花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

ハンカチの日

2010-04-27 23:29:29 | 季節/自然

 先日、近くにある植物園へ行きました。日本晴れの天気で、風も心地よく、生き生きとした植物に囲まれて、すっかり寛ぐことが出来ました。子供は、池の鯉に餌をあげたり、36色の色鉛筆で写生をしたりして、ママは村上春樹さんの「1Q84 Book3」を読んでいました。写生と「1Q84」にひと区切りがついた頃、レジャーシートを畳んで園内の散策に移りました。途中に「ハンカチの木」という看板が立っていて、何だろうと思い看板の矢印の指す方向へ歩くと、丈の高いハンカチの木に行き着きました。最初、どこをどう見てハンカチの木と呼ぶのか分かりませんでしたが、上の方を良く見ると、白い布きれのようなものがひらひらしていました。「あぁ、確かにこれはハンカチにみえるな」と思いながら、説明板を読んでみると、花びらに見えるハンカチ状のものは実は葉っぱで、2枚のハンカチの間から見えた黄色い木の実のようなものが花だそうです。下記のURLにハンカチの木の画像がありますので、ハンカチの木をご存じない方はご覧になっては如何でしょうか。 青い空と太陽の光が透けて見えそうな若々しい緑の葉っぱ、そしてその中にちらほら見られる白いハンカチは、爽やかな陽気と相まって、とてもすがすがしく感じられましたが、ずっと見続けていると、白いハンカチの風に揺れるさまは、何やら別れのハンカチをも思わせ 、寂しげにも見え出し、この相反するおもむきのどちらに加勢すべきか分からなくなりました。子供はハンカチの木よりも、広い園内を歩き回る方が楽しいらしく、ハンカチの木の下を離れ、広葉樹の林から針葉樹の林を巡って、その後水芭蕉を見たりしながらした後、家路に就きまし た。家に帰ってから、何とはなしに樋口一葉の「にごりえ」を読んでいると、次のような箇所に目が留まりました。「お力は溢れ出る涙の止め難ければ紅ひの手巾(はんけち)かほに押当て其端を喰ひしめつゝ物いはぬ事小半時、坐には物の音もなく酒の香したひて寄りくる蚊のうなり声のみ高く聞えぬ」 これは、落魄の身を嘆きながら、酌婦のお力が客の前で涙を流す場面です。思うに、すれた風の装いの裏に憂き身を隠した女の夜の涙にふさわしいのは、白いハンカチではなく、やはり「紅ひの手巾」の方でしょう。赤は情念を感じさせる色です。空の青、木々の葉っぱの緑、ハンカチの木の白、「にごりえ」で女が涙をぬぐうハンカチの赤、この日は子供のスケッチブックの色使いに負けず劣らず、パパの思いもいろいろな色に至りました。

※ハンカチの木の画像はこちら ↓

http://www.bg.s.u-tokyo.ac.jp/koishikawa/+Hankachi-no-ki/davidia.html


私はコアラの赤ちゃんです

2010-04-23 22:26:49 | Weblog
 土曜日の朝日新聞には「be」という別刷りが折込まれていますが、何週間か前のbeに興味深い記事がありました。カンガルーの赤ちゃんのウンチを、お母さんカンガルーが食べる話です。それまでカンガルーの赤ちゃんのウンチなんて想像したこともありませんでしたが、お母さんのおなかの袋の中で、ウンチやおしっこをするとなれば、ばっちくてそんな中で育ちたくはありませんし、不衛生で病気になっちゃったら大変です。実は、カンガルーのお母さんはベロで赤ちゃんに刺激を与えて排泄を促し、出てきたウンチやおしっこを食べてしまうそうです。同じ記事にはコアラの赤ちゃんのことも書いてありました。カンガルーとは逆に、お母さんのウンチを赤ちゃんコアラが食べるようです。お母さんコアラがおなかの中でユーカリの葉っぱを消化し、赤ちゃんにとって食べやすくするのが理由のようです。そう言えば、昔、ゴリラが自分のウンチを食べるのを見たことがあります。その時は、頭がおかしくなったゴリラなのかと思いましたが、その後、何かの本に、ゴリラが食べる固い葉っぱは、一回では消化吸収出来ないので、ウンチになってこなれたものをまた食べて、栄養を摂りやすくすると書いてありました。コアラの赤ちゃんもゴリラと同じことをしているのでしょう。
 さて、コアラの赤ちゃんがお母さんのウンチを食べることを知って、ふと思い出したことがあります。大学に入ったばかりの頃、マックス・ヴェーバーの「職業としての学問」・「職業としての政治」を読んだ時のことです。大学生になったのだから、アカデミックな書物でも読んでみようかと思い、岩波文庫の2冊を買い求めて読んでみました。ところが、読んでもちっともおもしろくありませんでした。有名な学者の有名な本にも関わらず、言ってることがつまんないと感じました。しばらくして、ある友人に安藤英治著 「ウェーバーと近代」(創文社刊)を薦められて読んでみました。すると、当たり前っぽいことしか書いていないと思っていた「職業としての学問」と「職業としての政治」に対する認識が、全く変わってしまいました。当時のドイツの社会状況の中で、なぜヴェーバーが2冊の本に書いてあるようなことを言ったのかが、安藤先生の著書を通じてよく分かりました。また、時代を超えて私たちにも当てはまる意味も見えてきました。
 木に竹を接いだような話になりそうなので、コアラの赤ちゃんと掛けて「ウェーバーと近代」と解いた、そのココロを説明してみます。自分が意味を読み取れなかった本も、もっと頭の良い人が咀嚼して、消化しやすくしてくれれば、何となく意味が見えてくる、つまり、私にとって「職業としての学問」・「職業としての政治」はユーカリの葉っぱであり、安藤英治氏はコアラのお母さんだった訳です。もちろん、「ウェーバーと近代」をウンチ扱いするつもりはこれっぽっちもなく、栄養満点の食事だと思っています。そうなると、私自身はコアラの赤ちゃんということになります。これからは知的なコアラの赤ちゃんと称しましょうか。

花いかだ

2010-04-08 23:56:24 | 季節/自然
 昨日の朝日新聞夕刊の1面に、桜の花びらに覆われた井の頭公園の池の画像が載っていました。見出しに、「散るもよし 花いかだ」とありました。私は通勤途中の電車から神田川にびっしりと浮かぶ桜の花びらを見て、川の中のもうひとつの川のようになっているピンクの流れに、「祭りの後」的なちょっと名残惜しいものを感じていましたが、それを「花いかだ(筏)」と呼ぶことは知りませんでした。「桜の花びらが水面いっぱいに浮いている」と言うのと、「花いかだ」と名前を与えられたその光景とでは、こころの受け止め方も少し違うような気がします。来年の春、桜の花びらが漂いつつ流れていく姿を再び目にしたら、「花いかだは綺麗だな」と思うでしょうが、「花いかだ」と文字数が増えた以上に、「綺麗だな」という思いは、親近感というかリアリティというか、そういったものが増して、より自分に近いものとして感じられることでしょう。昨日は、大変良い言葉を覚えることが出来ました。

 「花いかだ 次の春まで 流れゆけ」
 「散りてなお 目に鮮やかに 花いかだ」

AVATAR

2010-04-03 02:58:00 | Weblog
 映画・アバターの人気が盛り上がっていた頃に新聞で読んだのですが、アバター鬱なるものがあるそうです。アバターを観た後、映画の世界とは一転、味気のない現実が嫌になり、鬱状態に陥るアメリカ人がいると書いてありました。アバターを観るのは、何だか竜宮城へでも行くようなものなのかと思わせる記事でした。この記事に興味を覚えて劇場へ足を運び、アバターを観た感想では、「なかなか面白い娯楽映画ではあるけれど、まさか鬱にはならないだろう」、でした。確かに、映像の臨場感は素晴らしかったですが、それだけで映画の世界に没入してしまう訳ではないと思います。つまり、我を忘れるくらい虚構に同化させるには、トータルとしての出来栄えが足らなかったのではないか、ということです。先ず、アバターは火の鳥の黎明編に似ています。叩きつぶそうと思っているグループにスパイとして潜入しているうちに、そのグループの女性と恋愛関係になる点や、神聖なる超自然的なものが人間たちを左右する点(アバターではエイワや魂の木、火の鳥ではもちろん火の鳥)に、映像に目を見張らせられながらも、「こんな筋は他にもあったなぁ」と思いつつ映画を観ることになりました。それから、地球人がパンドラの人たちを武力で圧倒しようとしているところは、アメリカのイラク介入そのままです。また 、傷ついた身体の治療費を得るためにパンドラへやって来る主人公は、堤未果氏の「ルポ 貧困大国アメリカ」(岩波新書)に出てくる大学の学資を稼ぐために軍隊に入る若者の相似形です。話題の3D映像にしても、3D効果が現われやすい画面にしなければならないので、アップもしくはロングの画面のどっちかの繰り返しで、見続けているうちに単調さを感じてしまいました。最新技術を生かすことが、逆に自らを縛っている感がありました。そんなこんなで、夢物語の虜になるということもなく、映像の迫力には驚きはしたものの、割と醒めて観ていたので、映画館を出た時、巷の風景が色あせて見えることはありませんでした。(レイトショーで観たので、有楽町のネオンがキラキラしてたくらいです)