Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

人生の成果

2011年11月21日 | Weblog
 スティービー・クレオ・ダービックの著書『新 自分を磨く方法』に次のようなエピソードが出てきます。

南の島にバカンスでやってきたビジネスマンがある朝浜辺を散歩していた。
そのうち、地元の男が一人、ヤシの木陰で寝そべっているのが目に入った。
ビジネスマンはその男に近づき、話しかけてみた。
「君は仕事がないのかね?」
男は目を開き、にっこり笑うと言った。
「朝早く漁に出て、もうひと仕事終えたんですよ」
ビジネスマンは驚いた。
「えっ!まだ朝の10時だよ。これで仕事は終わりかい?」
「2、3時間漁をすれば一家5人が食っていけるくらいは魚がとれるんでね。
あとは、こうしてのんびりしてるんです」
「でも、1日働けば、それだけお金が稼げるだろうに」
男はビジネスマンに尋ねた。
「それじゃあなたは毎日、どのくらい働いてるんですか?」
「朝の8時にはオフィスにいて、それから夜の11時くらいまで仕事だね。
週末も2日のうち1日は働いているよ」
「なぜそんなに働くんです?」
ビジネスマンは内心、いかにも南国人らしいこの怠け者の男に、
勤勉ということの価値を教えてやろうと考え、熱のこもった口調でこう言った。
「働けば、それだけ評価が上がって、給料も上がる。私は20年間懸命に働いてきたから地位も収入も十分になった。だからこうやって、南の島に来てのんびりできるわけさ。」
すると、男はこう言った。
「南の島でのんびり、なら私は生まれた時からやってますよ。20年あくせく働かないと実現しないなんて、あなたがたはお気の毒なことですね」

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 この話は「人生あくせく働くだけが全てじゃない」ということや「幸福の尺度はお金では計れない」といったことの喩えとして使われることが多いようですが、私はむしろ、「人生の終着地点を同じような形で迎えたとしても、それは決して人生の意味が同じであったということにはならない。なぜなら、人生の意味は、決してその終着地点にはなく、過ごしてきた日々の過程にあるからだ。」ということを強く思います。
 例えば、今日で私の人生が終わるとすれば、私の人生の価値というものは、昨日までの人生の日々を如何に生きたかによって決められるしかないものです。まだ生きていない明日以降の予定で、その人の人生が論じられることは決してありません。ということは、1日1日を、如何に真剣に、そして、丁寧に、人々と共に生きたかということが、その人の「人生の成果」になるのだと思います。だから、人生の終わりの日々が「南の島でゆったりする」というものであったとしても、その人の人生の価値はその瞬間にあるのではなく、これまでの日々の積み重ねの中にこそあるはずです。もちろん、「南の島でゆったりしている時間」もその人の人生の時間の一部であるわけですから、それが、今後の人生にどう活かされていくのかで、その価値もまた決まっていくのだと思います。
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