花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

寝る間もないほど忙しい

2012-03-30 02:26:14 | Weblog
 「寝る間もないほど忙しい」と言うことがありますが、これは、夜寝る時間もないくらい忙しい、つまり深夜まで働いているという風にこれまで捉えていました。ところが、年度末を迎えて自分が電車で帰れないくらい忙しくなってみると、この解釈はちょっと違うのではないかと思えてきました。睡眠時間が十分にとれない日が続けば、昼間ぼんやりしてくることがあるかと思いますが、本当に忙しいとどんなに睡眠時間が短くても眠くなりません。あるいは居眠りが許されないほど、次から次へと仕事がやってくるのです。「夜遅くまで仕事がある」と捉えるより、「どんなに睡眠不足でも、昼間に睡魔がつけ込めないほど仕事がたくさんある」と取る方が今の私には感覚的に合っています。丈夫な身体に産んでくれた親に感謝しつつ、今日もお疲れさまビールでプハっとしてから、すぐにやってくる朝まで眠ることにします。(「飲んでる暇があれば、さっさと寝ろよ」とおっしゃる方がいらっしゃるかもしれません。確かにそうだと思います。しかし、どんなに疲れていても、家に着いてすぐには寝れないものです。お酒が飲める身体に産んでくれた親に感謝しています。)

空振りの後の言い訳

2012-03-27 01:18:43 | Book
 3月の週末はとかく雨が多かったのですが、その雨の合い間をついて古書を求めに神保町へ出かけることが2回ありました。1回目は3月最初の土曜日でした。この日、何とはなしに空海の「三教指帰」が読みたくなりました。前に岩波文庫から出ていて、今は絶版となっているようなので、古書店なら出ているだろうかと思い、神保町を探して歩きました。隅から隅まで探した訳ではありませんが、2時間半ほど探してもついに見つかりませんでした。夕方、家族と待ち合わせをしていたので時間切れとなってしまい、結局古書は諦めて、三省堂へ行き角川ソフィア文庫から出ている新刊を買いました。
 次に神保町へ行ったのは春の甲子園が始まって最初の土曜日でした。最近、子どもから歴史に関する質問を受けることが何回かあり、ボロを出さないために少し日本史の復習でもしなければと、網野善彦著「日本社会の歴史」(岩波新書)を読んでみる気になりました。これは上中下の3巻本で、新刊で買うと「本の買い過ぎ」と批判を受けるのは必至です。そこで、古本で買ってはどうだろうと思いました。例えば「3冊1000円でお買い得だったんだよ」とでも言えれば、批判を和らげられるかもしれません。そんな訳で神保町へ行ってみることにしました。行く前は、手頃な値段で買えなかったら図書館で借りるつもりでした。神保町に着いて古書店の並ぶ通りを2往復しましたが、今度も目指す本が見つかりませんでした。増刷を繰り返している本でそれなりの部数は出ていると思われるにも関わらず、古本として出回っていないのはおかしいなと思いましたが、そこでふと頭をよぎったのは、ひょっとしてこの本は読んだ人が手放したくなくなるようないい本なのかもしれないということでした。そのうち、どうして手元に置いておかなかったのかと後悔することになったらどうしようと不安さえ覚え、岩波ブックセンターでひとまず上巻だけ買いました。ヱビスビールのロング缶のほぼ2.5本分の値段でした。ヱビスビール2.5本はすぐになくなってしまいますが、「日本社会の歴史」は通勤電車の友となり、間接的に子どもの知識を深めることにもなるし、「3冊1000円ではないけれど、お得な買い物だった」と、本当はただ心が弱いだけなのに、ついつい本を買ってしまった自分を正当化しています。

「あの時は」の先にあるもの

2012-03-13 00:23:31 | Weblog
 3月11日(日)、東京ドームではジャニーズ事務所による震災復興のための募金イベントである“Marching J”が開かれました。この日の朝、嵐ファンの子どもから「東京ドームへ募金に行こう」と提案があり、家族揃って行ってみることにしました。ドーム周辺は若い女性たちで大変なことになっていましたが、さっさと募金をして、さっさと帰って、挙句子どもの記憶に何も残らないよりは、多少並ぶ方がいいだろうと思い、列に加わりました。運の良いことに、2時46分の黙祷にちょうど間に合うようにドームへ入ることが出来、マッチの呼び掛けで黙祷を捧げました。結局、嵐は現われませんでしたが、心ばかりの募金をして、子どもも今日が特別な日であることを感じ取ってくれたようでした。
 さて、募金の列に並んでいる時、震災からの1年をいろいろと考えました。まだまだ復興は道半ばといった感じです。福島においては、原発問題が片付かないことには、復興に着手することすら出来ず、いまだ避難されている多くの方々の悩みは深刻です。そのような中でも、一人一人が前向きにならなければ、何も進んではいきません。直接、力を貸すことは出来ずとも、何か少しでも復興につながることがあれば、労を惜しまないよう心掛けたいと思っています。そして、いつか必ず、この試練を乗り越えて復興を成し遂げなければなりません。思うに、2011年3月11日を経験した者は、これから先の人たち、例えば子供たち、あるいは孫たちの世代に対して、「震災から立ち直り、新しい日本を築いた」ことを示す責任があると思います。未来の人たちが、いつか歴史を振り返った時、「苦難に負けずに、前を向いて進んでいった人たちがいたのだ」と感じることがあれば、それは彼らにとって大きな勇気となるし、私たちと彼らの間が時間を超えてつながることを意味するからです。震災直後の一時期は、人と会えば、「3月11日は何をしていたか」と話すことが多かったように思います。でも、3月11日を単なる悲しい思い出としてはなりません。私たちの次の世代から、「あなたは3月11日以後、何をしてきましたか?」と問われた時、口ごもらずに済むよう、しっかりと責任ある行動をとっていきたいと、思いを新たにしました。

(余談1)東京ドームでふたりのタレントによる掛け合いが始まった時、「キンキキッズだ」と言ったら、家族に「タッキー&翼」と訂正されました。
(余談2)募金の列に並び始めてからドームを出るまでに、野球で言えばダブルヘッダー分くらいの時間が掛かりました。ジャニーズの集客力をまざまざと見せつけられました。

驕りの遠近法

2012-03-10 11:32:48 | Weblog
 今、私が関わっているあるプロジェクトでは、全体プランの青写真を描き終わり、発注先を選定する段階に入っています。提案内容や見積もりの評価を経て、最終的に2社が残っています。1社は国内の有名巨大企業、もう1社は中国の新興企業です。どちらに発注するかを選択しなければならないのですが、2社を比較しながらプロジェクト・メンバーで議論をしていると、「国内企業は実績もあり安心できる。中国企業は国内企業と遜色のない提案をしているけれど、果たして提案通りに出来るのだろうか」といった意見が誰からともなく再三出てきます。確かに中国と言えば、「安かろう悪かろう」のイメージがあります。でも、みんなとの議論を重ねるうちに、「中国の技術力は我々が思っている以上に高いのかもしれない」とも思えてきました。近くにあるものが大きく見え、遠くにあるものが小さく見えることを遠近法と呼ぶのは周知ですが、人間の心の中にも遠近法的なものの見方があるような気がするからです。自分が近いと感じているものは大きく見え、離れているものは小さく見える、といったことがあるのではないでしょうか。有名なナショナル企業に比べて遠い存在である新興企業、しかも日本ではなく中国系の企業であれば、知らず知らずに実際の力よりも過小評価してしまっているのかもしれません。また、「日本は他の国よりも先進的だ」と、奢った考えがあれば、遠近法にさらにバイアスが加わります。しかし、遠近法を取り払って同じ場所に並べて置いてみると、存外にがっしりとして大きな姿が現れてこないとも限りません。思えば、「安かろう悪かろう」はかつて日本製品に与えられたイメージでした。同じ頃、「日本人にアメリカ車のような高度な製品は作れない」と思っていた三大メジャーが煮え湯を飲まされるに羽目になったことは、デイヴィッド・ハルバースタムの「覇者の驕り」に詳しく書かれています。そういったことを踏まえると、先入観にとらわれずに2社の評価をしなければならないことはもちろんですが、それ以外の場面でも気がつかないうちに悪しき遠近法で物事を見ていないか、自分のこころをチェックしていく必要性を感じています。