花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

成長しない社会の可能性

2015-05-19 20:52:21 | Weblog
 今日の朝日新聞朝刊に「歴史の巨大な曲がり角」と題する社会学者・見田宗介さんへのインタビュー記事が掲載されていました。今の社会状況を、「成長の限界は必ず来るし、本当はすでに来ているという理論もあります。現代の社会は、限界を過ぎても無理やり成長を続けようとする力と、持続可能な安定へと軟着陸しようとする力とのせめぎ合い」と捉える見田さんは、成長しない社会であっても、「生きる歓びは、必ずしも大量の自然破壊も他者からの収奪も必要としない。禁欲ではなく、感受性の解放という方向」に明るい可能性があると述べています。物欲に対して精神的な満足が支配的になれば、「成長=最高」の近代の価値観から解放されるかもしれません。しかし、そのような価値観の転換が不十分なままでは、依然強欲がのさばり続ける余地が残り、「感受性の解放」はマッチのともし火の中に満足を見出しながら凍え死にした「マッチ売りの少女」の悲しい結末につながる恐れがあります。価値観の転換が自然の成り行きで進むのか、社会の枠組みを変えるような営みを必要とするのか、見田さんは語っていません。インタビュー記事は次のように結ばれています。「今、私たちは、人間の生きる世界が地球という有限な空間と時間に限られているという真実に、再び直面しています。この現実を直視し、人間の歴史の第二の曲がり角をのりきるため、生きる価値観と社会のシステムを確立するという仕事は、700年とは言いませんが、100年ぐらいはかかると思います。けれどもそれは、新しい高原の見晴らしを切り開くという、わくわくする宿題であると思います」 私は、随分大きな宿題をもらっちゃったなぁと思いました。

住民投票

2015-05-18 21:34:02 | Weblog
 大阪都構想は住民投票の結果、反対多数となりました。大阪市民ではないので、都構想についてはあまり関心がありませんでしたが、住民投票で是非を問うことには違和感を覚えていました。例えば、産廃施設を作るとか、鎮守の森を残すといったシングル・イッシューで住民に直接賛否を聞く場合は、利害が分かりやすので意味がありそうですが、大阪都構想は市民生活のさまざまな部分に関連する諸政策のパッケージであるため、話が大きすぎるように思えたからです。住民投票はもっと限定的な問題に相応しい政治手法ではないかと思います。生活全体がドラスチックに変わりかねない問題について、議会の審議では埒が明かないので、大阪市民全員に是か非か聞いてみよう言われても、大阪市民は判断に困り、賛成票を投じるのがためらわれたのかもしれません。あるいは、表向きは都構想の是非を問うと言いながら、是となった暁には、都構想に対する是がいつの間にか市長に対する是にすり替わり、気がつけば定数1の議会が生まれてしまう、そんな危うさを感じ取った人がたくさんいるような気がします。

東大寺戒壇院

2015-05-08 20:48:41 | Weblog
 戒壇院へは二月堂の裏参道を通って行きました。先が見通せないように適度に角度がつけてある土塀が続く道は、観光客の多い東大寺の中では比較的静かです。裏参道の坂を下りきってしばらく行くと、小さな丘の上に戒壇院はあります。戒壇院の四天王像、これは何度見ても圧倒的な存在感があります。受戒を与える戒壇院にふさわしい緊張感があります。不空羂索観音の面付きを「包容力を湛えた厳しさ」とするなら、四天王像のそれは「静けさの中の厳しさ」ではないかと思います。静けさと言っても、穏やかな静かさではなく、すぐさま「動」に転じ得る静けさです。「寄らば斬るぞ」の凄みを感じさせる静けさです。その凄みが緊張感を生んでいます。鋭い目つきの四対の仏像は見飽きることがありませんでしたが、帰りの新幹線の時間を考えると、そんなに長居は出来ません。立ち去り難い思いを残しながら、表へ出ました。戒壇院の石庭を少し眺めてから、「さあ、帰るぞ」とばかりに別れを告げるために戒壇院を振り返って見た時、屋根に載った龍の姿の鬼瓦に目が留まりました。四天王像の研ぎ澄まされた緊張感とは全く対照的に、鬼瓦の龍の顔は漫画的でとてもユーモラスなものでした。一瞬にして私を包んでいた空気が入れ替わったように感じました。すっかり楽しんだ京都、奈良。後は奈良漬けを買って帰るだけでした。

東大寺法華堂

2015-05-06 14:01:00 | Weblog
 宇治で一日を費やしてみたい気持ちはあったものの、雨のためそれもためらわれ、奈良へ向かうことにしました。久しぶりに東大寺戒壇院の四天王像に会ってみたかったのと、これまで何度も東大寺を訪れていながら、まだ法華堂の不空羂索観音を見ていなかったので、奈良へ足を延ばしてみようと思いました。皮肉なもので、JR奈良線の電車が宇治駅を発車する頃には、雨が上がろうとしていました。少し未練は残りましたが、再訪を期しつつ宇治を後にしました。
 奈良駅から歩いて行くと、法華堂はお水取りで有名な二月堂と並んで一番奥まったところにあります。不空羂索観音は帯状の布というか紐というか、そういった形状のものを手にしています。これが「羂索」で、悩める衆生を救ってくれる網の意があるそうです。慈悲深い仏さまではありますが、相対してみると「全部お見通しだ」とでも言わんかのような厳しい顔をしています。しかし、厳しい顔つきの中にも包容力が感じられ、「首を垂れるものは救ってあげるから、心配せずともよい」と、厳粛かつ安心感を与える雰囲気を湛えていました。