花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

1Q84

2009-05-29 21:32:24 | Book
 今朝から通勤本は村上春樹さんの新作、「1Q84」(新潮社刊)です(発売日は今日ですが、都心では水曜あたりから店頭に平積みされていました)。「加藤周一セレクション<1> 科学の方法と文学の擁護」があと20ページほど残っているので、それを読み切ってから「1Q84」に入るつもりでしたが、20ページでは通勤途中に読み終えてしまうことが予想され、そうなった時、最寄り駅に着くまでの手持ち無沙汰感が怖くて、「1Q84」を鞄に入れて家を出ました。
 村上さんの長編小説は、前作の「海辺のカフカ」、前々作の「ねじまき鳥クロニクル」といずれも読んでいます。最新作の「1Q84」は発売日に早速読み始めるので、熱狂的なファンかと言うと、それはちょっと違います。確かに、村上さんの本は、作品数、回数ともに読んだ数の多い作家です。でも、のめり込んでいるとか、はまっている訳ではないと思います。分かりにくい言い方かもしれませんが、村上作品というよりは、村上さんの文章が好きなのだろうと思っています。仮に料理に例えるならば、その料理が食べたいというよりは、その味付けが好きだ、といったところかもしれません。主人公に感情移入したり、ストーリー展開や結末が気になって仕方がないとはならず、ただページ、ページでの描写、文体に惹かれて読み進めているように思います。ですから、読み終わった時に大きな感動は残らないものの、その代わりしばらくすると、「あの味付けをまた・・・」となって読み返したくなります。私にとって村上春樹さんは、時々ではあるけれども、でもその時々の時には無性に読みたくなる作家です。しかも、これまたいいタイミングで新作が出るので、出るとすぐに読み出すことになります。
 さて、こんどの「1Q84」の味付けはどうでしょうか。これまで同様、「味付けは覚えているけれども、いったいどんな料理だったっけ」となるのかどうか。その結論が出るまで、「加藤周一セレクション<2> 日本文学の変化と持続」は、しばしお預けです。

閉塞感

2009-05-18 23:56:31 | Weblog
 このところ「閉塞感」という活字に目が留まることが多いように感じています。これは、閉塞感が今の時代を現わすキーワードとして使われる頻度が上がったのか、あるいは、私の中で閉塞感という文字に対するレセプターの感度が上がったのか、いずれか、ひょっとすると両方なのかもしれません。さて、閉塞感の話に入る前に、ちょっと寄り道をして映画の話をしたいと思います。おくりびとで脚光を集めている本木雅弘さんがだいぶ前に主演した映画に「シコふんじゃった」があります。この映画の中で、ライバル大学の相撲部の部員が「辛抱、我慢」の掛け声と共にランニングに励むシーンが何度か現われます。「辛抱、我慢、辛抱、我慢」と繰り返しながら走っていますが、みんな屈強な自信あふれる若者で 、辛抱や我慢から連想される忍従や鬱屈や暗さは感じられません。このライバル大学、確か北東学院大学の相撲部員にとって、彼らが連呼している「辛抱・我慢」は選び取った辛抱・我慢なのです。相撲が強くなるための辛抱・我慢なので、自信を持って力強く連呼することが出来るのでしょう。ここで、ようやく閉塞感の話になります。仮に現在の世の中には閉塞感が濃く漂っているとします。そして、その源をたどるとするなら、それは選び取っていない辛抱・我慢を強いられているからなのだと思います。辛抱・我慢の先にあるものが見えないまま、苦痛のみを押しつけられていると言い換えても良いでしょう。こういった辛抱・我慢は言葉のイメージそのままに暗いものです。出口ない状況で、 まさしく閉塞しています。俳人・正岡子規は「仰臥漫録」の中で、「理(ことわり)が分かればあきらめがつく」と言っています。しかし、ことわりがない辛抱・我慢では、あきらめるどころではなく、ただただ疲弊してすさんでいくばかりです。辛抱・我慢を強いる状況をにわかに変えることは難しいかもしれません。でも、せめて辛抱・我慢を強いる状況の理不尽さを認識し、自己責任の言葉で安易に流してしまう人たちには与しないようにしたいと思います。

「羊の歌」より

2009-05-05 16:11:46 | Book
 今年に入ってずっと加藤周一さんの本を読んでいます。先ず最初に読んだのが岩波新書の「羊の歌」です。これは、羊年に生まれた加藤さんが生まれてから終戦を迎えるまでを振り返ったものです。その「羊の歌」の中に、加藤さんの精神の根っこにあるものがよく現れている箇所がありますので引用してみたいと思います。「私は小学生のときから、制服を好まず、七五調の唱歌に閉口していた。中学生の頃から、英雄崇拝ではなくて、偶像破壊を、豪傑笑いではなくて、諷刺家の諧謔を、好んでいた。朝から晩まで『日本人』を意識することはなかったし、またそうする必要を感じたこともなかった。制服を着て隊伍を組んで歩きながら、漠然とした雰囲気に陶酔するという考えは、私にはき気を催させたし、酒を飲んであぐらをかき、意味もないのに太い声で高笑いをしながら、『男でござる』だの『腹芸』だのということは、ばかばかしくて堪え難かった。」
 集団への組み込まれを嫌う加藤さんの精神、組み込まれを嫌うが故に集団との間に緊張関係が生まれ、それが加藤さんの批評精神を研ぎ澄ますことにつながったのだと思います。

二つの残念

2009-05-01 22:41:54 | Weblog
 昨年12月に加藤周一さんが亡くなられた時、新聞等では加藤さんのことを「知の巨人」と呼んで追悼記事を掲載していました。それまで、加藤さんの名前は知っていましたが、著書を読んだことはありませんでした。今さら恥ずかしい話ですが、多くの知識人が加藤さんの死を悼むのを見て、私も加藤さんの本を何か読んでみようと思いました。今年に入って、「羊の歌」、「続 羊の歌」(ともに岩波新書)に始まり、「日本文化における時間と空間」(岩波書店)、「私にとっての20世紀」(岩波現代文庫)、「日本文学史序説(上)・(下)」(ちくま学芸文庫)と読んでみました。そして思ったのは、「何故、自分はもっと早くに加藤さんの本を読まなかったのだろうか」ということでした。もし若い頃、例えば大学生の頃から加藤さんの本を読んでいれば、今の自分はきっと違っていただろうと後悔しました。加藤さんの分析の切れ味は鋭く、論理的です。「蒙を啓く」という言葉がありますが、加藤さんの文章に接した印象はまさしくそれです。加藤さんの著書に触れ、遅まきながら私も知の巨人を失ったことを残念に思いました。加藤さんを偲ぶ会で、「加藤さんの本を一生読み続けていく」と作家・大江健三郎さんが述べたことを、新聞は紹介していました。私には折に触れて読み返す何冊かの本、あるいは何人かの著者があります。そこへ加藤さんが加わったことを感謝したいと思っています。
 G.W中に「日本人とは何か」(講談社学術文庫)を読みます。連休明けからは、「加藤周一セレクション(全5巻)」(平凡社ライブラリー)を通勤電車の友とします。