花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

地下鉄の駅で見かけた立花隆さん

2021-06-27 13:38:43 | Weblog
 昨日のブログで立花隆さんのことを書きましたが、今日は実際にお見掛けした時の思い出を書きます。十年かもう少し前、都内のある地下鉄の駅で地上へ出ようと階段をのぼっていたら、前にしょぼくれたおじいさんが歩いていました。よれよれの服で、髪はぼさぼさ、ホームレスに間違われても仕方がないようなみすぼらしさでした。そのおじいさんがゆっくりゆっくり階段をあがっていて、私は追い越そうかどうしようかと後ろについていました。あまりのゆっくり加減に追い越そうと思った時、おじいさんが手に持っていたコンビニ袋が目に留まりました。畳んだ新聞が袋からはみ出していましたが、それは英字新聞でした。ホームレスにインテリもいるもんだと思いながら、追い抜きざまに顔を見ると、それが立花隆さんでした。その節は知の巨人をホームレスかもと思ってしまい、大変失礼致しました。

知の旅は終わらない

2021-06-26 17:25:59 | Weblog
 評論家の立花隆さんが4月30日に亡くなっていたと先日ニュースが流れました。享年八十。立花さんの最後の著書(たぶん?)「知の旅は終わらない」(文春新書)の中に、人生観を次のように語った箇所があります。

 「すべての人の現在は、結局、その人が過去に経験したことの集大成としてある。」
 「ふりかえってみれば、僕の人生も大きな意味での『旅』でした。それは見知らぬ土地を訪ねる物理的な旅もあれば、さまざまな興味に導かれてさまざまな分野に広がっていく『知的な旅』でもあります。」
 「旅の意味をもう少し拡張して、人の日常生活ですら無数の小さな旅の集積ととらえるなら、人は無数の小さな旅の、あるいは『大きな旅の無数の小さな構成要素』がもたらす小さな変化の集積体として常住不断の変化をとげつつある存在といってよいでしょう。」

 「人は集積体である」と言われれば、「なるほど、一日一日を大事にしなきゃなぁ」と思いますが、立花さんだから集積するのであって、普通の人の場合、集積する前に忘却してしまうのではないかとも思います。立花さんなら知的な旅と言えるものも、私のとっては足踏み、あるいは後退にならざるを得ないような気がします。でも、それだからこそ、立花さんのような方の存在意義があるのであって、惜しい人を亡くして残念です。

 立花さんが臨死体験をテーマにした時、「脳科学の最新の知見を踏まえて、臨死体験は死後の世界体験ではなく、死の直後に衰弱した脳が見る『夢』に近い現象であることを科学的に明らかにした」と、「知の旅は終わらない」で振り返っています。また、そのことで「結局、死ぬというのは夢の世界に入っていくのに近い体験なのだから、いい夢を見ようという気持ちで人間は死んでいくことができるんじゃないか。そういう気持ちになりました」と述べています。果たして、立花さんはどんな夢を見ながら旅だってゆかれたのでしょうか。

いい仕事をしたからなんだ

2021-06-11 21:09:18 | Weblog
 「今夜の酒はおいしい、どうしてなんだろう。あ、そうか、今日一日いい仕事をしたからなんだって」
 そう語る俳優・岸谷五朗の手には「バランタイン17年」。芝居の世界に入って37年、今も酒と共に自分を省みることを忘れない。ベテランと呼ばれるキャリアを誇りながら、まだ道の途中だという。

 本日の朝日新聞朝刊に載っていたサントリーの広告は、このようなコピーで始まります。今日一日いい仕事をしたから、お酒がおいしいんだって言うけど、のらくらした日だろうが、遊び呆けた日だろうが、お酒はおいしいもんだ、私はそう思いました。だからまだ道の途中なんだ、甘いなぁ、こっちはもう道の終わりだ、そうも思いました。ただ、この広告を見て、バランタインを買ってしまいました(17年ではなくファイネストですが)。今夜の晩酌はバランタインのハイボール。いい仕事をしましたね、岸谷さん。

危機の宰相

2021-06-09 21:02:07 | Weblog
 危機に際して、リーダーがちゃんと手を打ち、無事切り抜けられれば、それはまことに結構ですが、そうではない時、いったいリーダーはどうするのでしょうか。ひとつには、上手くいかないこと、そのこと自体でさらに危機感をかき立て、「だからこうしなければならないんだ!」と新しい策を提示して、リーダーとしての存在感を高めることがあります。前の不首尾を自分とは切り離し、それをみんなに意識させない絶妙の振る舞い、テフロン加工のように汚れを残さない人がいます。処世術と次々と出てくるアイデアで、「今」に釘付けにすることで批判をかわしていくパターンです。

 上手く対処できないケースのもう一つのあり方は、上手くいっていると言い張る、または実態と異なる認識へ人々を導く言葉の詐術で切り抜けようとする場合です。ミッドウェー海戦の大敗による退却を「転進」と言った例などが、それに当たるでしょうか。これはただの時間稼ぎに過ぎず、いずれは見切りを付けられてしまいます。リーダーを支えるはずの身内からも見放されてしまうと、もう「バンザイ」するしかありません。

 さて、今日の朝日新聞朝刊で在仏ジャーナリスト・今井佐緒里さんは、コロナ下における政治家の国民に対する姿勢の違いをフランスと日本を比較しながら述べています。「具体的な数字を示し、時には表を使いながら、政府の方針と指示についてわかりやすく説明」するマクロン大統領、このスタイルからは、「『状況は細部まで把握している』という毅然とした姿勢と、『自分たちが責任をとる』という強い意志が感じら」れるそうです。

 一方、今井さんの日本の政治家に対する見方はどうでしょうか。「政治家本人から聞いても聞かなくても、同じような言葉の繰り返しにしか思えません。ひとごとのように聞こえることもあります。官僚が書いたものを読み上げているからでしょうか。」厳しいご意見です。

 ネットを見ると、菅総理や菅内閣の閣僚に対してテレビの出演者が「ここが変だ」と述べたこと、そのコメントがニュースとなって流れています。それを見て、「そんなことを言ってたんだぁ」と政治家の発言を初めて知るのは、政治家の発信力が弱さの証左として、それはそれで哀しいことであります。