花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

G.Wに読む本

2012-04-29 23:33:07 | Book
 数日前、朝日新聞朝刊に載っていた新潮文庫の広告で「さよなら怪傑黒頭巾」のタイトルを見た時、「あぁ、いいタイミングだなぁ」と思いました。庄司薫さんが書いたこの本は、G.Wのとある一日、主人公のお兄さんの友人の結婚式を中心舞台とし、そこに現れるいろいろな人と主人公の係わりを通じて、理想と現実の相克、そして現実の前に退却を余儀なくさせられる理想と、理想の退却を前にして若者の正義感から湧き上がる葛藤が描かれています。G.Wの「どっと繰り出す」的な過ごし方がどうも肌に合わない私は、5月の爽やかな陽光の下、真面目な、けれども必要以上に深刻になったりしない、醒めた目を持った主人公の周りで展開される「どっと繰り出さない」一コマ一コマが妙に好ましく思われ、この時期何回か書棚から取り出しては読み返すことがありました。そんな思い出があったので、「いいタイミングだなぁ」と思った訳です。
 さて、では今年のG.Wに何を読むかです。大型連休に合わせて大部の本に取り組みたいところですが、家族サービスをおろそかにすることは出来ません。ちょっとした合い間の積み重ね、あるいは運よく生まれた空白の一日で読み切れる分量にしなければなりません。読みたいと思っていた本の中から、この条件に合う次の2冊を候補に考えてみました。ひとつはオフェイロン著「アイルランド」(岩波文庫)、もう一冊は井上浩一著「ビザンツ 文明の継承と変容」(京都大学学術出版会刊)です。ところが、G.W突入前日の27日、朝日新聞朝刊一面の書籍広告で「垂壁のかなたへ」(白水社刊)を目にして、新たな候補が名乗りを上げることになりました。私が好きな登山本である「垂直の記憶」(山野井泰史著・山と渓谷社刊)とタイトルが似ていることに加え、広告中の「世界最強のクライマーが綴る」のコピーに、かつて世界最強と謳われた山野井さんとこれまた通ずるものを感じ、「これは期待出来る一冊かもしれない」と思いました。「ビザンツ 文明の継承と変容」はしばらく寝かせていた本なので、もう少し眠ってもらっても構わないだろうと考え、ひとまずG.W後の通勤本へ回すことにしました。そこで、G.W初日の28日、「アイルランド」と「垂壁のかなたへ」の雌雄を決するべく神保町へ出掛けました。最初に岩波ブックセンターで「アイルランド」を何ページか読んでみました。アイルランドの歴史と文化に関する記述に興味をそそられつつも、以前読んだ司馬遼太郎の「愛蘭土紀行」(朝日文庫)の方が読書の満足度が高いような気がし、いずれ「愛蘭土紀行」を再読すれば良いようにも思えました。次に三省堂で「垂壁のかなたへ」を手に取って初めの数ページを読んでみました。「物事がシンプルになればなっただけ、体験は豊かになる」のフレーズが私の目を捕らえ、これはきっと私の好みに適う内容だと思いました。また、著者のスティーブ・ハウスさんは、「最後は自分を燃やしながら登るしかない」と言ってブドウ糖をなめるだけで頂を目指した山野井泰史さんと、登山スタイルにおいても重なり合うものがあると思いました。この時点で勝負がつきました。あとは、家族サービスの隙を縫って読書の時間を捻出するだけです。

一筋縄では行かない

2012-04-23 23:34:17 | Book
 網野善彦著「日本社会の歴史」(岩波新書)の上中下、3巻を読み終わり、「人間の営みというものは一筋縄では行かない」と強く感じました。この本では政治史に関わる記述が比較的多いのですが、「中央集権-地方分権」と「農業重視-交易重視」の2つの対立軸を大きな枠組みとして、その対立軸が交錯しながら、各時代で「中央-地方」と「農業-交易」の間の押したり引いたりが述べられています。中央集権的で農本主義的な大和朝廷があるかと思えば、平安時代では藤原氏の摂関政治による中央集権あり、平将門の乱にみられる地方勢力の勃興あり、また西日本の交易ルートを押さえようとする平清盛ありと、2つの軸の上を中心がいろいろと動いていきます。その後の時代でも、楽市楽座の下、盛んに交易が行なわれる戦国時代があるかと思えば、江戸時代になると農本主義が力を盛り返してくるように、どちらかがどちらかを抑え込むといったことはなく、世の中は2本の軸の上で移ろいゆきます。「時の流れ」という言い方がありますが」、歴史は川の流れに喩えるよりも潮の満ち引きに喩える方が、それも単に寄せては返す波ではなく、上下左右の4つの象限を複雑に行き来する波と捉える方が良さそうにも思えます。その他、この本では、東北や北海道、あるいは琉球など、独自の文化を展開する社会にも頁が割かれており、「日本社会の歴史」を読むと、「日本の歴史とは、つまりこうだ!」と簡単にまとめることが出来ないと分かります。
 ところで、最近、新聞を見ていて2冊の本の広告が気になりました。1冊は宝島文庫の「読むだけですっきりわかる日本史」です。広告では、「500円(ワンコイン)で日本の歴史がまるわかり!」とあります。「一筋縄では行かない」と思わせる「日本社会の歴史」とは大きな違いです。さて、もう1冊は、ウィリアム・H・マクニール著の「世界史」上下巻(中公文庫)です。こちらの広告には、「たった2冊で大丈夫!世界史を理解する最後のチャンスです」とあります。「すっきりわかる」とか「たった2冊で大丈夫」とか、何とも心強い言葉です。自分が読んでいないので、これらの本についてとやかく言うつもりは全くありません。ただ、広告を見て気になったのは、次のようなことです。この広告を見て心が動かされる人は、きっと歴史の知識をお手軽に得たいと思っている人で、お手軽に得られた知識で分かったような気になる歴史とは、分かりやすい部分だけを抜き出して単純化したものではないかと想像されます。そして、古今東西の人間の営為を単純化して捉えることに疑いを持たずに、「すっきりわかるなぁ」と満足していれば、歴史をリスペクトする気持ちが薄くなるのではないかと心配になりました。面白くて分かりやすいことは大切だと思いますし、ことさら難しくすることで何か箔が付いたと思うのは愚かしいと思いますが、それにも関わらず、すっきりわからないこと、一筋縄では行かないことに真正面から向き合うことは、先人の営みに対してリスペクトする気持ちが沸き起こる契機になるので、歴史をすっきりわかりたいとする気持ちがあまりにも勝ちすぎるのは如何なものかと思います。

本当の個性とは (下)

2012-04-09 22:42:34 | Book
 「イタリア紀行」におけるゲーテと「例の大尉」との比較を続けます。ゲーテは自分を磨くものが何かを知っていて、それにこだわる姿勢を貫きます。一方、「例の大尉」は「色々のことを、雑然として頭に持って」おり、専一に何かに励むということはなさそうです。この両者の態度を料理に喩えてみます。「例の大尉」は料理とも言えなさそうですが、「闇鍋」でしょうか。出来上がったものは変な味とは言えても、個性的な味と言える代物ではありません。では、ゲーテはどうでしょう。ゲーテは和食なのか中華なのか、あるいはイタリアンなのかは分かりませんが、ある料理を極めようとしている料理人で、その極めるべき料理と相容れない料理には手を伸ばそうとしません。自分が選んだ料理の道をひたすら極め、極め抜くことで前人を超えようとします。斯道において今まで誰も到達したことのない高みに達した時こそ、新しい料理の世界を創造出来ると信じています。奇を衒ったり、人と違ったものや、新奇なものを追い掛けることには背を向けて、和食なら和食の精髄を求めて研鑽を積みます。誰もが仰ぎ見るケルンのその上に、新たな石を積上げることで、自分だけの境地が切り開けると信じる、そういう立場です。ゲーテにおける本当の個性とは、自分が選んだ道をただひたすらに突き抜けていった、その先に見えてくる性質のものだと思います。人がやらないことではなく、人が出来ないことにこそ、ゲーテの目指す個性があるのだと思います。

本当の個性とは (上)

2012-04-01 17:25:10 | Book
 ゲーテの「イタリア紀行(上)」(岩波文庫)に次のような記述があります。「聖フランチェスコの葬られているバビロン風に積み重ねられた寺院の巨大な下層建築は、私に嫌悪の念を覚えさせたので、そのため見物はせずにそれを左に見て進んで行った。もしこんな建物へはいったら、誰でも例の大尉の頭のようになってしまうだろうと想像したからである。」 アッシジを訪れたゲーテは、聖フランチェスコが眠る寺院を、これは自分の審美眼に合わないとして敢えて足を向けようとはしませんでした。私のような凡夫なら、アッシジと言えば聖フランチェスコ、聖フランチェスコにゆかりのあるところは何でも見てやろうと思うはずですが、ゲーテはそうはしませんでした。ゲーテは自分を磨くものが何であり、自分を腐らせるものが何であるかを知っていて、自分を磨くものを慎重に選び取っていたのでしょう。取りあえず見ておかなければ損をするとばかりに、何にでも飛びつく、私をはじめとするよくありがちな人たちとは大違いです。
 さて、先の引用の中に「例の大尉」とありますが、ゲーテはその大尉が述べた言葉を紹介しています。曰く、「人間は一つのことにばかり拘泥していてはいけません。そうすると、誰でも気が変になるものです。われわれは色々のことを、雑然として頭に持っていなければなりません。」ゲーテが聖フランチェスコの眠る寺院に入ったら、大尉の頭のようになってしまうと恐れたということは、大尉のようにはなりたくない訳で、それはつまり色々のことを雑然と頭に持つ人間にはなりたくないことを意味しています。ゲーテは自分を磨くものを慎重に選び取っていたと言いましたが、ゲーテの態度とは逆に、何にも拘泥しないで色々のことを雑然と頭に持つ人は、磨くべきものも、さらには腐るようなものも持ち合わせていない、内容空疎な人ではないかと思えます。
 次回は、ゲーテを手掛かりとして、本当の個性とは何かについて考えてみたいと思います。