花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

無鉄砲

2016-05-30 20:05:00 | Weblog
 「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。」これは言うまでもなく、夏目漱石「坊ちゃん」の冒頭です。主人公は本当に無鉄砲で、数学教師として赴任した四国の中学でいろいろな騒動を起こします。その挙句、「赤シャツ」、それから「赤シャツ」の腰巾着である「野だいこ」を天誅と称して殴打し、辞表を書いて東京へ戻ります。「赤シャツ」、「野だいこ」を殴ったのは、元々虫が好かなかったということはありますが、同僚の「うらなり君」の許嫁を「赤シャツ」が奪ったことをけしからんと思ったのが直接的な理由です。お話の中では、「坊ちゃん」の小気味よい無鉄砲さが爽快感を醸し出し、殴って辞職するのも当然な流れのように感じますが、現実問題としては「それって職を辞してまでやることかぁ?」と思います。もし、自分の周りに「同僚の結婚を約束した女性にちょっかいを出すとは何事か」と言って殴り、会社を辞める人間がいたとしたら、その馬鹿さ加減に呆れてしまうでしょう。しかしながら、実際にはそんな人がいないからこそ、虚構の世界における無鉄砲さに胸のすく思いやカタルシスを感じるのだろうと思います。

石川啄木の現代性

2016-05-21 08:49:07 | Weblog
 昨日の朝日新聞朝刊に「啄木 うそと矛盾に現代性」と題するドナルド・キーンさんのインタビュー記事が載っていました。「啄木は、私たち現代人と似ているのです」と言うキーンさんは、啄木の現代性についてふたつの矛盾を挙げています。
 ひとつめは相異なる気持ちの矛盾です。キーンさんは啄木の「ローマ字日記」を引用しながら次のように言っています。「『なぜこの日記をローマ字で書くことにしたか? なぜだ? 予は妻を愛してる。愛してるからこそこの日記を読ませたくないのだ』。啄木はローマ字でそう記し、買春を繰り返す日々を赤裸々につづっていく。『妻を愛してる』と言いながら売春宿に通い、それを克明に日記に書きながら『読ませたくない』とローマ字を使う。この矛盾こそが、啄木の現代性なのだ」。
 「ローマ字日記」からキーンさんはふたつめの矛盾を読み取っています。「日記にはとてもいい紙が使われている。字もとてもきれい。心のどこかに、これはいつか読まれるべきものだという気持ちがあったのではないでしょうか」。「読まれたくない、読まれるかもしれない。自分に対するうそがあり、矛盾がある」。この、うそ、矛盾は「現代人の特徴の一つ」だそうです。
 私はさらにもうひとつの矛盾があるのではないかと思います。「ローマ字日記」を書いた頃、啄木は20歳台前半でした。青年よ大志を抱けではありませんが、啄木は自分が何者であるかを示さんとし、特に文学において何事かを成さんと思っていたことでしょう。しかし、己の思いとは裏腹に日々の生活は赤貧洗うが如しでした。函館にいる妻子に仕送りをすることも東京へ呼び寄せることもままならず、電車賃がないため会社を休み、友人から借りた時計を質に入れ、その時計を返してくれと言われ自殺を考える有様です。志と現実の矛盾、これが青年啄木のこころを切り裂いたことは想像に難くありません。啄木の作品に現代性を与えるのみならず、時代を超えるものにしたのは、みっつめの矛盾であるやり場のない葛藤も力を貸したのではないかと思います。

五月晴れに合うお酒

2016-05-12 22:01:16 | Weblog
 今朝は、月曜日から断続的に雨を降らせていた雲が抜けて、通勤の足を止め深呼吸をしたくなるような見事な青空が広がっていました。こんな日にタラの芽や筍の天ぷらで日本酒が飲めるといいなぁと思いました。飲むとすれば、佐賀県は福千代酒造の鍋島でしょうか。微発泡チックな舌触り、のど越し、そして少し酸味のある飲み口は天ぷらとの相性がバッチリです。鍋島は冷やすと最初のうちは華やぎがあっていいものの、杯を重ねるうちにその華やぎばかりが勝ってしまうので、この季節なら出来れば常温、あるいはちょい冷やで飲みたいものです。常温の場合、お酒の味わいは瞬発力よりも持続力が力を発揮します。余韻を味わいつつ、くっ、くっ、くっと、飲み続けられそうです。飲み過ぎそうで危険な気もします。そんなことを考えながら会社に向かいました。