花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

ヘッダ・ガーブレルと正岡子規

2024-07-16 19:17:00 | Book
 イプセンの戯曲「ヘッダ・ガーブレル」(岩波文庫)の主人公、ヘッダ・テスマンはガーブレル将軍の娘、美貌に恵まれ、大学教授就任が有望なイェルゲン・テスマンとの結婚生活が始まり、お屋敷住まい。近づいてくる人たちからは大事にされ、何不自由ない生活のように見えますが、退屈をかこつ日々。

 かつての友人エイレルト・レェーヴボルクは一時期すさんだ生活に身を落としますが、同じくヘッダの友人エルヴステード夫人の助力があり、今は立ち直って学問に心血を注ぎ、我が子とも思える文化史の原稿を仕上げます。たまたま、その原稿を手に入れたヘッダは、暖炉の火にくべて悪びれるところがありません。

 しかも、原稿がなくなり失意のレェーヴボルクに対して拳銃を手渡し、自殺を促します。ヘッダはレェーヴボルクがこめかみを撃ち抜くことを期待しますが、実際にはいかがわしい女の部屋で腹部を撃って瀕死となります。自殺なのか事故なのかは定かでありません。

 その知らせを聞いたヘッダは、「ああ、あたしが手を触れるものは、何もかも滑稽で、下卑たものになっちまうのね」と嫌悪の表情を激しく示します。そして、レェーヴボルクに拳銃を与えたことをブラック判事に気づかれ、それがスキャンダルになり得ることと判事に弱みを握られたことに我慢が出来ず、ヘッダはこめかみを撃って自殺を遂げます。

 人は自分の生活圏の中で何となく「ここが自分の居場所」と思えるもものを持っているのでしょうが、ヘッダの座標軸は無限に広がり、その中で時に驕慢、時に臆病、万能感と無力感を合わせ持って不安にさいなまれながら、自らの座標を見つけられずにいた。そんな印象を受けます。

 さて、我が国の俳人正岡子規は、脊椎カリエスにむしばまれ、身体を錐で刺すような苦痛に日々苦しみ、膿がいたるところから吹き出てくる寝たきりの病人でした。その子規は次のような言葉を残しています。「理が分かればあきらめつき可申美が分かれば楽み出来可申候、杏を買ふて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれともどこかに一点の理がひそみ居候、焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処何の理屈か候べき」。(「仰臥漫録」岩波文庫)

 何という対照でしょうか。

多様性の陥穽

2024-06-09 15:35:20 | Book
(※朝日新聞朝刊連載「折々のことば」風に)

 「多様さを地球的規模で全面的に花を開かせなくてはならない」

 技術化によって世の中の均質化、等質化が進んでいる。その中で、地域や集団において生活に現れる違いを見つけてきて、多様性が保たれていると安堵してはならない。それでは多様性が切り崩されるのを止めることにはならないし、知らぬ間に国家主義に与することにもなりかねない。それぞれの違いや多様さの底にある可能性をじっくりと見極め、合せて人間にとって普遍的な力となるものを探る営みが必要である。日本を単一民族による共通の文化基盤を持つ国と捉える史観に疑問を呈し続けてきた歴史家は、そう語る。

岩波現代文庫「網野善彦対談セレクション 2 世界史の中の日本史」所収「歴史と空間の中の”人間”」から

法と政治と理念

2024-05-03 13:44:00 | Book
(※朝日新聞朝刊連載「折々のことば」風に)

 「理念は『意味』の世界において『妥当』する。」

 私たちの日々の活動には目的や意思がある。それらから私的な利害関心を取り除き、価値あるものへと客観化していくと理念になる。例えば、公共の福祉、社会の秩序、平和などである。理念はどこかから勝手に降ってくるものではなく、人々が生み出すものであるが、一方で人々の行動に影響を与える矩ともなる。理念が我々の現実意識や現実意欲と結びつき、ある意味を持った時、それは社会を動かす力となり、政治の原動力となる。そして政治は理念に基づいて法を創造し、運用していく。法の窮極に在るものは政治であるが、政治に恣意を許さないのは理念の力であると、戦前、戦中、戦後を生きた法学者は語る。

尾高朝雄著「法の窮極に在るもの」(有斐閣刊)から

鉄器と猛々しさ

2024-02-25 10:48:22 | Book
(※朝日新聞朝刊連載「折々のことば」風に)

 「鉄器が入ると猛々しくなる」

 琉球王朝では製鉄が抑制される。鉄製の鍬や鋤の使用により生産力が上がれば、「これは自分が開いた畑だ、次は隣の畑を手に入れてやろう」と、土地の私有に対する欲求が強まってくる。こん棒でタロイモを栽培していた頃は、「自分の所だけでも大変なのに、人の土地へ入っていくなんてとても無理」、だから世の中は穏やかだった。琉球王は、生産力は高いが猛々しい世界よりも、食糧生産のレベルは低くても平和な世界を好ましいと思ったようだ。統治のしやすさの意図は、もちろんあったであろうが。一方、鍬・鋤によって土地を開墾し灌漑設備を整えた関東では、武士層が起こることになった。

岩波現代文庫「網野善彦対談セレクション 1 日本史を読み直す」所収「多様な中世像・日本像」から

だまされる人の心性

2023-12-31 12:05:00 | Book
 人にだまされるということは、だまそうとする相手を信じちゃうということです。身近な人にだまされるならまだしも、さして親しくもない人にだまされる場合、そこにはどんな心の隙があるのでしょうか。この点に関して、ひとつの例を紹介してみます。

 賃貸物件のオーナーが、賃借人のひとりと話をするうち、信用していろいろ自分のことを話すようになりました。ある時、ファッションに関するアドバイスを受けたので、そのお礼に高価なプレゼントをします。またある時、ちょとした頼み事をします。頼み事とは別の賃借人への言伝でした。すると、言伝の相手の態度に相当な立腹の様子。あらあらと思っていると、その賃借人は家賃を踏み倒して姿をくらましました。部屋に残されたのはガラクタばかり。

 さて、このオーナーは詐欺師まがいの賃借人をどうして信じてしまったのでしょうか。このことについて、とある意見を述べる人がいます。面白い見方なので引用してみます

 「身近な人間のことは警戒するのに、余所者には心を許してしまうひとは多い。自らの精神がからっぽであることをそばにいる人間に晒しているので、相手が自分をあるがまま容赦なく評価しているのを感じる。しかしひとは誰からも褒められないと、褒められたくてしかたがなくなるし、長所がないとあるように見せたくてしかたがなくなる。だから外部の人間の評価や優しさがいかに儚いものであっても当てにするようになる。未知の人間に貢献することで、自尊心の糧を得るのである。交際仲間との距離が近ければ近いほど、薄情になり、遠ければ遠いほど、親切になるのである。」

 この成程と思わせるコメント、実はかの文豪バルザックのものです。小説「ゴリオ爺さん」の中にあります。2023年から2024年にかけての越年本がこの「ゴリオ爺さん」なのですが、年末年始の休暇をバルザックの人間観察眼を楽しみながら過ごしたいと思います。