花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

宇治の橋姫

2015-04-29 10:17:22 | Weblog
 「さむしろやまつよの秋の風ふけて月をかたしくうぢのはし姫」、これは藤原定家の代表的な歌のひとつですが、古今和歌集に収められている「さむしろに衣かたしき今宵もやわれを待つらむ宇治の橋姫」(詠み人知らず)の本歌取りとしても有名です。本歌取りの歌ですから、「うぢのはし姫」と言っても、具体的な誰かを思い描いたのではなく、歌の情景は定家の想像によるものであり、「はし姫」は「待つ女」のメタファーです。源氏物語の「浮舟」の話と重ね合わせることで、「待つ女」のイメージは益々強くなります。
 平等院を訪れた後、宇治川に沿って少し歩きました。宇治川をはさむ山々にポツポツ降りの雨が霧の衣をまとわせており、その間の幅広でフラットな川面を流れる少し蒼碧がかった水を見ていると、平安の文学的世界にちょっと近づいたような感じがしました。今回は平等院が目当てでしたが、再訪の機会を作って宇治川を山間までゆっくり遡ってみたいと思いました。
(画像の女性像は橋姫ではありません。紫式部だそうです)

平等院

2015-04-24 20:28:55 | Weblog
 京都では宇治の平等院も楽しみでした。十円玉に刻まれているのをずっと見てきて、いつかは本物を見たいものだと思っていました。訪れた日は金閣寺の時とは違って、ポツポツと雨が降っていました。平等院の前には池が広がり、池の表に映された平等院が雨滴の波紋で微妙に揺れています。京都府木津川にある浄瑠璃寺は池越しに本堂の阿弥陀如来像を見るようになっていて、その構図は平等院と同じで、両者の極楽浄土イメージは共通しているように感じました。もっとも極楽浄土を模したと言われる割には、平等院に幽遠さはなく、アピールポイントに欠ける中途半端な印象を受け、建物だけなら佐賀県鹿島市の祐徳稲荷神社の方が立派だがなぁ、とつぶやきたくなりました。でも、ミュージアムや鳳凰堂内の雲中供養菩薩は幽遠さがあり、一見の、いやそれ以上の価値があると思いました。平等院内には、平家との戦いの中、平知盛に攻め立てられて逃げ込み、自刃した源頼政のお墓があります。そこに、「埋もれ木の花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ悲しかりける」の辞世の句が掲げられていました。無念の思いは伝わりますが、「身のなる果てぞ悲しかりける」と言うあたりは未練がましく思われ、浄土思想の平等院にそぐわないと思いました。
(画像は宇治川に掛かる朝霧橋から見た鳳凰堂)

金閣寺

2015-04-22 21:46:55 | Weblog
 今回の旅行では金閣寺を楽しみにしていました。この有名なお寺をまだ訪れたことがなかったことと、三島由紀夫の「金閣寺」で主人公の心を虜にし、一緒に燃え尽きてしまいたいと思わせるほどの美しさとは如何ばかりかと期待していました。天気は快晴、青空を截然と切り取って、そこに嵌め込んだかのように黄金に輝く究竟頂(くっきょうちょう・3階部分)や、究竟頂に場を譲った青空を目がけて今にも飛び立たんとする鳳凰の姿を想像しながら、仁和寺から金閣寺へ向かいました。しかし、世の中では期待が裏切られることがままあります。実際にこの目で見た金閣寺は金色にまばゆく光っているものの、そのまばゆさがのっぺり感につながり、心を虜にするとか、荘厳な印象を与えることにはなっていませんでした。もしかすると快晴でまぶしい陽光を受けた金色が一切の陰翳を奪い去り、それがあだになったのかもしれません。では、がっかりしただけかと言えば、そうではなく、金閣寺に付け足したような感じで鏡湖池へ差し渡された漱清(そうせい)は、金閣寺に比べれば可愛いくらいに小さく、造りはいたって簡素、金ピカの正反対で渋くくすみ、その地味な漱清が金閣寺に寄り添い対照的な姿を見せることで、かえって侘びの趣が際立っているようでした。こちらは期待外の目っけものでした。

仁和寺

2015-04-21 20:15:22 | Weblog
 先日、京都・奈良を旅行しました。その時の雑感を綴ってみます。先ずは京都の仁和寺から。
 仁和寺と言えば徒然草を思い出します。仁和寺のお坊さんが石清水八幡宮にお参りに行きますが、途中にある神社を石清水八幡宮だと勘違いして、その先に続く石清水八幡宮へ通じる山道を登っていく大勢の人たちを見て、みんな山の上に何しに行くんだろうと訝しがりながらも、「山に登るのではなく石清水八幡宮に参るのが目的だから」とそこで引き返す話とか、料理を盛る器をかぶって踊ったら、大受けに受けたまでは良かったものの、その器が抜けなくなって大騒動となり、力いっぱい器を引っ張った挙句耳と鼻がちぎれてしまったお坊さんの話とか。そんな間抜けなお坊さんの話に、仁和寺に対して何とはなしに滑稽なイメージを抱いていましたが、実際に訪れた仁和寺は、さっさと見て回っても1時間は掛かりそうな広い境内に、金堂や五重の塔をはじめ数々のお堂が立ち並ぶ大寺でありました。滑稽さなど微塵も感じられない、真言宗御室派の総本山に相応しいお寺でした。そもそもは宇多天皇が興したお寺だそうですから、権門の寺院だったのでしょう。兼好法師が仁和寺のお坊さんを面白おかしく取り上げたのは、仁和寺が力のあるお寺だからこそ、あえて権力を揶揄しようとするシニカルな気持ちがあったからかも、と思いました。