花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

まなざしの地獄

2006-11-29 22:58:40 | Weblog
 朝日新聞朝刊の11/12付読書欄と11/28付の論説記事で、大森彌著「官のシステム」に書かれている官僚組織の「大部屋主義」が紹介してあった。個室を与えられる欧米のオフィスとは異なり、日本の官僚はひとつの課や部が大部屋で仕事をしており、その部課で通用する常識、通例を共有するようになっている。その常識や通例にそぐわない人間は不適応者とされるので、周囲の視線を感じながら、みんなに迷惑を掛けないよう配慮する行動様式が生まれるそうだ。ちょっと話はそれるが、ある時、官僚の友人から「忖度出来ない人間は評価されない」という話を聞いたことがある。「忖度」を部下に求める風土も「大部屋主義」が育んでいるのかもしれない。ともあれどちらの記事も、役所にとってマイナスとなる情報(例えば教育改革のタウンミーティングでのやらせ)が外に流れにくくなっている理由として、この「大部屋主義」をあげている。
 この二つの記事を読んで思ったのは、役所、あるいは企業の隠蔽体質の泉源ではなく、また「遅れず、休まず、働かず」といった役人気質の背景でもない。周りの視線を意識せざるを得ない職場の雰囲気やひしひしと伝わる視線への気遣いから、息の詰まるような思いをし、それが最近の若者がすぐ会社を辞める原因のひとつとなっているのではないかということであった。まなざしの包囲網、物言わぬ監視人、そういったものへの免疫力が弱い人たちが増えているように思える。もっとも、官僚の離職率が際だって高いとは聞かないので、「大部屋主義」は企業にもはびこっているのだろう。外資系などドライな企業は除外しても良いと思うが、古くからの大企業にはかなり当てはまりそうな気がする。

逃げるが勝ち

2006-11-20 21:36:48 | Weblog
 いじめによる自殺が大きな社会問題になっている。11/17(金)付けの朝日新聞朝刊の一面に、いじめを苦に自殺を考えている子供らに対する劇作家・鴻上尚史氏のメッセージが掲載されていた。これは、いじめられっ子のみんなに是非とも読んでもらいたい内容である。曰く、「あなたが今、いじめられているのなら、今日、学校に行かなくていいのです。あなたに、まず、してほしいのは、学校から逃げることです。逃げて、逃げて、とことん逃げ続けることです。学校に行かない自分をせめる必要はありません。・・・(中略)・・・次にあなたにしてほしいのは、絶対に死なないことです。そのために、自分がどんなにひどくいじめられているか、周りにアピールしましょう。思い切って、「遺書」を書き、台所のテーブルにおいて、外出しましょう。学校に行かず、1日ブラブラして、大人に心配をかけましょう。そして、死にきれなかったと家にもどるのです。それでも、あなたの親があなたを無視するのなら、学校あてに送りましょう。あなたをいじめている人の名前と、あなたの名前を書いて送るのです。はずかしがることはありません。その学校から、ちゃんと逃げるために、「遺書」を送るのです。死んでも、安らぎはありません。死んでも、いじめたやつらは、絶対に反省しません。あなたは、「遺書」を書くことで、死なないで逃げるのです。だいじょうぶ。この世の中は、あなたが思うより、ずっと広いのです。あなたが安心して生活できる場所が、ぜったいにあります。・・・(中略)・・・どうか、勇気を持って逃げてください。」
 普通、困難な状況に立ち至ると、どうやって問題を解決しようかと能動的な対処を考えがちである。しかし、問題を解決するための働きかけを一切ぶん投げて、意識して逃げなきゃならない場面もある。昔読んだ庄司薫著「赤頭巾ちゃん気をつけて」(中公文庫)に、「馬鹿ばかしさのまっただ中で犬死にしない方法」として「逃げて逃げて逃げまくる」というのが語られている。「もしなんかの問題にぶつかったら、とにかくまずそれから逃げてみること、特にそれが重大な問題であると思われれば思われるほど秘術をつくして逃げまくってみること、そしてもし逃げきれればそれは結局どうでもよかった問題なのであり・・・」とある。
 人生、頑張るだけではどうしようもないこともあるし、「三十六計逃げるに如かず」という古人の知恵もある。鴻上氏が言うように、いじめっ子は反省や後悔なんてしない。そんないじめっ子のせいで、自分のかけがえのない命が失われるなんて反吐が出そうだ。庄司薫くんが言うように、自分を守るために秘術をつくして逃げまくってみようじゃないか。ルパン三世やリチャード・キンブルーのように、逃げて逃げて、そして無事逃げ切ろうぜ。

ディシプリン

2006-11-12 02:58:34 | Weblog
 「好きこそものの上手なれ」という言葉がありますが、「好き」と「上手」は無媒介に直接結びついているのではなく、その間を取り持つ何かがあるような気がします。私はそれがディシプリン(discipline:訓練、規律)ではないかと考えています。好きであれば上手くなりたいと思うのは当然ですが、好きな料理をたくさん食べるのとは訳が違います。好きなことばかりやっていても、それが必ずしも上達につながるとは思いません。量をこなせばそれなりに上手くなりはするでしょうが、それだけでは遅かれ早かれ壁にぶち当たります。そこで大切なのがディシプリンです。上手くなるにはどの分野でも基本が大事です。定石を知らずに将棋が上手くなることはありませんし、野球におけるキャッチボールや素振りの重要性は言うまでもありません(世界の王貞治は素振りで部屋の畳が擦り切れたそうです)。その基本を身につけるためには、毎日毎日繰り返される訓練が必要です。ただ好きだからと言って気分やノリで闇雲にやっていては本当の上達は望めません。日々の基礎訓練を通じて基本をしっかりと身体に覚えさせることを避けて、上手の域に達することはないでしょう。このような意味において、私は「好き」と「上手」をつなぐものとしてディシプリンを捉えています。
 さて話は飛びますが、教育の面でもディシプリンの果たす役割は大きいと思います。日々の基本の反復にあたる訓練には、こつこつと真面目に物事に取り組む姿勢や忍耐力、持久力を養う契機が含まれています。そして、好きだから上手くなりたい、だからこれこれのためにこれこれをやるという態度、つまり目的意識を持った上で自分自身を自ら手段化し努力を積み重ねる態度には、自分をコントロールする力、すなわち自律の精神を育む土壌があります。ただし、いくら基本が大事だからと言って、いつまでも同じことを馬鹿のひとつ覚えでやっていては、いずれ頭打ちになってしまいます。さらに上を目指すためには、自分に必要なものを分析し、それを身につけるべく創意工夫や理にかなったトレーニングを試みるサイクルが必要です。そのような過程からは、自分を客観的に見て合理的な思考や判断を行う素地が産まれます。思うに、真面目さや忍耐力、自らを律する力、客観的で合理的な頭脳の働き、これらはどれも教育に求められているものではないでしょうか。このようなことから、教育においてもディシプリンの意義は大きいと思います。
 昨今、にわかに熱を帯び始めた教育論議に触れたり、あるいは、「子供には好きなことを伸び伸びとやらせてあげたい」という善意にあふれた、それでいてある面無責任な声を聞くにつけ、子供が好きなことを見つけられるよう後押しすることはもちろん大切だけれども、それと同時に発達段階に応じてディシプリン的視点を持って接しなければならないのではないかと、そう思います。それは、親のためでも、国のためでもなく、子供自身のために。

国を愛するとは

2006-11-07 21:56:33 | Weblog
 昨日から朝日新聞夕刊で「わたしの教育再生」という連載が始まった。今日は数学者のピーター・フランクルさんからの聞き取りが載っている。フランクルさんは、愛国心と国粋主義は違うとして次のように述べている。『愛国心は必要だと思っている。ただし、安倍首相の「美しい国へ」や、藤原正彦氏の「国家の品格」とか、何冊もこういう本を読んだけど、これらの本は愛国心と言いながら、国粋主義の思想。・・・(中略)・・・愛国も国粋も、自分の国を愛する気持ちは一緒だけど、愛国主義者は、自分の主観的気持ちだと認めている。でも、国粋主義者は客観的だと思っている。・・・(中略)・・・自分のお母さんを愛しているのは自分のお母さんだから。世界で一番料理がうまくて、美しくて、賢いからではない。国についても、母なる国、母国、そういう愛の気持ちは大切。』
 フランクルさんのコメント、もっともだと思う。フランクルさんの言う愛国心からは、「他人も自分と同じように国を愛しているんだ」という他者への共感や他者への開かれた態度が生まれる。一方、国粋主義者の意識にはそれがなく、他者を否定する閉ざされた態度につながりやすい。この記事を読んで、「国粋的な教育では寛容の精神や人や文化に対する理解を支える共感の心は養えないし、そもそもそれでは教育の目的を果たせない」と思った。
 余談だが、昨日は立花隆氏だった。『今の教育が抱えている諸問題は全て教育基本法とは別の次元の問題だ。教育基本法を改めなければ解決しない問題でもなければ、教育基本法を改めれば解決する問題でもない』とした上で、政府は教育基本法の改正を改憲への布石にしようとしていると警戒心を示している。立花氏の意見も「もっともだ」と思った。

形式への思い

2006-11-06 01:15:24 | Book
 苅部直著「丸山眞男」(岩波新書)に、丸山眞男が大学紛争の際学生から吊るし上げを食ったことに触れた箇所がある。半強制的に追及集会へ引き出された丸山と学生のやり取りである。『暴力による発言の強制をこばむ丸山に対し、学生が「形式的原則に固執して、われわれの追及への実質的な回答を拒否している」と批判したところ、丸山は「人生は形式です」と凛然と言い放った。しかしジンメルの講演を背景においたその言葉も、嘲笑と「ナンセンス!」の怒号にかき消されてしまう。』
 このやり取りにあるジンメルの講演に関して、最近出版された「丸山眞男回顧談(下)」(岩波書店刊)で丸山は次のように述べている。『ぼくは、ジンメルの「現代文化における葛藤」という論文に示唆を受けた。文化の変革期には必ず生と形式との間の矛盾が起きる。いままでの形式は、新しい文化を盛りきれなくなる。そこで古い形式をこわして、新しい形式をたてる。ところが現代文化の危機は、新しい形式を求めるのではなくて、一切の形式を離脱して生命の欲求だけを叶えようとすると。』
 この発言は丸山眞男晩年のものであり、大学紛争からかなりの年月を経た後のものである。ジンメルをさらりと引用しているが、単に学生への切り返しにジンメルの「形式」を使ったのではないような気がする。形式を軽んじ生命の欲求に邁進する現代文化の危機というよりは、丸山眞男の言う日本文化の古層より連綿として続いている執拗低音(バッソ・オスティナート)に流されないために「形式」の力に重きを置く考えが、吊るし上げの場に及んで丸山の矜持となって現れたのではないだろうか。ジンメルはその強い思いをオブラートしただけなのかもしれない。回顧談を読みながらそんな風に感じた。