花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

丹沢山

2006-04-23 14:31:13 | 季節/自然
 昨日、久し振りに山へ行った。小田急線の渋沢駅からバスに乗って大倉へ。大倉から塔ノ岳、丹沢山を越えて宮が瀬へ下りた。大倉から塔ノ岳への通称「バカ尾根」を登りながら、ちょっと頭に浮かんだことがあった。山登りと言えば普通朝早くからの行動が当たり前だが、「バカ尾根」のような整備された登山道なら夜間登山も面白いなと。大倉行きの終バスで行って、山に登って始発のバスで帰るのはどうだろうか。満月の光にうっすらと見える富士の姿はおつかもしれない。
 下山後、本厚木駅前の波多野商店でとん漬けを買ってから、時間帯に関係なくいつも混んでる小田急線に乗り込んだ。新宿が近づくにつれて、頭の中は満月に浮かぶ富士山のシルエットからビールをゴクリと飲むイメージに変わっていった。下北沢あたりで、そのイメージはよりリアルになり、アサヒスーパードライになった。

市民参加と地方自治の明日(後編)

2006-04-20 22:17:49 | Weblog
 平成大合併の牽引役は経済的合理性である。国から地方に対する財政支出の削減と、人口流出による公共サービスの非効率化が引き金となって、台所事情から合併に踏み切った自治体は多いと思う。乱暴な言い方だが、銀行や製薬会社の合併と同じく、規模を大きくすることで経済効率を高めようという狙いであろう。銀行を例えとするなら、売上は減りました、顧客も減りました、でも店舗数や行員の数は変わりません、それでは効率が悪いですね、では合併して売上規模を増やし店舗(インフラ)は統廃合しましょう、といったところである。それはそれで致し方ないかもしれないが、経済的合理性を追求する場合、非効率をもたらすファクターが排除されてしまうことを忘れてはならない。先の銀行で言うならリストラである。しかし、民間企業と違って自治体が住民に対して排除の論理を行使する訳にはいかない。経済的効率を最優先するあまり弱者を切り捨ててしまっては、それは行政とは言えない。(残念ながら現実には行われているけれども)
 そこで、松下圭一さんが実践した「武蔵野方式」の出番登場である。自治体は財政の健全化を目指す一方で、経済的合理性の網の目からこぼれ落ちた人たちをすくい上げていく方策をとらねばならない。草の根の住民の声をから一つずつ政策を考えていく場合、武蔵野方式が活きてくる。お上の施しを待つのではなく、弱者が切り捨てられないよう、市民自らが自分たちの要求をまとめて上げ、自治体サイドとともに実現していくのである。もっとも市民の声を上げると言っても、単なる住民エゴに終始していては誰からも顧みられないだろう。それ避けるためには、行政に対して声を上げている人たちが、政策を練り上げる手腕を磨かなければならない。そのためには、既成政党の活動にもっと積極的に入り込むことが必要ではないだろうか。willはあるけれどskillがない人たちは、skillのある集団の中に居場所を作ってしまえばいい。そういった人が党の中で結集していけば、草の根の声を議会に届けやすくなるだろう。また自治体との連携プレーもとりやすくなるだろう。楽観的過ぎるかもしれないが、町内会の寄り合いに行く感覚で政党に加入してみてはどうだろうか。そうすれば、武蔵野方式に新たな息吹が吹き込めるように思えるが。(もちろん、無い袖は振れないので、財源の地方自治体への移譲は絶必である)

市民参加と地方自治の明日(前編)

2006-04-19 22:49:02 | Weblog
 今日の朝日新聞夕刊で政治学者・松下圭一さんの地方分権への取り組みに触れた記事があった。松下さんは、「上からの国家統治に代わって、市民から出発する民主主義、市民自らによる自治型の政治にしなければならない」、と考えていた。その思いを「地域民主主義」の言葉に込めて、実際に現場の市職員や住民たちとともに、高層住宅への対応や清掃工場づくりなどの暮らしの課題に対する解決策を練り上げていった。武蔵野市がその舞台となったことから「武蔵野方式」と呼ばれる地方自治の手法である。
 一方、現在進められている市町村の平成大合併は、同じ地方自治に関わることながら、松下さんが唱える内容と相容れないものである。先ず「上からの」合併だという点があげられるが、それよりもそもそも適用されるべき対象が異なっている。住民が参加して身近な課題に知恵を絞り政策を立案していくやり方が通用するためには、その地域が比較的小さなまとまりでなければならない。コミュニティとかタウンと言われるような規模にあたるものである。仮に、東京都で武蔵野方式を実践しようとしても、議論がまとまらず何も前に進まないのは明らかである。共通の関心や利害が形成しやすい規模というものがあり、それを超える規模の地域で住民参加型の政治をしようとしても、結局利害の調整不能に陥り「声の大きなもの」が幅をきかすことになる。この意味において、武蔵野方式と平成大合併は地方自治に対して異なるベクトルを持っていると思う。ただし、ここで言いたいのは、「じゃぁ、どっちがいいんだい」といったことではない。そのあたりは、次の投稿に回したい。

破られた記録と破られなかった記録

2006-04-11 00:01:16 | Sports
 4月9日(日)、阪神の金本がフルイニング連続出場の大リーグ記録を破った。1999年7月21日から一度もベンチに下がることなく、904試合、プレイボールからゲームセットまで球を追い続けた結果だ。途中、左手首に死球を受け骨折した際は出場を危ぶまれたが、右手だけで安打を放った。また、守備ではどうしても骨折した左手で捕球しなければならないが、「腹で捕る」と言って出場し続けた。そして、ついにカル・リプケンの記録を超えた。熱い思いを持った人間がチームの4番に座っていると、そのチームはきっと強くなると思うが、今年の阪神も期待出来そうである。
 一方、海の向こうの大リーグでは破られなかった記録がある。ジョー・ディマジオの連続試合安打記録「56」である。記録更新を狙っていたジミー・ロリンズ(フィリーズ)は、38試合ヒットを打ち続けてきたが、39試合目は無安打で終った。シーズン開始前、昨シーズン終了まで36試合連続安打を続けていたロリンズは、ディマジオの記録を「抜けると思う」と語っていたそうだが、やはり無理だった。ここで、「やはり」と言うのは、「絶対破られない大リーグ記録」として、「ディマジオの連続試合安打記録」が定説となっているからでもあるし、実際ディマジオの記録は、幾度と無く連続試合安打記録に挑戦してきたスラッガーの前に屹立して立ちはだかってきたからである。
 ディマジオはある時、「4番バッターには四球では駄目な場面がある。ストライクが来なくても、ヒットを打つためにボール球に手を出さざるを得ないこともある」、と述べたことがあるそうだ。彼の一言は、4番打者のなんたるかを良く言い表している。決して4番目に打つ選手ではないのだ。ディマジオの頃のヤンキースもやはり強かった。

日曜日の午後に読んだ本

2006-04-09 21:56:32 | Book
 近くの植物園にお弁当を持ってタンポポと八重桜(里桜)を見に行った。一葉などの里桜のピンク、タンポポの黄色、ツツジの薄紫など、色鮮やかに咲いていた。また、名前は忘れてしまったが真っ白な桜もなかなか良かった。「桜も吉野の山から里へ下りて来たなぁ」などと思いながら帰って来た。
 その後、先日買った根本きこ著「酒の肴、おいしい愉しみ」(集英社刊)を読んだ。この本は、酒の肴を水先案内人としながら、「こんなシチュエーションでお酒を飲んだら、とっても美味しくて、しかも愉しいんですぅ」といったことが綴られている。著者が本当に愉しんでいる様子が、控え目な表現ながらも伝わって来る。本を読みながら調子に乗って、「ほら、この肴は美味しそうだよねぇ」と妻に言ったら、「じゃあ今度作ってね」と言われてしまった。