花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

ツライお仕事

2016-10-27 07:36:24 | Weblog
 月曜日、会社から帰って細々としたことをやっていたら寝るのがすっかり遅くなってしまいました。録画した相棒の再放送を見たり、洗濯をしたり、食器を洗ったり、たまっていた分の日記をまとめて書いたり、読みかけの文庫本の続きを読んだり、などなどです。翌火曜日は仕事のためいつもより1時間以上早く家を出て、何だかんだとみっちり仕事をして、会社を出たのは零時少し前でした。やれやれと思いながら駅へ向かい、電車に乗った時は水曜日になっていました。今日に限って言えば電通の社員並みに働いたのかもしれません。途中の乗換駅ではホームにいっぱいの人が並んでいました。どうやら電車の中でゲロゲロしちゃった人がいて、介抱や車内清掃のため電車のドアが閉め切りになっていたようです。こんな深夜にゲロゲロの片付けやゲロゲロしちゃった人のお世話をしなければならない駅員さんは、ツライ仕事だと思います。

福井紀行 2日目

2016-10-21 21:08:02 | Weblog
 今回の福井旅行のメーンイベントである荒島岳登山は、またとないド快晴の下でした。荒島岳は深田久弥の日本百名山に選ばれている山ですが、「深田久弥の故郷の山でなかったら選ばれなかった」と悪口を言う人がいるそうです。福井の隣の石川県にある白山の雪をまとった美しさや、同じく隣県、滋賀、岐阜にまたがる伊吹山の豊富な植物相に比べるとアピールポイントに乏しく地味な感じは否めません。越美北線・勝原駅から車でほんの数分のところにあるスキー場跡が登り口です。最初はゲレンデ歩き、駅近でゲレンデ跡がスタートであるあたり、お手軽な感じがして百名山の有難味は感じられません。続いて樹林に入りしばらくすると立派なブナ林になり、途中「トトロの木」と札があるブナの古木がありました。確かに立派なブナ林ですが、「天城山の方が見ごたえがあるな」と思いました。西丹沢あたりの山を歩いている感じが何となくして、登山道自体にも数多ある山の中からたった百に選ばれるほどの趣きはなさそうでした。「深田久弥の故郷だから」にうなずけないこともありませんが、思うに荒島岳の素晴らしさは登山の対象としてのものではないのかもしれません(もちろん登山の対象としても、優良可で言えば優に入りますが)。標高が上がるにつれ、荒島岳を取り巻く盆地が見えてきます。盆地には整備された田圃が広がっています。昨日泊まった林湊の夕食では福井産の食材が使われていましたが、特にお米が美味しく、久しぶりに「お米が美味しいなぁ」と思いました。サトイモをはじめそのほかの農産物もみな美味しくて、この土地の肥沃さがうかがえました。登山道から見える盆地やその周りの山々、そして盆地に流れ込む九頭龍川、これら豊かな自然が福井の美味しさを支えていて、荒島岳はその豊かな自然の象徴的存在ではないかと感じました。盆地の中央には越前大野の市街があり、越前大野は小京都と言われていることからすれば、きっと文化の色濃い街なのでしょう。自然の恵みによって幾星霜にわたり文化が育まれてきたことでしょう。そう考えると、「深田久弥の故郷だから」云々の悪口はチャンチャラ可笑しく、百の名山に選ばれうる風格を十二分に備えている山になります。荒島岳の頂上は360度のパノラマでした。煙を上げる御嶽、その左には乗鞍、そのまた隣には北アルプスの連なり、槍と穂高の間の大キレットも分かるくらいの好展望でした。日本三名山、加賀の白山も間近に望めます。白山と荒島岳は標高で言えば1200メートルくらの差があります。北アルプスより西では日本最高峰の白山が当然高いのですが、仰ぎ見るような感じは全くありませんでした。

福井紀行 1日目

2016-10-19 21:38:19 | Weblog
 最近、2泊3日で福井を訪れました。初日は道元を開祖とする曹洞宗の永平寺で坐禅を組みました。永平寺門前にある「てらぐち」でおろしそばを食べた後、永平寺に入りました。受付を済ませ、「単」と呼ばれるタタミ半畳くらいの坐禅を組むスペースが並ぶ部屋へ行き、坐禅の作法について説明を聞きました。おしりの下には「坐蒲」(ざふ)という丸い座布団のようなものを敷き足を組みます。鐘が3つ鳴って坐禅が始まりました。最初は自分の姿勢が言われた通りになっているか気になり、微妙にあごを引いたり背筋を伸ばしたりしていましたが、だんだん視線が一定してきました。20分近く経った頃、何となく「静けさが聞こえる」とでも表現出来るような感覚になった頃、鐘がひとつ鳴り坐禅が終了しました。もうちょっと続けていたかったなぁと思いつつ、文殊菩薩が守る坐禅部屋を離れました。たかだか20分あまり坐禅を組んだだけで偉そうなことは言えませんが、中島敦の「名人伝」で弓の名人の紀昌(きしょう)が修行を経て無我の境地に至り、「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」と言い、ついには弓を取らなくなったことと、只管打坐の末に得られる悟りの境地は通ずるものがあるのかもしれいないなぁと思いました。
 この日、永平寺から車で1時間足らず走った勝原(かどはら)の民宿「林湊」(はやしみなと)に泊まりました。さぁ寝ようという時、同じ部屋の大先輩が大きないびきをかき出しました。隣の布団でグォォォー、グォォォーとやられ、寝られたものではありません。目をつぶってじっと我慢をしていたら、だいぶ経った頃、一瞬いびきが止まりました。やれやれ良かったと思ったのも束の間、今度はヒュルルー、ヒュルルーです。なおしばらく我慢していましたが、ヒュルルーからグォォォーにまた戻った時には「この野郎」のボルテージがかなり上がっていました。この部屋にはカメムシが一匹迷い込んでいて、ずっと飛んだり這いずり回ったりしていました。「カメムシを口の中に入れてやろうか」と思いましたが、「永平寺で坐禅を組んだその日にやることじゃないな」と思いとどまりました。

みきゃん

2016-10-12 20:45:22 | Weblog
 体育の日の3連休のため今週は稼働日が1日少なくなるので、少し仕事を進めておこうと思い中日の日曜に会社へ出ました。会社の帰り、駅前広場で愛媛県のPRイベントが行われていました。物産販売のテントを覗いてみると、ゆるキャラ「みきゃん」のキャラクターグッズがありました。子どもが喜ぶかもとハンドタオルやお菓子を買いました。お菓子を買って帰れば家族はまぁ喜んでくれるでしょうが、ハンドタオルが今必要かと言えばそうではありません。単にみきゃんのキャラクターにお金を払ったことになります。モノの使用価値、利用価値ではなくイメージや差異性を求めることが主となった消費のことを、フランスの哲学者であるボードリヤールは記号的消費と呼びましたが、まさしく記号的消費だなぁと思いました。また、社会学者・見田宗介さんが「現代社会の理論」(岩波新書)で書いていた「ココア・パフ」の話も思い出しました。トウモロコシに少し味をつけ、ココア・パフと洒落たネーミングをすることで仕入れの25倍の値段で商品を売ったアメリカの食品会社を例に引きながら、付加価値により売上当たりのトウモロコシ消費は25分の1になったとしています。つまり、情報化により資源の費消によらずとも売上を増やすことが出来ると言う訳です。そして、そこに収奪的ではない仕方で需要を産み出す可能性を見るとともに、消費社会の持続可能性をも見ています。ほんの気まぐれの買い物が家族の気を引くだけではなく、社会の持続可能性にもつながっていたとは思いませんでした。でも、差し当たり必要ないものを買ったのは浪費と言えるかもしれません。電車の吊り革につかまりながら、いろいろ考えてしまいました。