花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

精神のない専門人 (中)

2010-09-24 23:18:06 | Weblog
 「アノミーへの傾向を生ずるのは、文化的目標と制度的手段の利用可能性との間の葛藤である」というマートンの命題を借用して、憶測も含まれていますが、大阪地検「エース」事件について思ったことを書いてみます。
 ある人が、文化的目標実現への欲求がとてつもなく強く、制度的手段の利用可能性も相当程度に大きいとしましょう。一般的に、制度的手段の利用にあたっては何らかの規制が働くのが常ですが、当人が強い権力を持っているケースや、外部に対して閉ざされた集団内にあっては、この規制が働きにくくなったり、規制を無視して暴走した場合の歯止めが掛かりにくくなります。規制が働きにくい状況下で、文化的目標実現への欲求が強く、しかも制度的手段の利用可能性の大きな人は、文化的目標とそれに向けての制度的手段選択の妥当性を吟味することを忘れ、あるいは無視し、目的のためには手段を選ばずの状態に陥りやすくなり、ひいては不正行為に走りやすい状況が用意されることになります。
 さて、ふたたび、「神の手」と「エース」の事件に戻ってみます。「神の手」事件の場合、「神の手」と呼ばれるくらいですから、期待の重圧がいかほどであったかは想像に難くありません。また、「神の手」と賞賛される美酒の味が忘れられなかったのかもしれません。教科書を書き換えるような発見をしてみたいという欲求があれば、それはかなりの暴走エネルギーをはらんでいます。一方、「神」に抗える人はそうそういませんから、制度的手段の利用は思いのまま、「神」に規制を加えたり、妥当性のチェックを行える人もいません。あくまでも想像ですが、捏造はこのような要素の組み合わせから生まれたのではないでしょうか。
 「エース」事件の方ですが、かの検事は実績を挙げる反面、強引なやり口が目立ったといいますから、やはり欲望に拍車をかけやすい性質の人だったのかもしれません。それに、検察官の持つ権限からすれば、大きな制度的手段の利用可能性があったと言えるでしょう。さらには、検察組織は外部に対して閉ざされています。大阪の検事にも、「神の手」と同じような不正へ足を踏み入れやすい素地が用意されていたと想像できます。
 ここで、マートンの命題を下敷きにしながら、それを私なりに換骨奪胎気味に書き換えてみます。「不正への傾向を生ずるのは、あまりにも強い文化的目標への欲求と、あまりにも大きな制度的手段の利用可能性と、そしてそれらの妥当性をチェックする規制の欠如の組み合わせによる」と。文化的目標と制度的手段の利用可能性の葛藤は、アノミーを生みますが、過度の文化的目標への欲求と制度的手段の利用可能性は、制度的手段利用に対する妥当性のチェック機能を麻痺させると思います。
 あと、大阪地検の事件に関連してもうひとつだけ書きます。それは、危険な文化的目標についてですが、今日はここまでです。

精神のない専門人 (上)

2010-09-22 23:52:35 | Weblog
 昨日から今日にかけて、証拠物件を改ざんした疑いのある大阪地検の検事ことが、新聞一面をはじめ大きく報じられています。このニュースによって、10年くらい前のある事件が思い出されました。別の場所で発掘した石器を埋め戻して、仕組まれた発掘を世紀の発見としていた考古学者の事件です。この考古学者は「神の手」と呼ばれ、数々の輝かしい業績を収めていて、その世界では著名な学者でした。大阪で問題となっている検事は、世間の注目を集めた事件をいくつも手がけ、「エース」と呼ばれていたそうで、お互いに優れた手腕を発揮したと評価されていた点は同じです。また、方や発掘を捏造した「神の手」、もうひとりは証拠の改ざんをした「エース」、大阪の検事がクロだとすれば、仕事ぶりを評価されてきた二人が、それぞれおよそ信じられないような、それもその職業の根幹を揺るがすような不正を行なった点でも相通じてます。
 ここで、少し事件そのものから離れて、かつて学んだ社会学の記憶をたどってみたいと思います。アメリカの社会学者、ロバート・マートンに「社会理論と社会構造」(みすず書房刊)という著書があります。この本のある箇所に、「どんな目標であれ、目標達成の極端な強調-----それが科学的成果であれ、個人的富の蓄積であれ、また、少しく想像を逞しくすれば、ドン・ファンのような女たらしであれ-----の結果、特定の<成功>を達成しようとめざす行動を支配している制度的規範に次第に同調しなくなり、とりわけ競争場裡において社会的に不利な地位にある人々においてそうであるということにほかならない。アノミーへの傾向を生ずるのは、文化的目標-----この目標がどのような性質であれ-----と制度的手段の利用可能性との間の葛藤である」、と書いてあります。文化的目標と制度的手段の利用可能性の葛藤を有体に言えば、成功という文化的目標を持っているのに、上級学校に行くための機会に恵まれなかったり、事業を興す元手がなかったりして、成功を実現するための手段から遠ざけられている状態を指し、アノミーへの傾向を生ずるとは、葛藤にさらされている人たち、特に葛藤にさらされがちな下層階級の人たちは、文化的目標と制度的手段の利用可能性のギャップから自棄になりやすいと言っています。
 ところで、このマートンの考えを借用しながら、ふたつの事件に関する感想を述べてみたいと思っているのですが、それは次回に回します。

片腕のバイオリン弾き

2010-09-13 21:37:25 | 季節/自然
 先週末から我が家では、夜更けになるとリーン、リーンと、鈴虫の鳴き声が聞こえてきます。と言うのは、子どもが学校の友達から4匹の鈴虫を分けてもらってきたからです。4匹の内訳は、オスが3匹、メスが1匹です。3匹のオスのうち1匹は、羽が1枚しかありません。移動の最中に取れちゃったのか、鈴虫同士のケンカでかじり取られたのかもしれません。その哀れな片羽の鈴虫ですが、ほかの鈴虫が鳴き出すと、自分も1枚だけの羽を立て、激しく震わせています。羽が1枚しかなく、音が出ていないことに気がついていないのでしょうか。私が見ている限りでは、リーン、リーンと鳴き声が始まると、決まって負けじと音のない演奏を始めます。あたかも、片腕をなくしたバイオリン弾きが、弓を持っていないのに、演奏しようと、あるいは演奏していると思いこんで、一生懸命になっているかのようです。
 今日、会社から帰ると、子どもが、「パパ、鈴虫が死んじゃった」、と言うではありませんか。「あの、片羽の鈴虫か」と思いましたが、串に刺したナスビの横でひっくり返っていたのは、違う鈴虫でした。かの片羽の鈴虫は、止まり木の上にちょこんと乗っていました。そして、今宵も鈴虫の鳴き声が聞こえています。薄暗がりに置いた虫かごの中で、摺り合わせる相手のない羽が、しきりと細かく震えていることでしょう。

 「秋深みよわるは虫の聲のみか聞く我とてもたのみやはある」 西行

夏の区切り

2010-09-07 21:42:04 | Weblog
 近所のプールには、20メートルプールと25メートルプールの2つがあります。20メートルプールはもっぱら小さい子たち用です。ようやく息継ぎが2回か3回か出来るようになったうちの子どもと、「来年はこのプールの端から端まで泳げるようになろうね」と話していました 。息継ぎが2、3回出来て、10メートルくらい泳げるようになったので、今年はそれで良しと思ったからです。
 前の日曜日、プールへ行った時、この日も暑い日で、プールはひどく混んでいて、芋洗い状態でした。子どもは人を避けながら、泳ぎの練習をしたり、潜って遊んだりしていました。そんな中で、プールの端から泳ぎ始めた子どもが、人にぶつかったりよけたりしながら、今まではその付近で立ち上がっていた10メートルラインを超えて、そのまま泳ぎ続け、もうひとつのプールの端まで泳ぎきりました。あっさりと記録更新、来年の目標をクリアしてしまいました。子どもはプールの端から端まで泳げるとは思っていなかったので、実感が沸いていないようでした 。家への帰り道になって、ようやく、「ママに教えてあげなきゃ」と言ったり、おじいちゃんとか学校の先生とか、20メートル泳げたことを報告したい人の名前が出てくるようになり、だんだん嬉しさが膨らんできたようでした。私はと言えば、来年にとっておいた目標が達成されたことで、何となく「夏もこれで終わりだなぁ」という気持ちになりました。相変わらず残暑は続いていますが、今年の夏にいきなり句点が打たれたようでした。「この夏の積残し案件は無し」と思えたからでしょう。
 家へと歩きながら、子どもに「今日は水泳を頑張ったから、お菓子でも買って帰ろうか」と言うと、「肉まんが食べたいな」との返事でした 。あたりは夕焼けが少しずつ赤みを増し、半乾きの髪の湿った毛先が少しひんやり感じられました。