花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

瑞牆山

2008-06-29 23:16:02 | 季節/自然
 28日の土曜日、弟と瑞牆山に登りました。歩き始めから身体が重く、首筋から背中にかけて滴り流れる汗に、昨日のビールが汗に変わっていくなぁ、次には今度は焼酎だなどと思いながら、富士見平小屋への道を登って行きました。また、身体の重さに、山へ行く前日に飲んでしまったことへの贖罪の意識を感じたりもしました。富士見平小屋を過ぎ、天鳥川を飛び石伝いに渡り、コメツガの樹林を眺めたり沢を流れる水音を聞いたり、倒木を避けたり岩に手を掛けながらよっこらしょとしたりしているうちに、巨岩奇岩が急に眼前に迫ってくると頂上までは一投足です。このあたりからちら(ほら)と石楠花のピンクの花が現れました。梅雨の最中でしたが、幸いにも雨に降られることはなく、2230メートルの瑞牆山頂に到着。ただ、雲に覆われた山頂からは瑞牆山自慢の大パノラマを楽しむことは出来ませんでした。それでも、山頂に至るまでの道筋で、時々雲の切れ間から差し込んできた陽射しと空の青、それから木々の緑で充分満足でした。

逆らえないもの

2008-06-17 21:08:41 | Weblog
 父の日のプレゼントに子供が作ったペン立てをもらった翌日、朝ごはんを食べている時に、「私が作ったペン立てを会社に持っていってね」と言われ、鞄の中で潰れないように気をつけながらの通勤となりました。またその通勤では後楽園から銀座まで行くところを、逆方向へ通園する子供に「途中まで一緒に行こう」と言われたので、丸の内線で池袋に出て副都心線に乗り換え、途中駅で子供と別れ自分は新宿3丁目でまた丸ノ内線に乗り換えて銀座へ。10分ちょっとで行けるのが乗換含めて40分以上も掛かりました。夜は夜で、比較的早く帰宅したこの夜、子供から「私に逢いたくて早く帰ってきたんでしょ」と言われるありさま。いったい、どこでそんな言葉を覚えて来るんだか。

水谷豊+寺脇康文=ブルース・ウィリス

2008-06-06 22:14:40 | Weblog
 映画「相棒 -劇場版- 絶体絶命!東京ビックシティマラソン 42.195㎞」を見て思ったこと。水谷豊の頭脳と寺脇康文の肉体を足すと、ダイ・ハードのブルース・ウィリスになると。水谷豊扮する杉下右京は、該博な知識と明晰な推理力で(という設定。実際はかなり無理な推理もありますが)犯人の出方を読んでいきます。方や、寺脇康文が演ずる亀山薫は、腕力と体力で犯人を追い詰めていきます。さて、ブルース・ウィリスの当たり役である、ダイ・ハードのマクレーン刑事は、杉下右京のような冷静沈着なタイプではありませんが、犯人が何を狙って何を仕掛けてくるかについての読みでは、決して杉下右京に引けはとりません。そして、マクレーン刑事が肉体派であることはご存じの通りです。つまり、マクレーン刑事は一身にして、相棒二人を兼ねていると言えなくもありません。そうやって見てみると、それ以外の部分でも、犯人は過激派と思わせて実はそうでないところ、相手の姿が見えない状態での知恵比べ、東京中が舞台となる相棒に対して、ニューヨーク中が舞台となるところ(ダイ・ハード3)、杉下右京あるいはマクレーン刑事が犯人の次なる手を読むことで話の筋がグイグイ進んでいく展開の仕方、などなど、結構共通点があるなぁ、と思いました。

永遠には勝ち続けられないのだから

2008-06-03 22:09:36 | Weblog
 昨日の朝日新聞朝刊に作家・塩野七生さんと文化人類学者の渡辺靖さんの対談が載っていました。「寛容な世界は可能ですか」と題したこの対談を要約すると、次の通りです。「ローマ帝国は寛容な帝国で、征服した民族の宗教を尊重し、ローマの市民権を与えたりもした。その寛容さの根っこには多神教があり、自分とは異なる神を認める文化があった。一方、現代の帝国であるアメリカは、強大な軍事力を背景に恫喝外交を展開し、ローマのような寛容さは持ち合わせていない。アメリカはキリスト教の国で、絶対神しか認めない一神教に寛容さはそぐわない。今、ローマ帝国の寛容の精神を見直す必要がある。」極めて大雑把ではありますが、こんな趣旨でありました。
 奴隷を労働力とすることで成り立っていたローマ帝国、キリスト教徒を迫害したローマ帝国、果たして今日の私たちがイメージするような意味での寛容さを古代ローマの人たちが持っていたかどうかは疑問です。また、征服地に寛大な処置を施したのはあくまで統治技術のひとつであったのではないか、と思えないでもありません。しかしここでは、ローマ帝国が寛容であったかどうかよりも、アメリカの不寛容の源泉がキリスト教であるのかどうかについて、一言述べてみたいと思います。
 アメリカの社会学者、ロバート・キング・マートンという人の「社会理論と社会構造」(みすず書房刊)に、興味深い記述があります。これもざっと要約すると、アメリカでは富や出世といった現世的な成功が過度に賞揚されており、加えて万人に成功を得るための機会が与えられていると信じられています(実際には競争において不利なポジションに置かれている人が居るにも拘わらず)。その結果、アメリカにおいて敗者がどのような捉え方をされるかについて、マートンはこう述べています。「成功や失敗は、全く個人的性質の結果であって、失敗者は自分だけを咎めねばならない。というのは、独立自営の人間という概念から必然的にもち出されるのは、自業自得の人間だからである。出世できなかった人々がこの文化的規定を身につけるかぎりにおいて、失敗は二重の意味での敗北を示している。すなわち、成功の競争でずっと後れをとったという明示的な敗北と、成功に必要な能力や道徳的気力をもっていないという暗黙の敗北とがこれである。」
 私には、多神教=寛容、一神教(キリスト教)=非寛容、と図式化することは無理があり、マートンが見て取ったアメリカの成功至上主義が他者への寛容さに欠ける態度に大きく影響しているように思えます。仮に、アメリカの非寛容さをキリスト教のせいに帰しても、おいそれとはキリスト教を捨てられるはずもありません。それよりも、例えば成功するためには寛容であることが求められるような、そんなムーブメントを興す良い手だてはないものでしょうか。