花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

屁理屈

2009-08-26 22:22:33 | Weblog
 ある日の母と娘の会話です。
 ぐずぐずしてなかなか食事が終わらない娘に対して母。「早くごはんを食べないと、水泳、行けないよ」
 それに応えて娘。「水泳じゃなくて、プールに行くんだもん」
 これを横で聞いていた私は、「あーあ、屁理屈、言ってるなぁ」と思いました。
 「水泳じゃなくて、プール」と言ってるってことは、母親の言った意味をちゃんと理解している訳です。この場合、ごはんを早く食べ終わることが問題であり、それに対して論点をすり替えるのは屁理屈です。しかも、何を言われたか分かっているのに、ちょっとした言葉の訂正ですり替えようとしているのです。言っても詮無いことなので、私は黙っていましたが、母娘のどってことない会話でそんなことを考えるところを見ると、私自身にも屁理屈の気があるのかもしれないなと思いました。

レンゲショウマ

2009-08-24 22:20:04 | 季節/自然
 昨日の日曜日、弟の誘いを受けて奥多摩の御岳山へレンゲショウマを見に行きました。お昼前に御嶽駅で電車を降り、先ず、萱葺き屋根の古民家風のお蕎麦屋さんで蕎麦を食べました。その後、御岳山のケーブルカー駅まで歩き、ケーブルカーで山へ上がりました。レンゲショウマの群生地あたりはそれなりに人が多く、皆さん思い思いにカメラや携帯電話で花の姿を写していました。夏の山野 草と言えばニッコウキスゲが有名ですが、ニッコウキスゲの濃いオレンジ色の大柄な花の派手さは、何となく夏の始まりを告げるのにふさわしいような気がします。方や、レンゲショウマは、白っぽく丸い小振りな花で、縁のあたりは紫がかっており、それが下を向いて咲いています。ニッコ ウキスゲの開放的な陽気さとは対照的に、楚々とした落ち着いた風情を湛えています。山の幾分涼しげな空気に囲まれて見ていたせいもあるかもしれませんが、夏の終わりに漂う、ちょっとした寂しさを醸し出しているように感じました。
 レンゲショウマを観察した後、御岳山神社にお参りしました。「弟が早く結婚しますように」と念じた後、古里(こり)駅まで山道を下り、電車を乗り継いで、立川から武蔵小杉を経て元住吉まで行き、そこでマグロの炙りとビールでお疲れさん会をしました。今年の8月も残すところあと1週間です。

生命線

2009-08-16 22:13:40 | Book
 昨日は終戦記念日でした。そこで、先日、このブログで取り上げた中村勝己先生の「経済的合理性を超えて」の中から、戦争の無益さについて触れた言葉を紹介したいと思います。
 「戦前に『生命線』という言葉がありました。『陸の生命線』、『海の生命線』という言葉が声高に語られておりました。すなわち、『海の生命線』とは旧南洋委任統治領でありました。『陸の生命線』はソ満国境の黒竜江でありました。(中略)しかし、今日われわれは南洋群島を失い、『満州』すなわち今日の中国の東北を失い、朝鮮半島を失ってみて、黒竜江と南洋群島が果たして当時人々が申しておりましたように『生命線』であったでしょうか。そうではありますまい。すなわち、国のあり方、国家がいかにあるべきか、民族の発展とはいかにあるべきか、そのあり方をかえれば、『生命線』の内容はかわってくるのであります。経済的権利であるとか、あるいは軍事的安全であるとか、国家的な威信、そのようなものは決して武器で守れるような性質のものではありません。もしそれを武器に訴えて守ろうとするならば、その他のもろもろの犠牲、すなわち貸借対照表の反対側の項目とを計算するならば、到底それは引合わない、バランスしないものなのであります。それを、きわめて片よった教育をうけた人々とそれに同調しようとする人々が、意識的にそのバランスを片方に無理矢理にむけてむけて、むけようとして、片方の皿にのりきれぬほどの錘をのせようとしたのであります。(中略)しかし戦争によらなければ護られない利益、戦争によってのみ得られる利益というものは結局のところありえないものであるし、手中にしえたように思えても指の間からこぼれ落ちるような性質のものであることを知らなければなりません。このことがわからなければ太平洋戦争に負けたことから何事も学ばなかったことになります。」
 中村先生の言葉の中で、今に生きる者として特に次の箇所は胸に留めて置かなければならないと思います。「国のあり方、国家がいかにあるべきか、民族の発展とはいかにあるべきか、そのあり方をかえれば、『生命線』の内容はかわってくるのであります。」そして、突っ張った欲の皮や変な意地によって「バランスを片方に無理矢理にむけてむけて、むけようとして、片方の皿にのりきれぬほどの錘をのせようと」することに気をつけなければなりません。それは何も戦争に限ったことではないと思います。私たちが「これは譲れない」と思っていることに対して、「それは本当に譲れないものなのか、それを護るためにもっと大事なものを代償としていないか」と、常に問いかけることを忘れないようにしたいと思います。

内側へ行った人は何を思う

2009-08-10 00:16:53 | Weblog
 「彼はどの顔を見ても羨ましかった。」これは夏目漱石の「門」に出てくる一節です。親友に対して犯したかつての罪に罪悪感を持ち続ける主人公が、気を紛らせようと寄席に出かけます。けれども、寄席でも気は晴れず、かえって出し物を心から楽しんでいるらしいあたりの人たちを羨むことになります。主人公にとっては、あたりの人に屈託のないことが羨望の理由となっています。私は、のりぴー逮捕のニュースを見て、なぜか夏目漱石のこの文章が頭に浮かびました。トップアイドルとして君臨していたのりぴーが就縛の徒となった今、いったいどんな気持ちでいるかと考えた時、「彼はどの顔を見ても羨ましかった」という漱石の文章が思い出されました。高校野球をテレビ観戦したり、プールへ行ったり、冷し中華を食べたり、ビールを飲んだり、そして薬といえばオロナインしか使ったことのない有名でもなんでもない普通の人のことを、羨ましいと思ったりする瞬間はあるでしょうか。それとも、「ツイてなかったなぁ」と思っているのでしょうか。もし、自分がのりぴーの裁判の裁判員だったら、「門」のこのくだりについての感想を訊いてみたい気がします。

刺さった言葉

2009-08-08 02:23:47 | Book
 実家に帰省した際、書棚に並んでいる本の背表紙を見ていたら、ある本の帯に「"精神汚染"批判」と書いてあるのが目に留まりました。「精神汚染」という直截な表現が妙に心に刺さりました。その本のタイトルは「経済的合理性を超えて」(みすず書房刊)、著者は経済史家の中村勝己慶應義塾大学名誉教授です。二十年以上も前に読んだこの本の内容は今もある程度覚えていましたが、帯の「"精神汚染"批判」には今まで全く気がつきませんでした。経済至上主義、効率至上主義に対する批判の書だったなぁと思いながらも、批判の対象を「精神汚染」と呼んでいたことに、この帯を考えた人の強い憤りを感じます。この本が上梓されてから二十有余年過ぎた今、まさにgreed(強欲)な汚染された精神によって経済が大ダメージを受けている中、たまたま「"精神汚染"批判」の帯を目にしたのも、何か見えざる導きのように思われ、書棚から抜き出して手に取りました。帰省している間、隙あらば頁を繰り、帰りの飛行機の中、空港からの電車の中でも読み進めました。この本で中村先生が言わんとしていることを突き詰めれば、それは、「世の中には認めてはならない種類の営利活動がある。そして、経済的合理性よりも上位の価値がある」ということであり、「効率の名の下に贅肉をそぎ落とすと言うけれど、営利追求の上では贅肉に見えても人間にとっては贅肉でないものがあり、それを削り落とすことは許されない」ということではないかと思います。「人はパンのみに生きるにはあらず」と言いますが、それは「パン」を超える価値があることを意味しています。ところが、その価値に気がつかないで「パン」のみに生きることを疑わず、「パン」をひたすら追い求める人たちによって、多くの「パン」すら得られない人々が生み出されているように思えます。
 では、そのような「精神汚染」のはびこりに対して、中村先生はどのような指針を与えて下さっているのでしょうか。私には、先生の次の言葉が強く心に残りました。「(経済的合理性の対抗原理を持つようになる)可能性を現実に転化するのは、われわれの決断の社会的蓄積です。客観的可能性があるという問題と、それが現実化するということは、いわゆる必然と自由の問題です。可能性があっても、自分自身をそこになげかけるという行動を媒介にしなければ、現実化しないわけです。」中村先生と似たようなことを言っている人がいます。イギリスの社会学者、アンソニー・ギデンズは「社会学 第4版」(而立書房刊)の中でこう述べています。「社会構造は、たとえば建造物のような、人びとの行為とは無関係に独立して存在する物理的構造のようなものではない。人間の社会は、つねに構造化の過程にある。人間の社会は、その社会を構成する建築ブロックそのもの ―あなたや私のような人間― によって、時々刻々建て直されている。」
 結局は、札束で顔を叩かれようとも、私たちが断固として譲らない価値を持っているかどうかが問われているのでしょう。