花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

売家と唐様で書く三代目

2016-11-28 21:57:18 | Book
 「売家と唐様で書く三代目」、これは、繁栄した家でも三代目あたりになると没落していくことを指した川柳です。「唐様で書く」は、家業をないがしろにし、遊芸にうつつを抜かして家産を潰すことを皮肉っています。少し前に北杜夫の「楡家の人びと」(新潮文庫)を読んだ時に、この言葉が思い浮かびました。青山で豪壮な病院(実は安づくりのハリボテ)を経営する初代は俗物の権化のような人ですが、一代で大病院を興すだけあってエネルギッシュさは相当なものです。婿養子の二代目は学究肌、三代目は世の中をシニカルに見る無精者です。関東大震災や太平洋戦争の外部的な要因もありますが、先の川柳の例に漏れず楡家は徐々に零落していきます。読みながら、初代の頃の熱気や勢いがだんだんと衰えていくのはどうしてなのかと考えました。思うに、己の野心や欲望がギラギラしている人は精力的に事業に取り組み、事業が栄えれば「もっと」「さらに」とまた欲望の火が燃え盛ります。自分自身の欲望が尽きない限り、倦むところを知りません。ところが、ある程度事業が成功した後の二代目、三代目はどうでしょうか。本人のやりたいことや向き不向きとは関係なく、事業の後継者の役割が外から与えられます。楡家の場合は病院の院長です。初代にとっては自分の野望であったものが、二代目、三代目の眼には守るべきものとして映ります。その差は決定的だと思います。自分のやりたいことに形を与えていく初代と、与えられた形に自分を合わせていく二代目、三代目。この違いが知らず知らず創業時の熱を奪っていくのでしょう。しかしながら、冷えていても何代にもわたって既得権益を固定化し社会の流動性を失うよりも、繁栄と没落があっても環境に対応していく新しいプレーヤーが現れる方が、社会全体としては健全なのではないかと思います。

福井紀行 最終日

2016-11-26 09:20:22 | Weblog
 福井県大野市は名水の街です。冷涼できれいな水がないと生きられないトゲウオ科の魚、イトヨが生息する街です。もうひと月以上も前ですが、大野市内にあるイトヨの里を訪れ、実際に体長5センチ程度のイトヨを見て、その後生態についての説明を聞きました。イトヨのオスはイクメンです。せっせと巣作りに励み、水草などと自分の身体から出る粘液で巣をこしらえます。時として完成前の巣にメスが入り込み滅茶滅茶に壊されることもあるそうです。メスは卵を産むとさっさと巣を出ていき、中には産んだ卵を食べるのもいます。オスは巣の中に水を送り込むため、産卵後10日間くらいは休まずひれを動かし続けます。同時に卵を狙う連中から卵を守ります。自分の何十倍も身体が大きいアメリカザリガニが巣に向かって来れば、果敢に体当たりします。メスが卵を食べようとしたら、求愛ダンスで相手の関心を転じさせ、巣から離れた場所へ誘導します。涙ぐましいまでの子育てぶりです。通常、イトヨは1年~1年半の寿命だそうですが、まれにいる子育てをしない個体には3年くらい生きるのもいるとのことです。子育てはそれだけ大変なことなのだと思いました。福井を旅した最後に、頑張っている小さな魚の姿を見て、何だか勇気づけられて帰途につきました。

勝って兜の緒を締めよ

2016-11-10 07:15:15 | Weblog
 今回のアメリカ大統領選挙は稀にみる接戦、そして稀にみる中傷合戦でした。選挙が多数決に基づくものである以上、数が力を持つのは当然ですが、多数決はどういう考えに拠るのかを忘れてはなりません。明らかな真理は分からないけれど、ものごとを進めるためにいくつかある選択肢からどれかを選ばなければならない時、私たちは多数決を取ります。と言うことは、多数を得たとしてもそれは真理を意味せず、当面のレジティマシー(正統性)を与えられたに過ぎません。それは正義の剣が与えられた訳ではなく、「とりあえずそれでやってみよう」言ってもらっただけです。その意味からすると、相対的に良さそうな方へ、より良いものを目指す責を負わせたと言っても良いかもしれません。選挙のたびに、多数決は暫定的な解を求めるための方便であり、一番多い票数を獲得しても謙虚であることを忘れないようにしなければならないと思います。「そんなこと知るか」と言う人が居ても、私はそう思います。