要もない。真に教育を理想とするなら、学校の教師になる必要もないくらいである。(中略)。むかしの立派なる教育家貝原益軒、中江藤樹、熊沢蕃山等は、みな塾を開いたことはあるが、今日のごとく何百人の生徒を集めて演説講義したものでない。藤樹のごときは村を散歩することが教育であった。人そのものが教育である。人が真に教育家なら笑っていても教育になる。寝ているのも教育になる。一挙手、一投足、すべて社会教育とならぬものはない。われわれの目的および理想が教育であるなら、全身その理想に充ち満ち、することなすことがことごとく教育でなくてはならぬ。」 新渡戸稲造『自警録』より
その域には一生かかっても達することはできないだろうなぁとは思いつつも、そうした所まで迫りたいという真剣な思いを持って、今日まで一歩一歩、歩み続けてきました。
子どもたちとの教育の場においても、企業研修の場においても、親御さんとの学びの場においても、とにかく自分をさらけ出し、フルパワーでぶつかっていくだけです。
日々、痛感しているのは、自分の学んだ深さでしか、他人様には伝えることができないという、自明過ぎることだけです。
「人そのものが教育である」という、シンプルな新渡戸稲造の言葉は、実に深く重い言葉です。
学校の受験でしか通用しない知識を教えることが「教育」の名で呼ばれ、薄っぺらな道徳とやらが「教育」の名で呼ばれる時代には、この新渡戸稲造の言葉など、一顧だにされようはずがありません。
だからこそ、私は、時代に抗う愚かな私であり続けます。