詩人の田村隆一さんが京都の銀閣寺を訪れた時のことです。観光客が多くてゆっくりと銀閣寺と向き合えなかったようで、次のような言葉を述べています。
「銀閣寺の庭も、人声と足音にみちていて、これが観光シーズンなら、いったい、どういうことになるのかしら。白昼の向月台と銀砂灘を横目で見て、上の庭、初期浄土庭園の原型を模したといわれる枯山水の石組みと、お茶の井をながめておりてきたが、この月光寺院の庭を満喫するためには、秋の満月の夜、寺塀をのりこえて、ひとり忍びこむよりほかに手はなさそうだ、と、ぼくは空想する。(中略)・・・京の庭は、閉じられていなければならぬ、閉じられていてこそ、京の庭なのだ、どうしても、京の庭が経験したかったら、忍びこむのだ、観覧料を払った瞬間、京の庭は消滅する・・・」(「詩人の旅(中公文庫)」)
田村さんのこの気持ちに私も首肯します。某日、瑞巌寺にて屏風絵に囲まれた堂宇内の各部屋を見た際、これらと対峙するには静謐が必要だと思いつつも、観覧の人の波に押されるようにして、立ち去り難い思いを感じながらその場を離れたことがあるからです。
日本の文化的遺産に多くの人々が触れることに異存はありませんが、しじまの中でじっくりと向かい合いたいという無い物ねだりを思うのも、また、それが簡単に叶わないのも、まさに文化的価値の高さの証左と見て、自らを慰撫するしかないのかもしれません。
「銀閣寺の庭も、人声と足音にみちていて、これが観光シーズンなら、いったい、どういうことになるのかしら。白昼の向月台と銀砂灘を横目で見て、上の庭、初期浄土庭園の原型を模したといわれる枯山水の石組みと、お茶の井をながめておりてきたが、この月光寺院の庭を満喫するためには、秋の満月の夜、寺塀をのりこえて、ひとり忍びこむよりほかに手はなさそうだ、と、ぼくは空想する。(中略)・・・京の庭は、閉じられていなければならぬ、閉じられていてこそ、京の庭なのだ、どうしても、京の庭が経験したかったら、忍びこむのだ、観覧料を払った瞬間、京の庭は消滅する・・・」(「詩人の旅(中公文庫)」)
田村さんのこの気持ちに私も首肯します。某日、瑞巌寺にて屏風絵に囲まれた堂宇内の各部屋を見た際、これらと対峙するには静謐が必要だと思いつつも、観覧の人の波に押されるようにして、立ち去り難い思いを感じながらその場を離れたことがあるからです。
日本の文化的遺産に多くの人々が触れることに異存はありませんが、しじまの中でじっくりと向かい合いたいという無い物ねだりを思うのも、また、それが簡単に叶わないのも、まさに文化的価値の高さの証左と見て、自らを慰撫するしかないのかもしれません。