花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

寝取られ亭主

2024-08-17 09:05:00 | Book
(※朝日新聞朝刊連載「折々のことば」風に)

 「誰憚ることなく指差して嘲笑うことができるから、『寝取られ亭主』が現れるのを喜ぶ」 

 小説の舞台は20世紀前半の中国。職場の先輩が妻と懇ろになり逃げた。孝行や礼節のような道徳観に縛られた社会では、寝取られ亭主は逸脱者であり、彼に同情する人は周りの目を気にして声を掛けることが出来ない。噂に飛びついた多くの人は、寝取った方を責めるよりも寝取られた方を物笑いの格好の対象にしてしまう。思いやりを欠いた形式的かつ外面的な倫理が幅を利かせる中では、いつの世も返り血を浴びる心配のない獲物を探しては、日頃の息苦しさの憂さを晴らすのかもしれない。

老舎著「私のこの生涯」(平凡社刊)から

個人における態度決定

2024-08-03 09:24:00 | Weblog
 かつてあった「リベラル・コミュニタリアン論争」のことを不勉強のためよく知りませんでしたが、最近どんな論争だったのかちょっと気になり、ネットをチラ見してみました。極々大雑把ながら、リベラルとコミュニタリアン、それぞれの言い分をチラ見した内容を基に比較してみました。

■両者の言い分
・リベラル:個人の自由と権利を最優先する。国家は自由と権利を保障する制度である。個人は自由かつ自律的に合理的判断を行う。

・コミュニタリアン:一見個人の自由かつ自律的な合理的判断と見えるものも、自分が属する共同体や社会の価値観や思考の枠組みの影響を受けている。だから共同体や社会の善をないがしろにして、個人の自由と権利の伸長を過度に追求すれば、自分たちの足元を掘り崩すことになりかねない。

 さて、ネットでほんの表面をなでただけなので論争自体にコメントを差し挟もうとは思いません。ここからはチラ見した後の感想です。

 「個人の自由や権利が大切」と言われれば、「そうだよなぁ」と思います。そして、「社会的な善が大事」と言われれば、これまた「そりゃそうだ」と思います。私たちが政治的判断や何らかの態度決定を行う際、自分の頭で考え、その考えに責任を持つことを求められています。他人からの干渉を排除して、自律的で合理的に判断を下すことが当然視されます。一方、何も無いところからいきなり考えが浮かぶ訳ではなく、私たちの脳味噌は経験や環境、他人との関係性などから影響を受けながら形作られます。そのことからも、リベラル、コミュニタリアン、双方が重要視するものはともに不可欠であり、どちらの言い分にも頷けます。

 ここでふと思うのは、「個人」と「社会的なもの」は全く別のものとして対立するのではなく、同時共存的に層をなしているのではないかと。思考を紡ぐ主体には、自分自身が自由に考えていると意識している表層、共同体や社会の常識、通念、エートスなどが溶け込んで、知らず知らずのうちに考えを方向付けている中層、そして丸山眞男さんが言うバッソ・オスティナート(通奏低音)のように、私たちが生まれるずっと前から続いている歴史的なものによって成り立つ社会認識や状況への反応のパターンである深層、この3つの層を持っているのかもしれません。

 これら3つの層が、同一主体の中で、強弱や濃淡を変えながら、あるいはお互いに影響し、されながら、ものごとに対する判断や態度決定を形成していると考えてみたくなりました。もしこの考えに立つならば、「自分を大切にする」ということは、私と社会と歴史を大切にすることになります(注)。エゴイズムに対する防波堤になりそうでもあり、私たちと社会との関りを考えるうえで、ほかにも広がりを示してくれそうでもあります。

(注)
 私と社会と歴史を大切にすると言っても、無批判的金科玉条的に大切にする訳ではなく、大切にするからこそより良いものにしていこうとするのは当然であります。

一円玉を拾った話

2024-07-29 20:45:00 | Weblog
 先の週末、房総半島の館山へ行きました。千葉のモンサンミッシェルと言われる沖ノ島が目的地でした。JR館山駅からバスで館山航空隊へ、そこから沖ノ島までは30~40分の歩きです。途中、砂の上で光るものが目に入りました。立ち止まって見ると一円玉でした。「一円玉かぁ」と一、二歩歩いたところで、振り返り拾い上げました。周りの目があったのでちょっと躊躇させられましたが、こんなことを考えて拾い上げました。一円玉がこのまま砂の下の方にもぐりこんでしまう、あるいは誰かが蹴ったはずみか何かで海水に浸かってしまう、そうなればこの一円玉はもう人の手に触れられることはないでしょう。でも、自分が拾ってあげれば、高度資本主義貨幣経済の中で再び働く場を得ることが出来ます。そう思うと拾わずにいられませんでした。ところで、手に取った一円玉はさっとポケットに突っ込みました。それは陽に焼かれたアルミ貨が熱かったからと、自分に言い聞かせました。

ヘッダ・ガーブレルと正岡子規

2024-07-16 19:17:00 | Book
 イプセンの戯曲「ヘッダ・ガーブレル」(岩波文庫)の主人公、ヘッダ・テスマンはガーブレル将軍の娘、美貌に恵まれ、大学教授就任が有望なイェルゲン・テスマンとの結婚生活が始まり、お屋敷住まい。近づいてくる人たちからは大事にされ、何不自由ない生活のように見えますが、退屈をかこつ日々。

 かつての友人エイレルト・レェーヴボルクは一時期すさんだ生活に身を落としますが、同じくヘッダの友人エルヴステード夫人の助力があり、今は立ち直って学問に心血を注ぎ、我が子とも思える文化史の原稿を仕上げます。たまたま、その原稿を手に入れたヘッダは、暖炉の火にくべて悪びれるところがありません。

 しかも、原稿がなくなり失意のレェーヴボルクに対して拳銃を手渡し、自殺を促します。ヘッダはレェーヴボルクがこめかみを撃ち抜くことを期待しますが、実際にはいかがわしい女の部屋で腹部を撃って瀕死となります。自殺なのか事故なのかは定かでありません。

 その知らせを聞いたヘッダは、「ああ、あたしが手を触れるものは、何もかも滑稽で、下卑たものになっちまうのね」と嫌悪の表情を激しく示します。そして、レェーヴボルクに拳銃を与えたことをブラック判事に気づかれ、それがスキャンダルになり得ることと判事に弱みを握られたことに我慢が出来ず、ヘッダはこめかみを撃って自殺を遂げます。

 人は自分の生活圏の中で何となく「ここが自分の居場所」と思えるもものを持っているのでしょうが、ヘッダの座標軸は無限に広がり、その中で時に驕慢、時に臆病、万能感と無力感を合わせ持って不安にさいなまれながら、自らの座標を見つけられずにいた。そんな印象を受けます。

 さて、我が国の俳人正岡子規は、脊椎カリエスにむしばまれ、身体を錐で刺すような苦痛に日々苦しみ、膿がいたるところから吹き出てくる寝たきりの病人でした。その子規は次のような言葉を残しています。「理が分かればあきらめつき可申美が分かれば楽み出来可申候、杏を買ふて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれともどこかに一点の理がひそみ居候、焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処何の理屈か候べき」。(「仰臥漫録」岩波文庫)

 何という対照でしょうか。

ベストな決断をしたとしても

2024-07-04 07:40:00 | Weblog
 不測の事態により日常が崩れることがあります。深刻なものはめったにないかもしれませんが、まったくないわけでもありません。例えば、能登地震のように日常が全く奪われるようなことは、大半の人には一生遭遇することはないでしょう。でも、突然の病気やトラブルでそれまでの当たり前が当たり前でなくなることは、もう少し確率が上がってきます。

 日常が崩れた時、それを立て直そうと、取りうる選択肢を比較吟味し、何らかの判断、決断をします。上手くいけば日常を取り戻し、上手くいかなければもう一度吟味、決断をするか、崩れた状態を新たな日常として受け入れるかです。

 さて、ベストな決断により不測の事態を収拾し、日常が回復した場合でも、それでずっと安泰とは言えません。いったん良くなったように見えても、私たちでは考えも及ばない理由でまたまた不測の事態が起こることは十分にありえます。回復した日常の中に、実は日常を壊す種が潜んでいることもあるでしょう。だからこそ「不測」なのです。

 その時、選択肢の吟味が足りなかったのではないか、もっと違う選択をしておけばと後悔しても、何ら状況の改善にはなりません。後悔するのではなく、決断をしたあの時に戻るのが上策だと思います。決断に際しては、選択肢を考え、絞り込み、決断をします。その過程で、判断の軸というか、価値の優先順位というか、いわば人生のメートル原器が鍛え上げられているはずです。そこに立ち返って、今一度人生のメートル原器に照らして、またじっくりと決断するほうが、「あの時こうしておけば・・・」と思うより、問題を乗り越える道が断然開けてきます。

 それから、「ベストな決断をしても、それですべて方が付くものじゃない」と心の片隅にでも思っていれば、後悔へ向かう心の傾性にブレーキをかけ、レジリエンス(折れない心)を高めることにつながっていくように思います。前向きな開き直りとでも呼べるでしょうか。世の中、片づけても、片づけても、また何かが出てくるものです。

沖縄慰霊の日に想ったこと

2024-06-24 20:22:00 | Weblog
 6月23日は、太平洋戦争末期、沖縄での戦闘で犠牲となった方々を悼む「慰霊の日」でした。今年は1945年から数えて79年目にあたります。慰霊の日の戦没者追悼式には岸田総理が出席し、スピーチを行いました。24日の朝日新聞朝刊には岸田総理と、玉城沖縄県知事のそれぞれのスピーチ全文が掲載されていました。

 両スピーチを読んだ時、どちらも平和への願いを訴えているにも関わらず、どこか色合いの違うものを感じました。同じテーマなのにふたつが重なってこないなぁと感じる、その理由は何なのでしょう。もしかすると、実際に戦場となった沖縄の人たちの平和に対する思いの根底にあるのは郷土愛で、一方、政府の考える平和はナショナリズムと密接に結びついたものであり、その違いが平和を語りつつも、印象の違いとなって表れているのかもしれません。

 思うに、郷土愛は自己完結的かつ調和的で、他の人々の郷土愛をも尊重し、共存しようとの志向を持っています。方や、ナショナリズムはそもそもが自国対他国の構図を前提としており、どちらかと言えば対立的な姿勢になりがちです。この観点から岸田総理と玉城知事の23日の言葉を読み直してみました。岸田総理は言っています。「美しい自然、アジアの玄関口に位置する地理的特性、国際色豊かな文化や伝統。こうした魅力や優位性を最大限に活かしつつ、『強い沖縄経済』の実現に向けて、国家戦略として、沖縄振興を総合的に進めてまいります」と。この論理の組み立ては、ナショナリズムに基づくものと言えそうです。

 玉城知事は、「世界の平和と安定に向けて、各国・各地域に求められているのは、それぞれの価値観の違いを認め合い、多様性を受け入れる包摂性と寛容性に基づく平和的外交・対話などのプロセスを通した問題解決です」、と述べています。これは、郷土愛的を持つもの同士の連携、連帯を呼び掛けています。

 もっとも、スピーチの一部のみを切り出して「ナショナリズムだ。郷土愛だ」と決めつけるのは本意ではありません。来る慰霊の日・80年に向けて、また沖縄のみならずそれ以外の地域における平和を考えていくうえで、郷土愛とナショナリズムが交わらないまま平行線を続けていては、議論が不毛なものとなってしまいそうです。両者をつなぐ橋を架け、それぞれの質の異なる方向性のバランスを上手くとり、信頼の醸成、利害の調整を図りつつ平和が実現されることを願うものであります。

OneTeamの陥穽

2024-06-19 20:57:00 | Weblog
 組織の縦割りによる弊害として縦と縦の間の風通しの悪さ、コミュニケーションの悪さを挙げることがあります。そのことを解消するために、組織の大部屋化、今風に言えばOneTeamへ移行することが提案されることも、これまたあります。縦のメンバーが内向きになって、他の組織との連携に消極的となることは、いかにもありそうです。けれども、今は令和の世、縄張り意識に捕らわれず、メリットがあれば、組織を超えるのに躊躇しない人は多そうです。

 とは言え、大部屋、あるいはOneTeamになれば、自然と風通しが良くなり、コミュニケーションが活発になると考えるのは早計かもしれません。コミュニケーションを促すメリットがあってはじめて連携が生まれるのであって、連携やコミュニケーション自体が目的となっては、単なる仲良しの域に留まってしまい、生産性のあるコミュニケーションにはならないでしょう。組織間の壁を取り除くと同時に、お互いに利益を享受出来る素地を養っていくことが求められます。

 また、大部屋内に声の大きなグループがあって、OneTeamの名の下、大きな声を皆に押し付ける恐れがあります。異論を述べれば、「OneTeamに反するんじゃないか」と非難されるのを嫌って、声を出すのが憚られます。変な自己規制が働き、同調圧力の高まりを容認することになります。いろいろな意見や利害を調整し、合意を形成していくOneTeamは問題ありませんが、「OneTeam」の錦の御旗を振りかざし、有無を言わせず大きな声を総意に押し上げていけば、それはOneTeamの悪用に当たります。

 何事につけ、あることをすればすべてが解決するなんて、世の中そんなに甘くありません。もしそんなことを言う人がいたら、隠した別の意図があるのかもしれません。スローガンが掲げられたことで思考停止せず、どこかに「ホントかなぁ」の眼を潜ませておくのが賢明かと思います。

多様性の陥穽

2024-06-09 15:35:20 | Book
(※朝日新聞朝刊連載「折々のことば」風に)

 「多様さを地球的規模で全面的に花を開かせなくてはならない」

 技術化によって世の中の均質化、等質化が進んでいる。その中で、地域や集団において生活に現れる違いを見つけてきて、多様性が保たれていると安堵してはならない。それでは多様性が切り崩されるのを止めることにはならないし、知らぬ間に国家主義に与することにもなりかねない。それぞれの違いや多様さの底にある可能性をじっくりと見極め、合せて人間にとって普遍的な力となるものを探る営みが必要である。日本を単一民族による共通の文化基盤を持つ国と捉える史観に疑問を呈し続けてきた歴史家は、そう語る。

岩波現代文庫「網野善彦対談セレクション 2 世界史の中の日本史」所収「歴史と空間の中の”人間”」から

相対評価の陥穽

2024-05-24 19:37:00 | Weblog
 給与原資を抑制しつつも、業績の相対評価で配分傾斜を強めて社員のモチベーションアップを図る場合、デメリットとしてチームワークへの悪影響があるように思います。話を分かりやすくするため野球チームを例にとってみます。チームメイトより勝利に貢献しようと頑張るのは結構なことです。しかし、相対的に自分の評価を上げてくれるのは、自分の活躍ばかりではなく、他のメンバーの不成績もあります。自分がホームランを打つのはプラス評価ですが、仲間が三振すれば、それは相対的に自分の有利に働きます。

 チームが優勝して年俸の総額が上がるのであれば問題ないものの、総額据え置きなら、自分の利益になる他人の失敗を歓迎する向きが出ないとは限りません。相手ピッチャーの配給の癖を見抜いたとしても、自分だけのものとし、同僚にそれを伝えることを躊躇するかもしれません。仲間の低評価が自分のプラスにつながる時、みんなで頑張ろうの意識は薄れ、悪い方向での個人プレーを助長することが懸念されます。

人生を終わらせるため東大へ向かった

2024-05-12 19:25:52 | Weblog
 2022年の大学入学共通テストの日、東大理三を目指していた高校2年生が東大前で人を刺した事件は、人々に大きな衝撃を与えました。この事件の初公判は2023年10月に開かれました。以後、法廷を傍聴し続けた記者による記事が、5月11日の朝日新聞朝刊に掲載されていました。

 記事によると被告の高校生活は勉強一色。休み時間も放課後も土日も勉強漬けで、高2の夏休みの勉強時間は日に14時間でした。そして、周囲は「ライバルで蹴落とす対象」としか見ていなかったそうです。高2になって成績が下がり出し、三者面談では東大理三からの志望校変更を勧められます。東大理三の旗を降ろすと、周りからバカにされるのではと心配し、自殺を考えるようになりました。

 「テスト会場のような所で死ねたらいいんじゃないか。人を殺したり放火をしたりして人様に迷惑をかければ、死への踏ん切りがつくのでは」と思い、犯行に及びます。

 以下、公判でのやり取りです。
 検察官「勉強をやめてみて、他に誇れることはありますか」
 被告「皆無と言っていいほど、何もないです」
 裁判長「秀でたもの、本当にないですか?『人よりできること』だけを探している感じがしません?」
 被告「『秀でたこと』ならそういうことではと思い、そう答えました・・・・」
 裁判長「社会に出た時に、本当に『秀でたもの』が必要だと考えてる?」
 被告「うん・・・・」
 裁判長「お父さんは『家族に優しい』と話していた。人はたくさんいるので『人に勝ること』は、見つかりにくいんですよ。物差し、価値観はたくさんある。考えて下さいね?」
 被告「はい、精進いたします」

 少年期から青年、大人へと至る過程で、人は思うに任せられないことに遭遇します。それと同時に、自分が向き合うさまざまな人々に合わせて、自身違う面を持ち、それらを束ねる自分の核といったものを見出していきます。ままならぬことがあっても、それは自分の一部であって全部ではない。だから、挫折がそのまま自分の人格の全否定とはなりません。そうやって、自分との折り合いの付け方を学び、少しずつ大人になっていきます。

 人より秀でる物差しが理三か否かでしかなく、自分が付き合う同級生は「蹴落とす対象」でしかなく、向き合う相手が自身よりほかになければ、自分が持っている様々な可能性に気付きにくくなるのかもしれません。勉強一色の日々が、彼を少年のままに閉じ込め、大人へと成長するステップに歩を進めることを妨げていたのでしょう。人は人に向き合うことによって、自らのいろいろな面や、自身が持つ可能性の束を知り、自身を鍛え成長するものなのだろうと、この記事を読んで思いました。

のめり込んだ勉強 待ち受けた挫折 人生終わらせるため 東大へ向かった 朝日新聞デジタル:朝日新聞デジタル

のめり込んだ勉強 待ち受けた挫折 人生終わらせるため 東大へ向かった 朝日新聞デジタル:朝日新聞デジタル

 事件現場で取材を重ねても、容疑者や被告に直接会って話を聞く機会はなかなかありません。被告本人の姿を見たり、肉声を聞いたりできるのが法廷の傍聴席です。 法廷では...

朝日新聞デジタル