先日、近くにある植物園へ行きました。日本晴れの天気で、風も心地よく、生き生きとした植物に囲まれて、すっかり寛ぐことが出来ました。子供は、池の鯉に餌をあげたり、36色の色鉛筆で写生をしたりして、ママは村上春樹さんの「1Q84 Book3」を読んでいました。写生と「1Q84」にひと区切りがついた頃、レジャーシートを畳んで園内の散策に移りました。途中に「ハンカチの木」という看板が立っていて、何だろうと思い看板の矢印の指す方向へ歩くと、丈の高いハンカチの木に行き着きました。最初、どこをどう見てハンカチの木と呼ぶのか分かりませんでしたが、上の方を良く見ると、白い布きれのようなものがひらひらしていました。「あぁ、確かにこれはハンカチにみえるな」と思いながら、説明板を読んでみると、花びらに見えるハンカチ状のものは実は葉っぱで、2枚のハンカチの間から見えた黄色い木の実のようなものが花だそうです。下記のURLにハンカチの木の画像がありますので、ハンカチの木をご存じない方はご覧になっては如何でしょうか。 青い空と太陽の光が透けて見えそうな若々しい緑の葉っぱ、そしてその中にちらほら見られる白いハンカチは、爽やかな陽気と相まって、とてもすがすがしく感じられましたが、ずっと見続けていると、白いハンカチの風に揺れるさまは、何やら別れのハンカチをも思わせ 、寂しげにも見え出し、この相反するおもむきのどちらに加勢すべきか分からなくなりました。子供はハンカチの木よりも、広い園内を歩き回る方が楽しいらしく、ハンカチの木の下を離れ、広葉樹の林から針葉樹の林を巡って、その後水芭蕉を見たりしながらした後、家路に就きまし た。家に帰ってから、何とはなしに樋口一葉の「にごりえ」を読んでいると、次のような箇所に目が留まりました。「お力は溢れ出る涙の止め難ければ紅ひの手巾(はんけち)かほに押当て其端を喰ひしめつゝ物いはぬ事小半時、坐には物の音もなく酒の香したひて寄りくる蚊のうなり声のみ高く聞えぬ」 これは、落魄の身を嘆きながら、酌婦のお力が客の前で涙を流す場面です。思うに、すれた風の装いの裏に憂き身を隠した女の夜の涙にふさわしいのは、白いハンカチではなく、やはり「紅ひの手巾」の方でしょう。赤は情念を感じさせる色です。空の青、木々の葉っぱの緑、ハンカチの木の白、「にごりえ」で女が涙をぬぐうハンカチの赤、この日は子供のスケッチブックの色使いに負けず劣らず、パパの思いもいろいろな色に至りました。
※ハンカチの木の画像はこちら ↓
http://www.bg.s.u-tokyo.ac.jp/koishikawa/+Hankachi-no-ki/davidia.html
さて、コアラの赤ちゃんがお母さんのウンチを食べることを知って、ふと思い出したことがあります。大学に入ったばかりの頃、マックス・ヴェーバーの「職業としての学問」・「職業としての政治」を読んだ時のことです。大学生になったのだから、アカデミックな書物でも読んでみようかと思い、岩波文庫の2冊を買い求めて読んでみました。ところが、読んでもちっともおもしろくありませんでした。有名な学者の有名な本にも関わらず、言ってることがつまんないと感じました。しばらくして、ある友人に安藤英治著 「ウェーバーと近代」(創文社刊)を薦められて読んでみました。すると、当たり前っぽいことしか書いていないと思っていた「職業としての学問」と「職業としての政治」に対する認識が、全く変わってしまいました。当時のドイツの社会状況の中で、なぜヴェーバーが2冊の本に書いてあるようなことを言ったのかが、安藤先生の著書を通じてよく分かりました。また、時代を超えて私たちにも当てはまる意味も見えてきました。
木に竹を接いだような話になりそうなので、コアラの赤ちゃんと掛けて「ウェーバーと近代」と解いた、そのココロを説明してみます。自分が意味を読み取れなかった本も、もっと頭の良い人が咀嚼して、消化しやすくしてくれれば、何となく意味が見えてくる、つまり、私にとって「職業としての学問」・「職業としての政治」はユーカリの葉っぱであり、安藤英治氏はコアラのお母さんだった訳です。もちろん、「ウェーバーと近代」をウンチ扱いするつもりはこれっぽっちもなく、栄養満点の食事だと思っています。そうなると、私自身はコアラの赤ちゃんということになります。これからは知的なコアラの赤ちゃんと称しましょうか。
「花いかだ 次の春まで 流れゆけ」
「散りてなお 目に鮮やかに 花いかだ」