花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

生まれ変わるなら

2008-04-30 20:41:45 | Weblog
 先日、家飯(うちめし)が無かったので会社の帰りに近所のインド料理店でカレーを食べていました。焼きたてのナンの熱さでちぎる指がジリジリとなりながら、2種類のカレー、この時はマトンカレーとチキンカレーで食べていると、大学生風の二人連れの女性客が入ってきました。小さいお店だったので二人の会話が聞くともなしに耳に入ってきました。「キムタクは背が低いので柴咲コウとは競演しても、長澤まさみとは競演出来ない」みたいな話に、芸能界に疎い私は柴咲コウは背が高くなく長澤まさみは背が高いんだぁくらいに思いながら、チキン、チキン、マトンと来たので次はビールと生ビールに手を延ばしていると、今度は「長澤まさみに生まれ変わりたい」の声。そう言えばうちのママも「長澤まさみは美人だ」と言ってたので、女性に人気のあるタレントなのでしょうか。でも、カレーを食べているおじさんには長澤まさみさんがどうかよりも、「長澤まさみに生まれ変わりたい」の「生まれ変わりたい」の言葉に注意がいきました。誰かに憧れて「何とかになりたい」と思うのは普通だと思います。例えば、野球少年がゴジラ松井のようになりたいと思うのはごくごく普通ことで、私たちの世代ならみんな長嶋の「ように」なりたいと思ったものです。但し、長嶋「に」なりたいとは思っていなかったような気がします。この「ように」と「に」の差は、ひょっとすると大きな差かもしれません。とは言ってもおそらく、長澤まさみさんのルックスが好きだくらいの意味で言っているのでしょう。変なことを考えながらカレーを食べたのでインドの神様の不興を買ったのでしょうか、それからコンビニ弁当のカレー、立川でカレー、社員食堂でカレーと、どういう訳か数日の間で立て続けにカレーを食べることになってしまいました。

国民国家は役目を終えたか?

2008-04-28 22:11:30 | Weblog
 今日の朝日新聞朝刊に、ドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベック氏のインタビュー記事が掲載されていました。グローバル化した時代におい て、私たちがリスクにさらされているありさまを論じた「危険社会」(法政大学出版局刊)の著書があるベック氏ですが、氏はこのインタビューでグローバル化された世界と民主主義について述べています。グローバル化した世の中では人々にとって大きな問題は、国境を越えて拡がっています。例えば、地球温暖化などの環境問題はその最たるものでしょう。国境を越えた問題に対して、いまだ政治が国ごとの対応を迫 られている状況に、ベック氏はこう言っています。「そうした問題は各国レベルで解決しようとしても無理。政党にも政治家にもグローバルな取り組みが求められる。より世界市民的な(コスモポリタン)な考え方が必要だ」 また、国家単位の民主主義には限界があることも指摘しています。「今のイラク市民がいい例だが、グローバル化した世界では、ある民主主義国が民主的に決めたことが、決定に加わっていない別の国の人たちにも影響を及ぼす」 ベック氏はさらに続けて、「従来の民主主義は国民国家という枠の中で成り立ってきた。その決定の影響が及ぶのも国民だけというモデルだ。だがそれは相互依存状態にある今の世界に合わない。民主主義をコスモポリタンなレベルで考えなければならない」と、コスモポリタンな民主主義が国民国家の民主主義に取って代わることに期待を寄せています。
 そこで、ベック氏の発言はコスモポリタンな民主主義に及びます。「世界を全部同じにして権力の中心を決めようとはせず、世界は同じで もあるし異なってもいるということに留意し、どの民族、宗教も固有の価値、尊厳を持つことをお互いに認め合うことが重要」、そして、「欧州では政教分離が進み、宗教は国家から離れることで自分たちの道、精神世界を発見し、異なった宗派同士が互いに認め合うようになった。同 じように国民国家(ネーション・ステート)の諸民族(ネーション)も国家(ステート)と分離してお互いに認め合うようになるべきだろう」
 ベック氏の言う、「どの民族、宗教も固有の価値、尊厳を持つことをお互いに認め合うことが重要」とは、「民族、宗教」を「個人」に置き換えれば民主主義の根本理念にほかならず、結局は「基本に帰りましょう」と私には読み取れました。私の感想をもうひとつ付け加えるならば、グ ローバル化を推し進めているのはとどのつまり、人類の歴史と同じくらい古い人間の営利心であり、その営利心がIT技術に代表される20世紀終盤に花開いた先端的なテクノロジーと手を握ったことで、圧倒的な力で地上を席捲するに至ったのではないでしょうか。もしそうであるならば、民主主義の基本の「き」と同じくグローバル化時代にも必要なのは、営利心の振る舞いをフェアなものとするための制度的枠組ではないかと思います。但し、いきなりグローバルな規制の網を掛けることが無理な以上、制度的枠組を作って運用していくには、まだまだ国民国家の中で行政的、法的な手続きを積み重ねていかなくてはなりません。国民国家の限界を嘆くにはまだ早すぎるような気がします。

大崎止まりの必要性(後編)

2008-04-26 00:08:48 | Weblog
 そんな忙しさの真っ最中に思ったのは、一日一日に節目を付けることの必要性でした。コンピュータシステムでは、一日の業務が終わると エンドジョブを走らせ、前日との差分データをバックアップとして保存しますが、人間も「今日はこれでおしまい」と一日の区切りを明確に付けるべきでしょう。また、ある時点の自分をスナップショットしたり、あるいは過去の自分と今の自分との差分を意識することは大切ではないかと思います。昨日の自分と今日の自分の区別がつかないということは、今の自分を計るためのものさしがないということになり、自身が捉えどころのない存在と化してしまいそうな気がします。
 話は少しそれますが、最近問題となっていることに、学校を出たての若者の離職率の高さがあります。一方で、会社に入って年数の若い社員の長時間労働が指摘されています。賃金の安い者をこき使おうということのようです。会社を辞めていく若者たちは、先ず第一には、過労で身体を壊さないために否応なく退職していくのかもしれませんが、次のような理由も考えられないでしょうか。学校を卒業するまでは個性や自分らしさを求められていたのに、会社に入った途端、忙しさのあまり自分の存在感が手応えを持って捉えられず、確かだと思っていたものが蒸発してしまいそうな恐怖感が引き金となり、会社を辞めるのではないかと。
 同じところをグルグル回っている山手線も、時々大崎で止まります。忙しいのは結構ですが、人間にも大崎止まりが必要かもしれません 。一旦自分を流れから切り離しちょっと区切りをつけ、次の運転まで休む。もしそれがないと、自分が見えなくなるし、いずれモダンタイムスのチャップリンが演じていた、目の前の仕事を処理するだけのマシンになってしまうのではないだろうかと思いました。 (おわり)

大崎止まりの必要性(前編)

2008-04-25 00:51:48 | Weblog
 出勤途中庭々の花に目をやると、いつの間にか桜からツツジに変わっていることに気がつきました。今年は桜前線の話題がニュースに出だした頃から、仕事がやけに忙しくなりました。年度末、年度初めは忙しくなるのが常ですが、今年は更に片付けなければならない大きな仕事が飛び込み、盆と正月と言いますか、台風と大潮と言いますか、兎に角大変な日々が続きました。相当な数のToDoリスト、ひっきりなしの電話とメールで、終電に乗れなかった日が随分ありました。コンビニ弁当が晩ごはんとなった日も随分ありました。もちろん休日出勤もありました。しかし、今週あたりはようやく落ち着き始めて、台風は過ぎ去り、大潮も引いてきた模様です。
 ひと月あまり続いた忙しさの中で、ある時、時間の感覚が麻痺しつつあることに気がついたことがありました。時間の感覚と言うよりは、日付の感覚と言った方が良いかもしれません。普通は、昨日、今日、明日と一日一日が区切られていますが、深夜に帰宅してお風呂に入って寝て起きて会社という日が続くと、段々昨日と今日の区別がつかなくなって、全部が「今日」と感じられるようになりました。そして、自分が言ったこと、やったことは覚えていても、それらの前後関係や順番が怪しくなってきました。時系列的に並ぶべきものが、手の届く範囲にはあるものの、そこらに散らばっている感じでした。 (つづく)