花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

「知は力なり」の陥穽

2024-03-27 20:27:00 | Weblog
 イギリス経験主義の祖と言われる哲学者フランシス・ベーコンは、「知は力なり」という有名な言葉を残しました。経験的知識の蓄積の重要性を述べたものです。知識に基づく合理性、計画性を軽視する「当たって砕けろ」的な行為よりも、知識を積み重ねて不確実性を出来るだけ排除した行為の方が、意図した結果に至る可能性が高いことは、誰の目にも明らかです。ベーコンに異を唱える人はいないでしょう。

 しかし、それ一辺倒では足をすくわれることになりかねないように思います。知識を得るとは、あるモノやコトの性質や働きを知ることです。その時、知るは自分で、モノやコトは自分の外部のものとして対象化されます。もし、この態度のみで突っ走ってしまったら、人間とモノやコトとの関係は一方通行の隘路に行き詰まってしまいそうです。

 「知は力なり」の「力」がモノやコトに及ぶ際、「力」による作用のことは考えても、モノやコトからの反作用が意識の外に置かれる恐れがあります。その結果、知らず知らず自分を優位的なものとし、モノやコトは単なる操作の対象とみなすことにつながってしまいます。そこからは、共生や共存の考えは生まれにくくなります。

 今、世界的、地球的に環境破壊が問題となっています。これはモノやコトを操作の対象と見ることに偏りすぎた結果のように思えます。一方通行的な視点に陥ってないかを反省するとともに、「知は力なり」に再帰的な見方をも加えていくことが求められていると感じます。

だめ連

2024-03-23 15:26:04 | Weblog
 本日の朝日新聞朝刊のひと欄は「だめ連」の神長恒一さんでした。神長さんは、「考えると、人生ロクなことがない」と言われて育ち、大学卒業後就職するも10ヶ月で退職し、留年した友人と「だめ連」を結成、以来「三年寝太郎」ならぬ「三十年寝太郎」を決め込みます。

 「だめ連」と聞けば、根っからのダメダメちゃんを思いがちです。事実、神長さんは朝遅くまで寝ているし、起きて朝ごはんを食べたら二度寝をします。でも、神長さんが単なるダメダメちゃんではないのは、「だめ連」の「連」の部分があるからなのだろうと思います。

 先ず、「だめ連」を一緒に立ち上げた友だちがいました。5万円の家賃を折半する奥さんがいます。飲み会に参加するし、週に一度、障がい者と学童保育のそれぞれをお手伝いしているそうです。

 この人とのつながりが、怠け者と「だめ連」の間に一線を画しています。自分の時間とエネルギーをどう使うか、その割振りが個性的なだけで、決して怠惰をむさぼっているのではありません。「面倒臭いけど、そこにこそ生きている手応え、快楽と喜びがあるんです」と神長さんは言っています。快楽と喜びがあれば、「だめ連」は全然ダメなんかじゃありません。

(ひと)神長恒一さん 24年ぶりの新刊を出版した「だめ連」の主宰者:朝日新聞デジタル

(ひと)神長恒一さん 24年ぶりの新刊を出版した「だめ連」の主宰者:朝日新聞デジタル

 とにかく忙しくて、「働いている暇がない」。イベントや飲み会などでの「交流」が人生のメイン。二度寝が大好きで、朝遅く起きて朝ごはんを食べたらまた寝る。その合間、...

朝日新聞デジタル

 

隣人愛の陥穽

2024-03-11 23:26:00 | Weblog
 イエス・キリストの教え、「汝の隣人を愛せよ」はあまりにも有名です。素晴らしい教えではありますが、ある危険性が潜んでいるような気がします。イエスは隣人の例として善きソマリア人の話を挙げています。盗賊に襲われて怪我をした人を、たまたま通り掛かったソマリア人が助け、路銀を工面してあげます。イエスは、これこそが隣人と言える行為であるとしています。

 善きソマリア人同様、一人ひとりがそれぞれ隣人を愛するのであれば、問題はありません。しかし、教徒、教団、宗派など組織性を帯びてくると、往々にして隣人とそうでない人の区分けがなされます。教区が同じかどうか、あるいはキリスト教信者か異教徒か、などなどで線を引くケースです。そうなると、隣人は愛しても、隣人でない人は愛さない、さらには敵とみなすといった態度が現れてきます。イエスの教えを守っているようでも、実は大いに反している、みたいなことが起きてしまう恐れがあります。

 おそらくイエスはその危険性を分かっていたのでしょう。「汝の敵を愛せよ」と教えることも忘れていませんでした。この言葉にも忠実であるなら、全ての人に対してソマリア人的に接するわけで、隣人愛は教徒、教団、宗派、そして民族や国境を超えてみんなが対象になります。

 また、イエスは「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」と教えました。暴力を否定しているのはもちろん、悪に対して悪で立ち向かえば、相手と同じ土俵に乗ったことになり、それは自らを貶めることを意味するよ、と戒めているのでしょう。

 新聞で、テレビで、血なまぐさいニュースを見ない日はありません。そこにはイエスが危ぶんだ間違った隣人愛が、悪い働きをしているのかもしれません。普通に考えれば誰にでも分かる、たった3つの教えを守るだけで良いのに。日々、悲しく思っています。