5月25日の朝日新聞朝刊の天声人語では、アメリカ大統領選の中傷合戦のことが取り上げられていました。かごに入れた犬を車の上に積んで、カナダまで12時間走ったことを指摘された共和党候補のロムニー氏が、愛犬家へ釈明する羽目になったかと思えば、反対にロムニー陣営が、オバマ大統領が子どもの頃、インドネシアで犬を食べたことを暴き立てるなど、さながら「蝸牛角上の争い」の感を呈しています。政策の内容や実行力といった政治家としての資質を問うのではなく、人物そのものが焦点となってしまうと、徳のあるものが民を治めると考える、中国の易姓革命的な雰囲気になってきます。
最近読んだ「100のモノが語る世界の歴史1」(ニール・マクレガー著 筑摩選書)の中に、孔子の時代の銅鈴(日本の銅鐸みたいなもの)を通じて中国の政治文化について語った次のような一節があります。「(現中国)指導部は昔の儒教の教えように、徳を体現する人びととして見なされます。有徳であるがゆえに、国民は彼らの支配権を認めているわけです。ですから、この大昔からの調和の理念が採用されているのであって、それを安定した政治制度を正当化するための現代のやり方で見ているんです。支配する権利が問われない制度です」つまり、徳のあるものが民を治めるという考え方では、為政者に徳があるかどうかは問題としますが、為政者と治められる者の関係は重視されないことになります。そこでは、権力の行使に対して、細かなチェックは働きません。政治がうまくいかないと、「それは為政者に徳がないから」と片付けられるだけで、政治の中身を吟味する契機が乏しくなってしまいます。
今年の2月1日付朝日新聞朝刊に、『西洋化?日本は「中国化」しつつある』と題した歴史学者・與那覇潤氏のインタビュー記事が載っていました。インタビューの最後で、「世界の中国化は、人類に何をもたらすのでしょう?」との問いに対して、與那覇氏はこう答えています。『真の意味で「歴史の終わり」になると思います。中国では宋以降、王朝交代は起きても、「国のかたち」は変わらなかった。明朝と毛沢東時代だけは例外的に共同体を強化する方向に行きますが、結局もとに戻った。進歩ではなく反復しかない世界。それが今日の閉塞感の源泉です』思うに、政治家に対する中傷が過度になれば、それは首のすげ替えに終始するばかりで、政治が成熟していくのを妨げることにつながるのではないでしょうか。
最近読んだ「100のモノが語る世界の歴史1」(ニール・マクレガー著 筑摩選書)の中に、孔子の時代の銅鈴(日本の銅鐸みたいなもの)を通じて中国の政治文化について語った次のような一節があります。「(現中国)指導部は昔の儒教の教えように、徳を体現する人びととして見なされます。有徳であるがゆえに、国民は彼らの支配権を認めているわけです。ですから、この大昔からの調和の理念が採用されているのであって、それを安定した政治制度を正当化するための現代のやり方で見ているんです。支配する権利が問われない制度です」つまり、徳のあるものが民を治めるという考え方では、為政者に徳があるかどうかは問題としますが、為政者と治められる者の関係は重視されないことになります。そこでは、権力の行使に対して、細かなチェックは働きません。政治がうまくいかないと、「それは為政者に徳がないから」と片付けられるだけで、政治の中身を吟味する契機が乏しくなってしまいます。
今年の2月1日付朝日新聞朝刊に、『西洋化?日本は「中国化」しつつある』と題した歴史学者・與那覇潤氏のインタビュー記事が載っていました。インタビューの最後で、「世界の中国化は、人類に何をもたらすのでしょう?」との問いに対して、與那覇氏はこう答えています。『真の意味で「歴史の終わり」になると思います。中国では宋以降、王朝交代は起きても、「国のかたち」は変わらなかった。明朝と毛沢東時代だけは例外的に共同体を強化する方向に行きますが、結局もとに戻った。進歩ではなく反復しかない世界。それが今日の閉塞感の源泉です』思うに、政治家に対する中傷が過度になれば、それは首のすげ替えに終始するばかりで、政治が成熟していくのを妨げることにつながるのではないでしょうか。