花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

英霊

2018-08-13 20:53:09 | Weblog
 「英霊」、この言葉は二重の意味で悲しみにとらわれています。ひとつは、もちろん、天寿を全う出来ずに散華し召されてしまったことで。もうひとつの悲しさは、平和時であれば「霊」の一文字であったのに、さらに「英」の字を付け加えられたことに対して。「英」の一字を加えることは、それだけご冥福を祈る気持ちが強いからだと思います。しかし、それは私たち市井の人間が使う場合においてです。為政者がこの言葉を使う時、そこには自分たちのやましさから世間の目をそらそうとする意図が感じられます。亡くなられた方を強調することで、戦争責任自体の存在をぼやかそうとしているのではないか、そんな気がしてなりません。尊い犠牲者の陰に隠れるだけではなく、あやかろうとさえしているのではないかと勘ぐってしまいます。8月の某日、靖国神社へ行ってきました。はたして、ここに祀られている方々の胸の中は如何なものでしょう。「英」の一字はなくとも、長生きをして故郷の墓地に眠りたかったのではないか、少なくとも自分ならそう思います。英霊と呼ばれる人が、これ以上現れない世の中になってほしいと念じ、手を合わせました。

栄冠は君に輝く

2018-08-12 19:15:22 | Weblog
 週末、阪神甲子園球場で行われている第100回全国高校野球選手権記念大会の数試合を観戦してきました。勝敗が決し両チームは分かれ、双方の応援席に向かって礼をすると、拍手を合図にアルプスの山は滝に変わります。水が流れるように応援団がスタンドの裏へ引いていき、代わって次の試合の応援団に埋め尽くされます。アルプスはまた山に戻ります。
 整備の人たちがグラウンドを簡単に均した後、まっさらのまぶしいユニフォームたちが散らばりノックを受けます。ひとチーム、7分ずつのきびきびとした動きがダッグアウト消えると、本格的なグラウンド整備が始まります。フィールドを均し、水を撒き、新しい真っ白な線が引かれます。
 この一連の光景は若者たちを象徴しているようです。グラウンドで歓喜するもの、涙するもの、勝ち負けは非情ですが、グラウンド整備の後、新しい試合が始まるように、勝者、敗者ともに次の試合が待っています。それが野球なのか、もっと別のことなのかは分かりませんが、勝負を通じて若者は成長していきます。いつかは、それぞれが自分のフィールドで何かの栄冠をつかむ日が来るでしょう。そして、月日が流れ、次の若者たちのためにグラウンドを整備することもあってほしいものです。夏を代表する風物詩の甲子園、100回も続き今なお人々に感動を与え愛されているのは、若者の成長の過程におけるひとつの頂点であり、通過点であることによるのかもしれません。
 熱戦の余韻が次の試合に対する期待へと徐々に変わっていく中、まだら模様の荒れたグラウンドはグラウンドキーパーの一糸乱れぬ動きで「よし、始めようぜ」といった表情を取り戻していきました。さぁ、声援を送ろう!

正統と異端

2018-08-04 21:05:24 | Weblog
 7月30日付けの朝日新聞朝刊に政治学者・丸山眞男さんの新刊に関する記事が載っていました。正統と異端をテーマとした研究が丸山さんの死によって未完となっていましたが、東京女子大学丸山眞男記念比較思想研究センターの山辺春彦氏と川口雄一氏らが残された資料を編集して、岩波書店から「丸山眞男集」の「別集」として刊行する運びとなったそうです。
 丸山さんは、「『正統』のない日本で、普遍性をもつ『正統』をどう作るか」という目的意識のもと、古代から現代に至る日本の政治思想史の中で正統と異端のメカニズムを捉えようとしたと、記事には書いてありました。また、丸山さんの研究内容から「はじめに異端ありき」という分析が紹介されています。つまり、正統に対して異端が現れてくるのではなく、異端に対して正統が対立軸として現れてくるのです。その例としては、戦時中の「非国民」に対する「国民」の姿が見えないこと、あるいは文部省が「国体の本義」を出して「国体」の正統的な解釈を示すのは、「国体」が崩壊しかかって来た時であることが挙がっています。異端は鋭く焙り出されるのに、正統は明瞭な形を持っていないと述べているように思います。丸山さんか導いた結論は、記事によると、「日本にはキリスト教やマルクス主義のような、世界観や教義をもつ『正統』はない」、「政治集団が自らの正しさを根拠づける『疑似正統』だけ」、「戦前の国体論も、世界観や教義があるかのように見える『疑似正統』だった」、とのことです。
 さて、話は少し変わりますが、文化人類学者の中根千枝さんは「タテ社会の力学」(講談社現代新書)において、日本では各小集団が軟体動物のような動きをすると書いていらっしゃいます。ヒトデの腕はそれぞれバラバラな動きをしているが、いったんひとつの方向に向かい出すと、たちまち動き方に協調が生まれるというのです。小集団の場合は、最初は集団ごとに競い合っていても、ひとたび優位な流れが出来ると、一斉にそちらへ向かって全体がまとまっていくのだそうです。
 朝日新聞の記事を読んで、中根さんのことを思い出しました。中根さんの説を丸山さんの文脈で敷衍するなら、日本では正統と異端が向き合うことはなく、あるのは主流と傍流。そして、世界観や教義ではなく、勢いの有無が優勢を形作ることになります。「政治集団が自らの正しさを根拠づける『疑似正統』だけ」というのも、勢いがある方が自らを正当化するために「疑似正統」の振る舞いをすると解釈出来るように思います。世界観や教義の差とは違って、主流と傍流の差は勢いの強弱なので、集団間の境界線は曖昧になります。川の流れで主流は分かりますが、どこまでが主流なのかは人それぞれの見方で微妙に変わってくるのと同じです。「はじめに異端ありき」は、主流派による恣意的な線引きなのかもしれません。