朝日新聞の従軍慰安婦に関する報道が国益を損ねたとして、同新聞社が激しくバッシングされています。同新聞社は国内のみならず海外メディアへも誤報を詫びるメッセージを発信しています。それを受けて、海外では誤報だった旨を伝えるとともに、同新聞社が国内で保守的勢力に叩かれていることが伝えられているようです。ここで、以下のようなことを思いました。国内では、「誤報=日本が悪く思われているのは朝日新聞のせい」の論調が力を得ているのに対して、私が海外、特に日本の近隣諸国の人間であったなら、そのような論調をどう思うか? 「朝日新聞の誤報にかこつけて、自分たちは何も悪くないと開き直っている」、そう見えるとすれば、結果的には朝日新聞を叩いている人たちも、幾ばくかは国益を損なっているのではないか。朝日新聞の誤報がチャラになるとは思いませんが、朝日新聞を叩くこと、否、従軍慰安婦問題をなかったことにしようとすることが国益にどう影響するか、この視点が必要なように思われます。
朝日新聞の従軍慰安婦報道に関連して、自民党、読売新聞、週刊文春などから「日本の国益を損ねた」と批判が浴びせられています。なかった強制連行を報じた朝日新聞の非はありますが、最近のバッシングの酷さを見ていると、「朝日新聞だけが国益を損ねたわけじゃあるまいに」と思ってしまいます。従軍慰安婦問題で日本がアジアの国々から非難されているのは、そもそも日本が侵略戦争を行ったからでしょう。国益を損なった責任の度合いを無視して、吊るし上げたいヤツだけに全部の罪を押しつけて叩くのは、フェアな態度であるとは言えず、そんなフェアじゃない人たちの声がやたら大きいので、何だか怖くなってきます。
朝日新聞の「従軍慰安婦」問題では、お詫びが遅いのではとの批判があり、記者会見でこのことに触れ、反省の弁がありました。思えば、ほめられることに慣れている人は、反面叱られることには不慣れなわけで、自分の失敗を認める、あるいは謝ることを先延ばしする傾向があるのかもしれません。
以上、勝手な空想ですが、記者会見を伝えるニュースに斯様なことを思った次第です。「技癢(ぎよう)」という言葉があります。手元の辞書を見ると、意味は「自分のうでまえを示したくてうでがむずむずする」です。腕に覚えがあったり、人に認めてもらいたいと思えば、「技癢」の念を抱くこともあるでしょう。それがプロ意識に支えられれば、「徳州会から猪瀬都知事に5000万円」になり、名声に惑わされた挙句、前のめりになれば、「命令に反して撤退」になり、「技癢」は明にも暗にも転じます。ともあれ、事実を伝えることへの謙虚さを疎かにする、こころの隙があったことは確かでしょう。最後に我が身を省みれば、朝日新聞を他山の石として、「謝る時はさっさと謝る」を肝に銘じることにします。
以上、勝手な空想ですが、記者会見を伝えるニュースに斯様なことを思った次第です。「技癢(ぎよう)」という言葉があります。手元の辞書を見ると、意味は「自分のうでまえを示したくてうでがむずむずする」です。腕に覚えがあったり、人に認めてもらいたいと思えば、「技癢」の念を抱くこともあるでしょう。それがプロ意識に支えられれば、「徳州会から猪瀬都知事に5000万円」になり、名声に惑わされた挙句、前のめりになれば、「命令に反して撤退」になり、「技癢」は明にも暗にも転じます。ともあれ、事実を伝えることへの謙虚さを疎かにする、こころの隙があったことは確かでしょう。最後に我が身を省みれば、朝日新聞を他山の石として、「謝る時はさっさと謝る」を肝に銘じることにします。
東電福島第一原発の故吉田所長への聞き取りを基にした「吉田調書」に関する報道において誤りがあったとして、朝日新聞社は9月11日の夜、記者会見を開き、謝罪しました。同新聞社は、30年以上前の「従軍慰安婦強制連行」報道が虚偽の証言によるものだったとして、この8月にお詫びならびに検証記事を掲載したばかりでした。そのほか、同新聞社の報道における不祥事としては、当時の田中康夫長野県知事の新党立ち上げについて、架空の取材メモを作成し記事にした事件が、まだ記憶に残っています。
朝日新聞社は時の総理大臣や東京都知事を辞任に追い込むような、「政治とカネ」にまつわる大スクープの実績が多々あります。新聞記者であるなら誰しも、一面トップを飾りたい、新聞協会賞をとってみたい、といった思いがあるでしょう。その一方で、思いが強すぎて功を焦る気持ちがないとも言い切れないように思います。今回の「吉田調書」問題では、「功を焦ったのではないか」、そんなことが頭をよぎりました。
さて、ここからは全くの想像です。小さい頃から成績優秀、名の知れた高校、大学へ進み、難関を突破して新聞記者になった人がいたとしましょう。いつもほめられていたので、ほめられることがこころのエネルギーになっています。でも、新聞記者になってみると、周りにも似たような人たちがいます。ほめられたい人がたくさんいたとしても、ほめてくれる人には限りがあります。そうなると、ほめてもらうためには、熾烈な競争に勝つ必要があります。結果を求めるに性急なあまり、つい・・・、みたいなことが。
朝日新聞社は時の総理大臣や東京都知事を辞任に追い込むような、「政治とカネ」にまつわる大スクープの実績が多々あります。新聞記者であるなら誰しも、一面トップを飾りたい、新聞協会賞をとってみたい、といった思いがあるでしょう。その一方で、思いが強すぎて功を焦る気持ちがないとも言い切れないように思います。今回の「吉田調書」問題では、「功を焦ったのではないか」、そんなことが頭をよぎりました。
さて、ここからは全くの想像です。小さい頃から成績優秀、名の知れた高校、大学へ進み、難関を突破して新聞記者になった人がいたとしましょう。いつもほめられていたので、ほめられることがこころのエネルギーになっています。でも、新聞記者になってみると、周りにも似たような人たちがいます。ほめられたい人がたくさんいたとしても、ほめてくれる人には限りがあります。そうなると、ほめてもらうためには、熾烈な競争に勝つ必要があります。結果を求めるに性急なあまり、つい・・・、みたいなことが。
今年8月9日、長崎で被爆者の方々が安倍首相に「集団的自衛権より必要なのは緊張緩和への政府の取り組みではないか」と意見を述べた際、首相は「丁寧に説明すれば集団的自衛権を理解してもらえる」と答え、さらには「見解の相違」の言葉で話を打ち切ったことが、長崎原爆の日に関する新聞報道の中にありました。
本日の朝日新聞夕刊に掲載されている池澤夏樹さんの連載コラム「終わりと始まり」でこのことが取り上げてあり、池澤さんは「『見解の相違』とは同等の立場の者に向かって言う言葉である。あなたはこの国を指揮する立場、政策すべてについて説明責任があるはずだ」と、批判を述べています。確かに「丁寧に説明すれば」と言いながら「見解の相違」で話を打ち切っていては、説明責任を果たしていません。平和式典における挨拶が昨年のコピペであったことといい、「言葉が随分軽いねぇ」と思います。
本日の朝日新聞夕刊に掲載されている池澤夏樹さんの連載コラム「終わりと始まり」でこのことが取り上げてあり、池澤さんは「『見解の相違』とは同等の立場の者に向かって言う言葉である。あなたはこの国を指揮する立場、政策すべてについて説明責任があるはずだ」と、批判を述べています。確かに「丁寧に説明すれば」と言いながら「見解の相違」で話を打ち切っていては、説明責任を果たしていません。平和式典における挨拶が昨年のコピペであったことといい、「言葉が随分軽いねぇ」と思います。