花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

第三の開国(中)

2011-01-23 17:20:17 | Weblog
 環太平洋パートナーシップ協定の是非に関する意見を掲載した朝日新聞の記事を読んで、他にも思い出した本があります。それは、尾高朝雄著「法学概論」(有斐閣刊)です。この本の中で、自由が抱えるジレンマについて述べている次の箇所が思い出されました。「一般に人間の幸福というものは、各人が自力でこれを築いて行くことが最も望ましい。外部から他律的に、均分に配給された幸福は、真の幸福とはいいがたい。したがって、各人に対して、各自の幸福を追求する自由を大幅に認める方がよいということになる。しかし、そうすると今度は、自己本位の実力競争が行われて、不自然な禍福の不平均が生じて来る。有利な立場に立った者は、その地位を利用してますます経済上の利益を独占しようとするし、不利な条件の下に置かれた者は、『働けど働けどなおわが暮らし楽にならざり』という境涯に沈淪する。そうして、各人の能力に応じた適正の差別とはおよそ趣を異にするところの、貧富の急傾斜ができてしまう。その結果として、法は、福祉追求の自由をひろく認めれば、経済上の不平等を放任することになり、平等の正義に急ごうとすれば、経済上の自由に大幅な制限を加えざるを得ないという、重大なディレンマに陥る。」環太平洋パートナーシップ協定を議論するにあたって、経済の活性化と加盟国全体の福祉の向上のバランスをどう取っていくかが重要ですが、少なくとも自由が弱肉強食の様相を呈して「働けど働けどなおわが暮らし楽にならざり」となる人たちを生み出すことだけは避けなければなりません。(つづく)

第三の開国(上)

2011-01-22 16:11:07 | Weblog
 1月18日と21日の両日、朝日新聞朝刊に環太平洋パートナーシップ協定に対する識者の意見が掲載されていました。それぞれ、賛成の立場と反対の立場の双方の学者が登場しています。私は反対の論者の言っていることに説得力があるように感じました。ところで、この2回の掲載記事を読んで思い出された本があります。そのうちの一冊は「江戸時代」(大石慎三郎著・中公新書)です。この本には江戸時代の鎖国について次のような記述があります。「江戸時代の〝鎖国〟なるものを誤解しないためには、国家というものはどんな時代でも密度の差異はともかくとして、必ず鎖国体制(対外管理体制)をとるものであることを承知しておく必要があろう。〝鎖国〟とは一度とりこまれた世界史の柵から、日本が離脱することではなく、圧倒的な西欧諸国との軍事力(文明力)落差のもとで、日本が主体的に世界と接触するための手段であった。つまり〝鎖国〟とは鎖国という方法手段によるわが国の世界への〝開国〟であったとすべきであろう。」さて、環太平洋パートナーシップ協定ですが、ヒト・モノ・カネが自由に行き交うようにするためのものと聞けば何やら良い印象を受けますが、その耳障りの良さの裏には国家としての主体的関与の放棄が隠れているような気がします。ここで言う自由とは「おのおの好きにせい」の自由ではないかと思われるからです。(つづく)

弱き者

2011-01-14 23:01:50 | Weblog
 厳しい寒さが続いた今週、つくづく思ったのは「自分は弱い人間だ」ということでした。年末年始から1月の三連休にかけて、ずっと飲み続けだったので、この週はきっちり禁酒をする「禁シュウ」にしようと心に誓いました。ところが、週の最初の出勤日である火曜日に、「パンを買い忘れたので買ってきて」と自宅からメールが入り、会社の帰りにコンビニに立ち寄ったところ、吉乃川のワンカップが目に止まりました。「確か、今日の夜ごはんはお雑煮だったなぁ。日本酒を飲みながらお雑煮を食べれば、身体が温まる」と思いました。「ワンカップなら明日に持ち越すこともないし、今日はお使いという特殊任務があったので特例だ」と、「禁シュウ」の誓いはあっさりと「ほぼ禁シュウ」に変わってしまいました。まさしく朝令暮改です。翌水曜日、会社から帰る時、夜風が冷たく身体に突き刺さり、しかも、どうしたことかこの日はコ ートを着ずに家を出たので、寒さがやけに身に凍みました。すると、どこかから「剣菱」と囁く悪魔の声が聞こえ、招き寄せられたように酒屋に入っていました。剣菱が置いてなかったら何も買わずに店を出ようと思っていたのですが、なぜか1本だけ剣菱が置いてありました。家に帰って熱燗で飲んだら、冷え切った身体がほぐれてきました。その次の日の木曜も寒かったです。そして今日も。凍えた身体が欲するのか、ついつい剣菱をトクトクトクとコップに注いで、電子レンジで温めてしまいました。「弱き者よ、汝の名は女なり」とハムレットは言いましたが、「私はもっと弱い人間でございました」と告白しなければなりません。

シチリア!シチリア!

2011-01-08 10:18:00 | Weblog
 まだ通勤電車がそれほど混んでいない松の内のある日、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画・「シチリア!シチリア!」を観ました。イタリアの片田舎の貧しい家族の物語です。貧しくも健気に、そして家族の固い絆に結ばれて暮らしていく主人公をはじめとする登場人物の姿に、懐かしい感じを覚えました。最初は、この懐かしさはスクリーンの中に描かれている貧しさから来るのかと思っていました。きっと、自分の貧しかった頃と重ね合わせて、懐かしく感じるのだろう、と。しかし、そのうちに「それはちょっと違うかも」とも思え始めました。と言うのは、この映画は監督自身が昔を懐かしんで作っていて、その監督の懐かしく思う強い気持ちがスクリーンに満ち、結果、観客にも監督の懐かしむ思いが伝わって来るのだという気がしてきたからです。そう考えてみれば、非常に象徴的なシーンが思い当たります。それは、幼い子供たちが映画フィルムの切れっ端を何枚も持って、代わる代わる「あの映画」、「この映画」と題名を言い合うシーンです。子供たちが手にしているコマ切れのフィルムは、トルナトーレ監督の想い出そのものなのです。子供らがとっかえひっかえフィルムを眺めているように、「シチリア!シチリア!」の中ではトルナトーレ監督の想い出が次々と重ね出されているよう思いました。貧しさが懐かしさを引き出しているような感じがしたのは、きっとそのような意味においてであったのでしょう。