花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

子午線の祀り

2024-10-15 19:53:00 | Book
(※朝日新聞朝刊連載「折々のことば」風に)

 「非情の相を-----しかと眼をこらして-----見定めよとか。」

 源平合戦で平氏を率いる知盛は勇猛果敢な武士とは言えない。たまゆらの人間とは無縁な自然の営み、すなわち情など持たない天命に思いを致し、自らを慰め、力づけ、命の重さを知りなさいと女官の影身に言われ、己の行く末を見つめようとする。決戦に敗れても、まだ三種の神器を携え、落ち延びた先で再起を図ることも出来たが、「見るべき程の事は見つ」と壇ノ浦の海に飛び込み果てる。一方、源氏の将義経は、武士ではない水主や楫取を殺してはならぬという戦の法を破るに躊躇はなく、ただひたすらに勝ちのみを求める。その義経もやがて奥州の地で討たれるのは歴史の伝えるところだが、その時彼の眼は何を見たであろうか。

木下順二著「子午線の祀り・沖縄」(岩波文庫)から

フォンタマーラ

2024-09-16 16:21:45 | Book
(※朝日新聞朝刊連載「折々のことば」風に)

 「正義はいつだっておいらを苦しめてばかりいるじゃないか」

 イタリア中部の貧村フォンタマーラの農民たちは、地域の有力者の干拓地のために農業用水を取り上げられる。さらには小麦を安値で買い叩かれたり、官憲によって村を蹂躙されたりする。権力者は剥き出しの暴力に訴えるのではなく、自分たちに都合の良い法律を作り、合法性の名の下に村人を従わせる。やられっぱなしの農民連中は、ある時自分たちが受けた仕打ちの数々について新聞を刷って知らしめようと考える。しかし、すぐさま村中で憲兵の銃声が響き渡ることになり、「どうすりゃいいんだ?」の嘆きで小説は終わる。フォンタマーラは、ファシズムが如何にして人々の生活に忍び寄って来るかの寓話である。

イニャツィオ・シローネ著「フォンタマーラ」から(光文社古典新訳文庫)

不条理はほかにもあった!?:「異邦人」再読

2024-09-03 19:12:00 | Book
 先の土日は台風10号による荒天で、二日とも家に垂れ込めることになりました。読書の週末にしよう、そして何となく、アルベール・カミュの異邦人を読んでみるか、と思いました。異邦人は、アラビア人を殺した主人公が殺害の理由を「太陽のせい」と言ったことが有名で、不条理文学を代表する小説とされています。ずいぶん昔になりますが、最初に読んだ時は、動機なき殺人を犯し、罪の意識に捕らわれることなく、なお淡々としている主人公に、これが不条理かと感じたものでした。

 再読した今回、不条理はほかのところにもあるような気がしました。主人公の裁判で検事は、主人公が母親の死に際して涙を流さなかったこと、棺の中の死に顔を見なかったこと、母親の年齢を知らなかったこと、通夜に煙草を吸ったことなどをもって、被告である主人公を責め立てます。陪審員たちもそれに引きずられて、被告を悪人とします。

 主人公が殺人犯であることは紛れもない事実です。裁判ではその事実を踏まえて、次は殺意があったかどうかが問われるはずです。小説を読む限り、アラビア人に銃弾を撃ち込んだのは偶発的で、「太陽のせい」は殺意不在を象徴しているのでしょう。けれども裁判では、母親が死んだときの態度や日頃の人間関係での振る舞いに焦点が当てられます。犯行自体とは全然違うところで、「こういう人間は許せないよね」といった印象が形作られます。そして、判決は斬首刑。

 主人公は特赦の請願を拒否し、司祭の言葉も拒否します。斬首刑を進んで受け入れ、大勢の人の憎悪を浴びながら処刑されることを願い、小説はそこで終わります。自らを他人の善意にゆだねることを拒否しているみたいです。

 改めて異邦人を読み、自分は、この作品を前には一面的にしか読んでいなかったことに気づきました。善良なる市民と言われている人たちの中にも不条理があるのではないか。そういう読み方が出来るのではないか。いつか再々読するだろうなあと思います

寝取られ亭主

2024-08-17 09:05:00 | Book
(※朝日新聞朝刊連載「折々のことば」風に)

 「誰憚ることなく指差して嘲笑うことができるから、『寝取られ亭主』が現れるのを喜ぶ」 

 小説の舞台は20世紀前半の中国。職場の先輩が妻と懇ろになり逃げた。孝行や礼節のような道徳観に縛られた社会では、寝取られ亭主は逸脱者であり、彼に同情する人は周りの目を気にして声を掛けることが出来ない。噂に飛びついた多くの人は、寝取った方を責めるよりも寝取られた方を物笑いの格好の対象にしてしまう。思いやりを欠いた形式的かつ外面的な倫理が幅を利かせる中では、いつの世も返り血を浴びる心配のない獲物を探しては、日頃の息苦しさの憂さを晴らすのかもしれない。

老舎著「私のこの生涯」(平凡社刊)から

ヘッダ・ガーブレルと正岡子規

2024-07-16 19:17:00 | Book
 イプセンの戯曲「ヘッダ・ガーブレル」(岩波文庫)の主人公、ヘッダ・テスマンはガーブレル将軍の娘、美貌に恵まれ、大学教授就任が有望なイェルゲン・テスマンとの結婚生活が始まり、お屋敷住まい。近づいてくる人たちからは大事にされ、何不自由ない生活のように見えますが、退屈をかこつ日々。

 かつての友人エイレルト・レェーヴボルクは一時期すさんだ生活に身を落としますが、同じくヘッダの友人エルヴステード夫人の助力があり、今は立ち直って学問に心血を注ぎ、我が子とも思える文化史の原稿を仕上げます。たまたま、その原稿を手に入れたヘッダは、暖炉の火にくべて悪びれるところがありません。

 しかも、原稿がなくなり失意のレェーヴボルクに対して拳銃を手渡し、自殺を促します。ヘッダはレェーヴボルクがこめかみを撃ち抜くことを期待しますが、実際にはいかがわしい女の部屋で腹部を撃って瀕死となります。自殺なのか事故なのかは定かでありません。

 その知らせを聞いたヘッダは、「ああ、あたしが手を触れるものは、何もかも滑稽で、下卑たものになっちまうのね」と嫌悪の表情を激しく示します。そして、レェーヴボルクに拳銃を与えたことをブラック判事に気づかれ、それがスキャンダルになり得ることと判事に弱みを握られたことに我慢が出来ず、ヘッダはこめかみを撃って自殺を遂げます。

 人は自分の生活圏の中で何となく「ここが自分の居場所」と思えるもものを持っているのでしょうが、ヘッダの座標軸は無限に広がり、その中で時に驕慢、時に臆病、万能感と無力感を合わせ持って不安にさいなまれながら、自らの座標を見つけられずにいた。そんな印象を受けます。

 さて、我が国の俳人正岡子規は、脊椎カリエスにむしばまれ、身体を錐で刺すような苦痛に日々苦しみ、膿がいたるところから吹き出てくる寝たきりの病人でした。その子規は次のような言葉を残しています。「理が分かればあきらめつき可申美が分かれば楽み出来可申候、杏を買ふて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれともどこかに一点の理がひそみ居候、焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処何の理屈か候べき」。(「仰臥漫録」岩波文庫)

 何という対照でしょうか。