来る10月22日は衆院選の投開票日です。報道各機関が行っている情勢分析では、自民党の優位が伝えられています。また、自民優位の要因としては、野党が分裂した結果、自民党政治に不満を持つ人たちの「受け皿」になりえていないことが挙げられています。政権の支持と不支持が拮抗している場合、不支持がいくつかに分かれてしまえば、支持派が数の優位を得るのは当たり前です。今日の朝日新聞朝刊2面では、「野党分裂 自民に利」の見出しの下、「政権批判票の受け皿が分散している格好で、報道各社の選挙情勢調査で自民党が優位に立つ状況を支える要因といえそうだ」と書いてありました。確かにその通りなのでしょうが、それはさておき、私は「受け皿」の表現には違和感を覚えます。「受け皿」にはこぼれ落ちたものを受け止めるといった印象があります。例えば、コップ酒の下に敷かれた小皿であふれたお酒を受けるような。そこで違和感の正体について考えてみたのですが、受け皿で受けるのは本来あるべき場所からこぼれたもの、そんなニュアンスがあるようで、はたして政権批判票はそんなはみ出した存在なのかと、引っ掛かります。それから、「受け皿」から感じられるものは、ひとりひとりは真剣に考えて、思いを込めて投票するにも関わらず、それらを十把ひとからげに扱っている態度です。「そんなの言葉のたとえだよ」、「細かいことを気にしないで言わんとするものを見ろよ」などと言われればそれまでですが、細かいことが気になるのは右京さんと私だけでしょうか。
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ご無沙汰しております。受け皿のお話楽しく拝読。今後共ご健筆を祈ります。