花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

おさけは人の為ならず

2020-03-29 12:54:14 | Weblog
 先日、出張で仙台へ行きました。仕事が終わったのは夕方6時頃、新幹線で駅弁とビールというのもちょっと味気ない感じがして、小一時間ほど引っ掛けようかとアーケード街をブラついてみました。とあるお店の前にお品書きが出ていて、パラパラめくってみると高橋庄作酒造店の「会津娘」の名前が!「レアもののお酒があるなぁ。これはついてる」と思い、お店に入りました。

 お通しが運ばれてきた時、「会津娘ありますか?」と聞くと、「ありますよ」の返事。これは嬉しい、新幹線のビールにしなかったのは正解でした。つまみはと言えば、日本酒に合うメニューがいろいろと並んでいます。その中から、先ず「ホタルイカの一夜干し」、「仙台セリの浅漬け」を頼みました。炭火の上に乗せた一夜干しがジュジュと音を出し始めました。つまみ上げてギュっと噛めばホロ苦さが舌に広がります。それをやわらかい味わいの「会津娘」で洗って、今度はセリに箸をのばしました。根っこの部分がちゃんと残してあり、セリ根の苦みも日本酒との相性バッチリ。「これは小一時間で済むかい!?」と、つい呑み助根性が出てきてしまいました。

 次に頼んだのはホヤの刺身。養殖業者と契約しているそうで、このお店では一年中食べられるとか。こちらの相棒は静岡県焼津の「磯自慢」。これまたレアもので、なかなか手に入らないお酒です。仙台で飲めるとは思いませんでした。磯の香りがするホヤに「磯自慢」、この磯と磯の組み合わせは、手前勝手ながら何だか「粋」なイメージがします。

 三杯目は山形の「秀鳳」かなと思いましたが、福島、静岡と来て、地元宮城がありません。折角の粋な感じを長尻で台無しにしてはいけないので、「秀鳳」をはさむのは止めにして、最後に地元のお酒で締めようと、お店の人にお薦めを聞いてみました。すると、出てきた銘柄は「閖(ゆり)」。初めて聞くお酒だったので、お薦めの理由を尋ねました。名取市閖上(ゆりあげ)にある老舗酒蔵の佐々木酒造店は東日本大震災で一切を失いましたが、復興への思いを一つにして再建を果たし、ここにきて市場へ商品が出せるまでになったそうです。「是非飲んでみてください」と勧められ、仙台牛の握りと合わせて注文しました。復興には並大抵ではない苦労があったかと思いますが、そのような苦労の気配をまったく感じさせない、むしろどこか華やかなところのあるお酒だと思いました。同じ宮城で言えば気仙沼の「水鳥記」に似ているかもしれません。

 軽く飲んで帰ろうと思って立ち寄ったお店でしたが、時間は短かったものの、満足度の高さはなかなかのものでした。仙台出張の機会があれば、また来てみようと思いました。そして、復興に向けて頑張った人にエールを送る意味でも、「閖」を飲みたいと思いました。誰かを応援すれば、自分の気持ちも奮い立ちます。ここ数ヶ月の抑圧感、鬱滞感からか、より一層そう思います。「閖、一合ください」、応援の気持ちを込めて、近いうちに。

三つのお願い

2020-03-21 18:08:08 | Weblog
 ニューヨークであった恐怖の事件をご紹介します。
 ある黒人ホームレスの前に神様が現れ、「三つのお願いを叶えてやろう」と告げました。喜んだホームレスは叫びます。「白くなりたい、女たちの話題の的になりたい、いつも女の股ぐらにいたい。」すると、たちまち男の姿は跡形もなく消え去り、あとには小指ほどの大きさの白いタンポンが落ちていたとか。

 言うまでもなく、これは本当にあった話ではありません。米原万里さんのエッセイ「三つのお願い」の中の小咄です。このエッセイで米原さんの言わんとしたことは、神様に願いを伝えることは難しい、つまり自分が考えていることを言葉で表現することは難しいということでしょう。文筆業のほか翻訳や通訳でも活躍し、言葉と深く関わってきた米原さんであればこそ、言葉によってイメージを伝える難しさを常々感じていたのだろうと思います。

 さて、私も休日の暇つぶしに三つのお願いを考えてみました。虚空をにらみ「何が良いか」と思っていたところ、同じく暇を持て余していた神様がいたとみえ、「よろしい、何なりと申してみよ」の声が聞こえてきました。そこで、「新型コロナウィルスが終息しますように、世の中が平常に戻りますように、世界各地からTOKYO2020に多くの人が集まりますように」と願いを捧げました。

 翌日、新聞を開くと一面の大見出しに「東京五輪、コロナの影響で延期」の文字が!? 一体全体、神様への私の願いはどうなったのでしょうか。神様と交信出来る特殊能力を持った人に頼んで、何故私の願いが聞き届けられなかったかを探ってもらいました。その結果、オリンピックの代表選考会で選に漏れたとあるアスリートが、私の願い事の後に、「感染者が減らず、五輪は延期、代表選考はやり直し」と願ったことが判明しました。

 バカ正直と言うか、無節操と言うか、とんだ神様がいたものです。聞いたことを何も考えずに次から次へと叶えていたとは。呆れながらも、私はふと思いました。世の中は案外斯様にして動いているのではないかと。

棒の如きもの

2020-03-08 15:59:25 | Weblog
 土曜日の朝日新聞朝刊には「be」という別刷りが折り込まれています。昨日の「be」には俳人・高浜虚子に関する宗教学者・山折哲雄さんのエッセイが載っていました。

 虚子が鎌倉に住んでいたある時、由比ガ浜に赤潮が発生したと聞き、飼っていた犬を連れて見に行きます。すると海岸に集まっていた人だかりの中から一匹の犬が躍り出て、虚子の犬を脅し、海の中に追い立てました。虚子は持っていたステッキで攻撃を仕掛けてきた犬を追い払おうとしますが、その様子を人々が笑って見物していることに気づきます。

 虚子の筆はそのさまを次のように描いています。「ふと気がつきますと、海岸に長く陣を敷いたやうに立つてをる群衆が、皆一せいに私の方を見て笑つてゐるのでありました。犬二匹と私のほかは何物もない、たゞ赤潮がひたひたと波打つてをる海中にあつて、運動神経の鈍い私が、杖を振り上げて一匹の犬と格闘してをつたのが、人々の良い観せ物になつてをつたといふことを知つて、俄に恥づかしいやうな心持がいたしました。」

 そこで虚子は「穴があったら入りたい」ような気持になったでしょうか? 然に非ず、虚子の先の文章は「しかし私はそのことについて後悔はしませんでした」と続きます。そこで、山折さんは虚子晩年の句、「去年今年貫く棒の如きもの」を引いて、虚子の惑わされぬ強い気持ちを「棒の如きもの」に例えています。

 さて、鎌倉・由比ガ浜と言えば、鎌倉時代に武士たちが活躍した舞台であります。司馬遼太郎さんは鎌倉武士の倫理観を「名こそ惜しけれ」の精神と呼んでいたように思います。「名を惜しむ」とは、つまりルース・ベネディクトの「恥の文化」のことでしょうが、単に人の目を気にする、笑いものにならないようにするといったものではなく、道義的なものやレーゾンデートルに照らして恥ずかしいことはしない、そのように司馬さんは見ていたと思います。時代も違い、松山出身の虚子は鎌倉武士の末裔でもありませんが、虚子における「棒の如きもの」は司馬さんの「名こそ惜しけれ」に通ずるものがあると考えてみたくなりました。